7.六月のローズクオーツ(前)
休みをもらって四日目の夜。わたしは、自分の部屋で電話をかけている。
『そう。元気そうでよかったわ』
「はい。ご心配おかけしました。かの子さんは体調どうですか?」
『私も大丈夫よ。ちょっと冷えちゃっただけみたい。ありがとうね』
電話口の相手は、宝石店『さらさ』店長、かの子さん。声は元気そう。
わたしは静かに深呼吸して、意を決して、
「あの、かの子さん。わたし、もうお店に戻ってもいいですか?」
よかった、言えた。
どきどきする胸を押さえて、ほっと息を吐く。
『お店にって……、こちらとしては歓迎だけれど。ユキちゃんは大丈夫なの?』
宝石やマダムを前にしても、アレルギーは出ないの?
声に出さずに、そう続けられたような気がする。
心配、ごもっともです。
でも。
「大丈夫です。考える時間は、ありましたから」
『考える時間、ね』
「はい。今までちゃんと考えたことがなかったんです」
どうして、好きだった宝石がダメになったのかとか。
どうして、マダム――年配のご婦人が苦手なのかとか。
「それに」
『それに?』
「早く、早くさっちゃんに会いたいんです!」
店に出られなくなっていちばん残念だったのは、さっちゃんに会えないことだった。
実家まで行けば愛しのにゃんこがいるけれど、けっこう遠いからなあ。
ふかふか……ふかふかのさっちゃん……。
わたしは想像でさっちゃんのにおいを嗅ぎ取った。
『わかったわ。じゃあ、明日閉店するくらいに来てちょうだい』
「閉店するくらいに、ですか?」
『そうよ。復帰直後にフルタイムじゃあ、キツいかもしれないしね』
なるほど。さすがかの子さん、考えてくれているんだ……。
「ありがとうございます。じゃあ、明日」
『ええ。おしゃれしてきてね。いつものネックレスも忘れずに』
「はい!」
そして通話を終えた。
明日からまたがんばらないと!
翌日、夕方。明るい夕空の向こうに黒い雲。
わたしは宝石店『さらさ』の前に立っていた。
レンガの壁を這い上る蔦草に、プランターから生えるグリーンカーテン用の朝顔。
たった数日来なかっただけなのに、なんだかよそよそしい雰囲気を感じてしまう。
ううん、違う。
よそよそしいのは『さらさ』じゃなくて。近寄りがたさを感じるのは、緊張しているのは、わたしがそう思っているから。
お守りの星屑に触れてから深呼吸をひとつ。わたしはドアのノブを押し開けた。
カラランとドアベルが鳴る。
柔らかいドアマットを一歩踏んで、目の前に広がるのは見慣れた店内。焦げ茶色の内装と、優しい明かりの落ち着いた空間。心持ち静かに、ドアを閉める。
まだ閉店まで少しあるはずだけど、かの子さんとタツキさんはどこにいるんだろう。
そう思って横を向いたとき。わたしは目が合ってしまった。
商談用の丸テーブルで、前足を胸の下に折りたたんで座りこむ、「香箱を組む」という姿勢のさっちゃんと。
そんな、リラックスしているときでしかしない姿勢なのに、どことなく恨めしさを乗せた緑の目と。
まるで浮気を問い詰めているような、真ん丸な瞳と。
「さっ……ちゃん……」
さっちゃんは動かない。香箱を組んだまま。リラックスポーズのはずなのに、緊張感をみなぎらせて。
さっちゃんは目を閉じない。猫は瞬きの少ない生き物だけど、わたしは今ものすごく凝視されている。
さっちゃんは何も言わない。「なー」も「んにゃっ」も何も言わない。
これはもしかして、もしかしなくても。
「お怒りに、なってらっしゃる……?」
さっちゃん、さっちゃん……!
「あら、思ったより元気そうね」
さっちゃんとの緊迫した空気を割るように、店の奥から声がかけられた。
さっちゃんが立ち上がって、軽い足取りで走っていく。
すりっと足元に寄ってきたさっちゃんをなでるのは、女店主かの子さんだ。
かの子さんはいつも通りに上品な雰囲気で、身に着けているジュエリーも……。
わたしは思わず身構えてしまう。でも。
「タツキくんが言ってたこと、本当みたいね。今日はタツキくん制作のジュエリーなのよ」
アレルギーは、出なかった。
銀色のチェーンと台に、大粒の石、周りを囲むメレダイヤ。
華やかだけど派手じゃなくて、かの子さんにとても似合っている。
「あの、先日はすみませんでした」
ほっとしてから、わたしは頭を下げた。
とんっと、背中に音のない衝撃と重み。そして座り込まれる感触、暖かさ。
「それは後にするとして。ちょっと早いけど、今日はもうお店閉めちゃうわね。ユキちゃんは先にバックヤードに行っていて」
「あの、あの」
「そのままさっちゃんも連れて行ってね」
にこりと笑ったであろうかの子さんが、そのまま閉店作業に取りかかる気配を感じた。
わたしは折り曲げた腰を戻すこともできずに、背中にさっちゃんを乗せたまま、じりじりとバックヤードに移動するしかなかった。
腰を折り曲げたまま、バックヤードへのドアを開ける。
誰かがいる。その誰かはあの人しかいない。
「……何やってんスか」
床しか見えないわたしの視界に大きな靴が現れて、背中が軽くなる。
腰を伸ばしながら、あるべき直立の姿勢に戻ると、『さらさ』の美丈夫タツキさんがさっちゃんを抱っこしていた。あごに、さっちゃんの額が激しくすりつけらている。
「ありがとうございます。さっちゃんから愛あるおしおきをされていまして」
「つまり椎野サンは元気なんスね。あっち座っててください」
いつものぶっきらぼうさで流されてしまった。さびしい。
「俺は準備してるんで」
ほら、早く。タツキさんはそう言って、さっちゃんの前足でわたしの頬をぺちぺちしてくる。
よくわかってるじゃないですか、わたしの扱いを……。さっちゃんはゴロゴロと喉鳴らしてるし。
何秒かの肉球ぺちぺちのあと、タツキさんはさっちゃんを下ろして、
「いいから座っててください。席はあそこで」
と指さした。テーブルの一番奥の席を。なんだか飾られている席を。
あの様子は、なんというか……。
「……」
「コレ、かぶりますか?」
止まってしまったわたしに差し出されたのは、ラメラメした紙で作られた円錐形。先端にはキラキラしたフィルムの房が付いている。
これはあれだ。パーティーとかでかぶっているイメージのうかれ帽子。
「はいはい、行った行った」
固まったまま動かないわたしに痺れを切らしたらしいタツキさんは、わたしの背を押していく。そのままイスに座らされ、膝にはさっちゃんを乗せられ、ついでのように頭にうかれ帽子を置かれ。
カシャ。
仕上げとばかりにスマートフォンで撮影されてしまった。
タツキさんはどこか満足げに頷いて、うかれスタイルのわたしとくつろぎモードのさっちゃんを残し、何かの準備に戻ってしまった。




