1.『さらさ』のクラフトマン
ここは宝石店『さらさ』。宝飾品に対するわたしの苦手意識が働かない不思議なところ。わたしがこれから初出勤する新しい職場。
期待よりも不安が大きいけれど、ここまで来てしまった。行くしかない。ここに入れば、看板猫のさっちゃんが出迎えてくれる。そう自分を奮い立たせよう。
よし、行こう!
決意を新たにして二重扉ふたつ目のドアを開けると、タツキさん――宝石店『さらさ』専属の宝飾品加工職人――がドアの陰に立っていた。
ものすごくびっくりした。何でそんなところにいるんだろう。
表情の乏しい長身美丈夫がそんなことすると、本当にこわいからやめて欲しい。せめてもっとにこやかに。表情筋探しならお手伝いするから。
「椎野サン、これ」
引いているわたしに構いもせず、タツキさんはクッショントレイを差し出してきた。
トレイの上には、一センチ大のペンダントトップ。表面がマットに仕上げられた、バラ彫りのローズクオーツだ。それと、ピンクゴールドのベネチアンチェーン。
「わたしのネックレス……」
「お直しは済みましたんで、チェックお願いします」
「あ、はい」
もしかして、これを渡すために待ち構えていた? いや、こわいことに変わりはないんだけども。
とりあえず、言われたとおりチェックしよう。わたしは気を取り直す。
切れたチェーン、問題なし。ロウ付け箇所は最小限、曲がってもないし、ピンクゴールドなのに色味もまったく違和感なし。ピンクゴールドはプラチナやイエローゴールド、ホワイトゴールドと比べると新しい素材で、メーカーごとにピンクを出す銅の配合率が違うんだそうだ。だから、チェーンやリングのお直しで色を合わせるのが大変だって聞いたことがある。
そして、ペンダントトップ。わたしの星屑はというと。
「おおー」
思わず声に出してしまうくらい、きれいになっていた。
「やっぱり本職さんてすごいですね。隙間に入り込んでた汚れがなくなってる」
トレイの上でためつすがめつ転がしながら、わたしはペンダントトップのチェックを終えた。
どうやってきれいにしているのか、今度教えてもらおう。気になるし。
「じゃ、さっそく着けてみたらどうスか。『さらさ』の従業員ぽくもなりますし」
「あー、そうですね」
ん。という感じで、タツキさんがトレイをこちらに差し出した。
ここで着けろってことかな……?
わたしは戸惑いながら、チェーンをペンダントトップに通す。そのままチェーンの端を両手で持ってうなじに回し、引き輪の出っ張りを爪で引っかけて輪を開け、プレートの穴に通し――
すかっ。感触を言葉にするとそんな感じだった。引き輪がプレートの穴に引っかからなかったのだ。
格好がつかない……。
「……」
留め具を首の前に回せばもっと簡単に着けられる。そう頭でわかっていても、わたしはなぜか意地になった。
すかっ。すかっ。
静かなチャレンジは回数だけを重ねていく。
「もしかしなくても、手間取ってますよね?」
さすがに感づかれたか!
「あともう少しだと思うんです……」
「いや。ちょっと貸してください」
言うが早いか、タツキさんはわたしの手から自然にネックレスを受け取り、トレイに載せる。
「カウンター行ってください、鏡あるんで。で、それをこっち向けて、椎野さんは鏡見てもらって」
カウンターに連れて行かれたわたしは、店内に置かれた鏡のひとつに向き合わされる。タツキさんは、ネックレスを載せたトレイをカウンターに置いた。
ショーケースを兼ねているガラスのカウンターには、趣味のいいヨーロピアンジュエリーが並べられている。
ダイヤモンド、色石、ネックレスやリングが様々さまざま。
素敵だなあ。クリーニングするの楽しそう。
そんな風に気を取られていると、
「じゃ、ちょっと失礼」
鏡の余白にタツキさんが映った。いつの間にか、わたしのうしろに立っている。
そして、わたしの眼前を下に通り過ぎるピンクの星屑。視界に入った大きな両手。
あれ、これって。
「っと、ちょっとじっとしててください。今着けてますんで」
なぜか、タツキさんがわたしにネックレスを着けてくれている。チェーンが首筋をくすぐって、うなじから数センチ離れたところに熱源。
なんだ、この状況は。
「できましたよ」
石像みたいに固まったわたしとは対照的なタツキさん。後頭部斜め上から、抑揚に乏しいけれど響く低音が聞こえてくる。
まずは落ち着こうか。ここは宝石店、この人は従業員。
ジュエリーというものは、服みたいに試着を勧めるもの。だけど、試着の手を動かすのはお客さまじゃなくて従業員。
わたしだって前の職場でやっていたことだ。タツキさんだって慣れていることだろう。
落ち着こう、落ち着こう。
「大丈夫っスか?」
「いえ、はい。無職期間中に人との接し方を忘れまして」
「難儀っスね……」
若干憐れまれた。
それより、今気づいた。
「鏡、最初から使えばよかったですね……」
カウンターの向こう側からさっちゃんがジャンプしてきて、にゃー、と鳴いた。