10.薔薇貴婦人の庭
今日もまた、梅雨どきの貴重な晴れだった。
何時間か前ににわか雨が降ったけど、それから急に晴れてむしむしと暑い。
わたしは『さらさ』からお使いに出されていた。この、水滴できらきらと着飾ったバラに囲まれた庭へ。
「暑いでしょ? 最近の夏はひどいんだからぁ、遠慮せずに飲んじゃってねぇ」
独特に間延びした口調で、上品なマダム――「普段の」ナリガネさん――は、麦茶を勧めてくれた。
ナリガネさんらしく、高級そうなカップにはバラの絵柄が踊っている。
「ありがとうございます。いただきます」
わたしは遠慮しなかった。せっかく用意してもらったものだし、それに、本当に暑いし。ナリガネさんだって、自宅の庭で倒れられたら迷惑だと思う。わたしも倒れたくない。
喉を通る麦茶は、冷たくて、とてもおいしかった。
「それ、似合ってるじゃなぁい?」
ナリガネさんがふっと笑う。ボルドーより明るめの口紅を引いた唇が、弧を描いた。
「若い子でも、やっぱりネックレスだけじゃ寂しいと思ってたのよねぇ」
「ありがとうございます」
わたしはちょっと照れてしまった。褒められ慣れてないからなあ……。
無意識に、耳たぶのピアス――新しい、ローズクオーツの星屑――に触れる。
「そういえば、青いバラを」
「この間のブルームーンかしらぁ」
「はい。とっても、きれいでした」
わたしの『さらさ』復帰日、実は誕生日だったあの日。閉店前に差し入れられた青いバラ、ブルームーン。
青いといっても真っ青じゃない。青みがかった、薄く優しい紫色。
「まだ真っ青なバラはなくてねぇ。こういう紫のものを青って言うのよぉ」
ナリガネさんの視線の先に、青い蕾をつけたバラが植えられた一角があった。これからきれいに花を咲かせるんだろうな。
「椎野ユキちゃんはもう、大丈夫なのかしらぁ?」
「あ……」
そうだ。わたしがアレルギーをぶり返して以来、お会いするのは初めてだ。
バラに見とれて忘れてた……。
「先日はすみませんでした。休みをもらったので、もう大丈夫で――」
「宝石、もう平気かしらぁ?」
「……はい。なので、ナリガネ様。お好きなジュエリーをお着けください」
華やかな装いが好きであろうナリガネさんは今、ひとつもジュエリーを身に着けていない。思い出のジュエリーだって、ナリガネさんにとっての星屑だって、あると思うのに。
「椎野ユキちゃんが来てくれるって聞いたから外したんだけどぉ、そういうことなら、心配しすぎだったかしらねぇ」
ほほほほほ。ゆったりとした笑い声。
「それとは別に、来てくれるのを楽しみにしてたのよぉ」
「はい。ご確認ください」
わたしは持ってきたバッグから、クッショントレイと鍵付きの小さなジュラルミンケースを取り出す。鍵を開けて、チャック付きのナイロン袋から取り出した品をクッショントレイに置く。綿手袋をはめて、クロスで軽く表面を拭いてから並べた。
「お預かりしていたペンダントトップと指輪、ピアス、リフォーム終わりました」
透明な黄金色の中できらきら光る、七色の光、遊色。
半球形に磨き上げられた楕円の石は、現代的なデザインの金色台に収まっている。横に並べた、小さな半球形のピアスふたつと、大きな指輪も。そして、新しくお買い上げいただいたイエローゴールドのベネチアンチェーンも。
これは、ナリガネさんが『さらさ』に持ち込んだジュエリーだ。
石を外して、台座やチェーンの貴金属を下取りして、新しいジュエリーに作り替える。それがリフォーム。
「あたくしのメキシコオパール、きれいになったわねぇ」
「クリーニングで取りきれなかった汚れも、タツ……クラフトマンがきれいに磨きました」
ナリガネさんが嬉しそうに目を細める。ペンダントトップ、ピアス、指輪と順番に手に取って、わたしが用意したルーペであちこちを覗いている。
「あたくしは詳しいことはわからないけどぉ、天野竜樹くんの仕事は丁寧よねぇ」
「店に戻ったら伝えますね。きっと喜ぶので」
ああ見えてタツキさん、褒められるとちょっと浮かれるんだよね。よく観察しないと、喜んでる様子はわからないけど。
「じゃあ、着けてくださるぅ?」
「かしこまりました」
ジュラルミンケースから取り出した折りたたみ鏡を、ナリガネさんの前に立てる。
ペンダントトップに、真新しいベネチアンチェーンを通す。石の大きさに負けない、太めのベネチアンチェーン。
「後ろから失礼します」
わたしは、留め具を外したネックレスをナリガネさんの後ろから着ける。スライドチェーンの端を引っ張って、長さを調整。
「この長さでいかがでしょう?」
「いいわよぉ。ピアスもお願いねぇ。指輪は自分でやるわぁ」
ナリガネさんは指輪を手に取る。わたしはピアスを。ピアスキャッチを外して、そっとナリガネさんのピアスホールに差し込んで、着ける。もう片方も同じように。
「イヤリングの方が着け外しは簡単だけどぉ、耳が痛くなるのよねぇ」
「プラチナやゴールドって、重いですもんね」
「そうなのよぉ。ピアスに比べて種類も少ないしぃ。それに……お高いしねぇ?」
ピアスはなくしやすいけどねぇ。と、ナリガネさんは笑った。耳元のオパールが、髪をかき上げた指のオパールが、わたしを振り向いた首元のオパールが。中に閉じ込めた色を躍らせる。
「すてきです」
「ほほほ、ありがとうねぇ。これ、夫がくれたのよぉ」
ナリガネさんは懐かしむように目を細めて、オパールのジュエリーたちを見る。
「とぉっても嬉しかったし、よく着けてたわぁ。でもぉ、オパールって乾燥に弱かったり、超音波洗浄できないじゃなぁい? 気をつかうし汚れも取りきれなくなってきちゃって、しまいこむようになっちゃったのよねぇ。お店に持っていって任せればいいってことはなんとなくわかってたんだけど、ほらぁ、あるじゃなぁい?」
ユキちゃんならわかりそうねぇ。と、ナリガネさん。
「あたくしもねぇ、苦手だったのよぉ。色々とオススメされるのって」
「え……そうだったんですか?」
「まあねぇ。欲しいものがあるときはいいけどぉ、ただ見て回りたいときもあるじゃなぁい?」
わかります。
まあ、わたしはだいたいが「ただ見て回りたいとき」なんだけど。先立つものがないからね!
「むこうも仕事だからってわかるんだけどねぇ、今なら、だけどねぇ。あたくしとは合わなかったんだってことぉ」
「合わなかった……」
「そうよぉ。だから、『さらさ』さんを見つけたときは、本当にうれしかったのよぉ。おかげで、あたくしの大切なジュエリー……星屑、だったかしらぁ? 預ける気になったものぉ。夫にも久しぶりに見せてあげられるわぁ」
忘れちゃってたらどうしようかしらぁ。ほほほほほ! と、ナリガネさんは笑った。豪快に。
「だからねぇ、椎野ユキちゃん」
ナリガネさんは立ち上がった。手には、ポストカードのようなものを持って。
「まだ社会に出たばかりで大変だと思うけどぉ。宝石ってきれいだし、思い出とか思い入れと一緒に輝いたりもすると思うのよねぇ。椎野ユキちゃんは『さらさ』が好きかしらぁ?」
「わたしは……」
「答えなくてもいいのぉ。犀川かの子さんと天野竜樹くんに助けてもらったり教わったりしながら、ステキなお仕事のしかたを探せばいいんじゃないかしらぁ」
「……わたし、は」
「それでねぇ?」
ナリガネさんの目が光る。
え、と思う間もなく、わたしの手にポストカード、いや、写真が握らされる。
ちらりと見えた写真には。「バブル期」をイメージさせる装いのマダム、マダム、マダム……ひと目では数えられないほどのマダム!
そのマダムたちが、横並びのスワンボートに乗り込んで、不敵な笑みを浮かべている。
これは、これは……!
「この前の漕ぎっぷり、よかったわよぉ。伝説の『カノコ』に迫れる逸材だと確信したのよぉ。いつかは『マダム会』にいらっしゃいねぇ」
「し、失礼します! 麦茶、ありがとうございましたっ!」
脇目も振らず大急ぎ、もちろん振り返ることなんてしない。わたしは転がるようにナリガネ邸をあとにした。
なんとか『さらさ』に逃げ帰ってきたわたしの足元に、はらりと何かが落ちた。
わたしの口から、「ひっ」という声にならない声が出る。
写真だ。「マダム会」の会合写真だ。
「あら。あらあらあら」
それを優雅に拾い上げたのは、『さらさ』の女店主であるかの子さん。
……かの、こ……?
「みんな『正装』しちゃって、元気そうねえ。私も久しぶりに引っ張り出してこようかしら」
伝説の座はまだ渡さないわー。
鼻歌を歌いながら、かの子さんは店の奥に消えていった。
かくして、わたしの宝飾品とマダムに対するアレルギーは、いくらかなりをひそめたのだった。




