3.バラの「星屑」
こつんと音を立てて、ガラステーブルに落ちたもの。それは、細かなバラ彫りとつや消しを施された、ピンク色の小さな石。わたしが服の下に着けていた、ネックレスのペンダントトップだ。
一瞬遅れて、首からチェーンが滑り落ちていく感覚。
ネックレスのチェーンが切れた。よりによって、こんなタイミングで。
「ローズクオーツかしら?」
女店主が白い手袋をはめ、ジュエリー用のクッショントレイにペンダントトップをそっと載せる。普段からジュエリーを大切に扱っているだろう、優しい手つき。
「チェーンも出してくださる?」
わたしは言われるままに、服の裾から切れたチェーンを取り出してトレイに置く。そこに、視界の外から筋肉質な腕がにゅっと伸びてきて、わたしのチェーンを手に取った。
「K18刻印あり、ベネチアン。色味からするとピンクゴールドっスかね。ちょっと細いけど、作りはしっかりしてる。どうします、お直しは」
ぶっきらぼうともとれる口調で、ループタイの男性はわたしを見ている。
「タツキくん、急に人のお品を触ってはダメよ」
ごめんなさいね、と女店主はわたしにひとこと詫びた。
「ソレを言うなら店長」
「かの子さん」
「……かの子さんも急ぎすぎじゃないスか。人手不足だからって」
いくら招き猫のお導きでも。と、男性はそっとチェーンをトレイに戻した。
「ところで、申し遅れました。私はこの宝石店『さらさ』店長、犀川かの子といいます。彼は当店専属のクラフトマン、タツキです」
「クラフトマンの天野竜樹っス」
「あ、わたしは椎野ユキです……」
軽く会釈をするふたりにつられて、わたしも名乗る。
いや、わたしは必要なかった、よね?
気を取り直して、わたしはトレイの上のペンダントトップと切れたチェーンを見る。
小指の爪ほどしかない、小さく繊細なバラ彫りのローズクオーツ。
わたしの、初めての星屑。
「そのペンダントトップ……」
クラフトマンの男性――タツキさん(て、お呼びしていいものだろうか)が口を開いて、「いや」と言いかけ何かをやめた。飲み込んだ。
何だろう?
わたしがそれについて問いかける間もなく、
「ところで、チェーンのお直しなんスけど、うちだとこれくらい」
カタカタっと、タツキさんは電卓に叩いた数字をわたしに見せる。これはちょっと、正直……かなり魅力的なお値段だった。女店主が「従業員価格だともっとお得よ」と、さりげなさを装ってくる。
だからといって、それで就職を決めるわたしではない。
「あの……。何か、急ぐ理由ってあるんですか?」
いやいや、それよりもわたしにこだわる理由が知りたい。話の流れ上、聞き直せないけども。
そんなわたしの心中なんて伝わるはずもなく、「それはね」と、女店主が人差し指を立てる。きれいに塗られたボルドーのネイルが艶やかに光った。
「さっちゃん――サンドラのことね――は、招き猫なの」
招き猫。タツキさんも言っていたっけ。
「幸せを呼び込むの。お店にとっても、私たちにとっても」
そして、呼ばれた人にとっても。女店主は付け加えた。
さっちゃん(わたしもそう呼ばせてもらおう)はかわいい。かわいい猫がいることは幸せだ。つまり幸せを招く招き猫だ。それは疑いようもなく納得できる。
でも、それとこれとはどうつながるんだろう?
「ひとり抜けると、さっちゃんがひとりぼっちになるの」
聞き流せない言葉だった。
「宝石店『さらさ』――『さらさ』は見ての通り小さなお店で、従業員は私とタツキくんと、今度抜けるひとりの三人とさっちゃんだけ。三人交代でさっちゃんのお世話をしながらお仕事していたのだけど、私とタツキくんだけだと、お仕事しながらさっちゃんのお世話は難しいわ。このまま人が雇えなければ、後ろで――」
「前向きに考えたいと思います!」
女店主かの子さんの言葉を遮って、わたしは言葉に力を込めた。前のめりに。
このままだとさっちゃんが街中をさまようことになるかもしれないなんて、そんなのダメ、絶対!
「詳しいお話、聞かせてください!」
なー。と、膝の上のさっちゃんが鳴いた。
女店主は一瞬、目をしばたたかせた。そしてゆっくり笑顔を浮かべ、
「よかったわ。これでさっちゃん、後ろでお留守番しなくてすむわね」
さっちゃんに話しかけた。
ん?
「お留守番……?」
「そう。さっちゃんは人が好きだから、バックヤードでお留守番させると寂しそうにしてるのよ」
あれ、わたしが想像していたのと違うな……?
何も言えずにいると、
「それはそれとして、このジュエリー、どうしたんスか」
タツキさんが話を切って、わたしを見てくる。
こわい、無表情こわい。眼力すごい。美丈夫の迫力すごい。
「タツキくん、言い方」
「っと。石の彫りも細かいし、石留めの台も透かしが入っていて繊細っスよね。どこで手に入れたんスか?」
タツキさんが、綿手袋をはめた手でペンダントトップをそっと裏返してわたしに見せる。
一センチくらいのローズクオーツを留めているのは、桔梗を思わせる形をした六本爪の台。K18刻印あり。ピンクゴールド――色が出るように、銅を溶かし込む配分を変えた地金――のその台には、レースみたいな透かしがふんだんにあしらわれている。
宝飾品業界に関わったからこそよくわかる、すごく精緻な技術を要する品だ。
宝飾品加工のプロであるクラフトマンとしては、気になるところらしい。
「人からのもらいもの……の、はずですけど……」
「の、はず?」
タツキさんが短く問いかけてくる。わたしはわずかに目線を外す。
この人、眼力すごくて……。だって、さっきから瞬きしてないんじゃない?
「たぶんもらいものなんですけど、くれた人と状況なんかが曖昧で……」
「まあ、過ぎ去った恋のお話かしら」
かの子さんが両手で口元を隠して、目を輝かせる。
かの子さん、とタツキさんがたしなめた。
なんとなく、このふたりの力関係が見えたような気がする。
「じゃあ、このまま話を聞いてもらって、納得してもらえたら契約って流れでいいんスかね」
「そうね、雇用条件も詳しく説明するわ。お仕事の内容にはもちろん」
さっちゃんのお世話も入っています。
そのひと言が最後のひと押しになった。
給与や勤務時間などなどを確認し、わたしはその場で簡単な履歴書を書いた。
学生時代にとった資格がプラスに見てもらえて、ちょっとした手当をもらえることにもなった。
ただ、経験者とはいっても、接客に(というか、マダムなお客さまに)苦手意識があるということを正直に話した。
「なら、しばらくは見習いさんとしてお手伝いしてもらうわね。星屑さらさは慌ただしくなることはあまりないから、一緒にがんばりましょう」
かの子さんが、大人の笑顔でそう言った。
「じゃ、こちらのチェーンは修理」
「お直し。ね、タツキくん」
「……お直しのお預かりでいいっスね?」
タツキさんが電卓で示してくれたお直し金額|(従業員割引済)に「はい」と返事をして、依頼伝票の控えを受け取る。
「せっかくなんで、ペンダントトップもクリーニングしときますよ。自力でだいぶきれいにしてるけど、細かいところはやりづらいと思うんで」
いいっスか? と目で尋ねてくるタツキさんに、頷きで肯定を返す。
タツキさんは切れたチェーンとペンダントトップが載ったトレイを持ち上げて、
「……」
やっぱり気になるのかな、わたしのペンダントトップ。じっと見つめているように見えた。
「じゃあ、明日には渡せますんで」
「明日来られるなら、これからの出勤日も決めましょう」
「……はい、よろしくお願いします」
なー。と、わたしたちの真ん中にいるさっちゃんが鳴く。
ふらりと立ち寄った宝石店で、わたしの無職期間は思わぬ形で終わりを告げることとなった。




