1.突然の嵐、もしくはゲリラ豪雨
梅雨の気配を感じる六月。またの名を水無月。
アジサイの色見本が映える季節。
今日は小雨。お客さまの入りも少ない。
わたしはショーケースを拭いたりさっちゃんを撫でたり、いつも以上にのんびりと仕事をこなしていた。
位置を直した店内POPには、今月の誕生石のことが書いてある。
六月の誕生石といえば、ムーンストーンと真珠。
そして、真珠といえば。社会人女性の必需品、真珠のネックレスセットだ。
世の中の女性が真珠を手に入れる方法としては、だいたいふたつに分かれるんじゃないかと思う。
身内から譲られるか、成人の節目に贈られるか。
わたしの場合はそれ以外。自分で購入した。
両親は宝石にさして興味がなかったから、母から譲られるということもなく。わたし自身も、「成人という節目に用意する」という発想にすら至らなくて、前職でセールのときに買い揃えたのだ。従業員割引で。
今までは使う機会がなかったのだけど、深月さんや学生時代の先輩たちによると「ぼちぼち結婚式や謝恩会に呼ばれるようになる」らしい。そんなときに身につけるものとして便利なのだそうだ。
それに、
『タツキとユキちゃんも、予定が合えば呼ぼうと思ってるんだ。結婚式』
深月さんたちの言葉が思い出される。
まさか呼ばれるなんて想像もしてなかった。というか、そんな「概念」自体が頭になくて。
後日、改めて聞かれたときには、「よこ……喜んで!」と、めちゃくちゃ噛みながら返事をしていた。
用意、しておいた方がいいよね……。
家にしまいこんであるはずだから、夜にでも探してみようか。
仕事を終えて、帰宅後の自室。
あちこち探してみたところ、見覚えのある白い箱を見つけた。
ふたを開けると、グレーのベロア生地のケースが入っている。これがわたしの真珠セット。買って以来ほとんど開けてないけれど、中にはネックレスと、ひと粒ピアスが入っているはず。
ケースを取り出して開けてみると、
「あー……」
ケース内に転がる、真珠光沢を持った白い玉。ネックレスのワイヤーが切れて、真珠がケース内に散乱していた。
明日、タツキさんにお願いしよう……。
ふたを閉めて箱にしまい、そのままバッグへ入れた。
翌日、開店間際の『さらさ』の店頭にて。わたしはベロア生地のケースを開けて見せた。
「あらあら、見事にバラバラねえ」
かの子さんは、なにか微笑ましいものを見るかのように。
「玉、小さいっスね。でも椎野サン小柄だから、ちょうどいいのか」
タツキさんは綿手袋をはめて、バラバラになった真珠をひと粒手に取る。そして、わたしの鎖骨ぎりぎりまで近づける。
びっくりした……というか、またですか! ちょっとは異性との物理的な距離を考えましょうね!!
そんなわたしの内心なんて気にしていないだろうタツキさんは、ジュエリー用のクッショントレイを取り出して、元はひとつながりだった真珠たちを全部そこに転がした。
「ワイヤーがここで切れてます。俺に見せたってことは、糸替えでいいんスよね」
断定口調。まあ、そのつもりだったからいいんだけども。
わたしが頷くと、
「オールノットっスか」
「ぐいぐい来ますね……」
オールノット。絹糸で、ひと玉ひと玉の間に糸で結び目を作る方法だ。メリットは、どこかが切れてしまっても玉がバラけないこと。もしものとき、紛失する数が少なくてすむ。加工の手間がかかるから、お値段と期間はちょっとかかることになる。
ちなみに、留め金から両端三玉くらいのあいだに結び目を作るものをサイドノットと呼ぶ。先日、深月さんのお母様のお品を直した加工法だ。
それはそれとして。
「どうしようかなって、思ってます」
前職の店舗に来た出張展示品だから、ものはそんなに悪くはないはず。でも、鑑別書がつくような品ではなし。
タツキさんが言った通りわたしは小柄で、玉は小さめ。6.5mm〜7mmなんて、ほとんど店頭で見ないしなあ。
「糸替えって、二、三年ごとでしたよね」
「そのくらいを目安にしてもらうと安心ね」
もちろん、着けたあとはやわらかい布で拭くのよ。かの子さんはそう続けた。
真珠層は汗や皮脂に弱いのだ。放っておくと黄ばんでしまう。
「この前、実際に着けてみましたよね。どうでしたか」
タツキさんが、声量のわりにはよく通る声で。
そう。たしかに、先日なぜかマネキンのごとく試着させられた。
しっとり、柔らかに肌に沿った真珠の連。
あの感じだったら……。
何を考えているかわからない笑顔を浮かべたかの子さん。何も言わないタツキさん。きりりとした表情で、トレイに転がる真珠に前足を伸ばすさっちゃん。
タツキさんが、さっちゃんを抱き上げて近くに下ろした。
「で、椎野サン。決まりました?」
「うーん。オールノットで、って言ったらどうします?」
「……」
あ、微妙な顔。さっきは自分で言ったのに。
冗談は通じない感じかな?
「わかりました。精魂込めて、きっちりみっちり結びますんで」
「あ、待って待って! サイド! 絹糸のサイドノットでお願いします!!」
ほとんどすがるようにしながら、わたしはタツキさんに糸替えをお願いした。
もちろん、従業員価格で。
こうしてバラバラの真珠たちは、当店自慢のクラフトマン預かりとなった。
腕はしっかりしているタツキさんだ。先月の深月さんからお預かりしたお品のように、きれいに仕上げてくれるだろう。
そこは信用して、わたしはゆるやかな日常を続けていく。
そう思っていた。油断ではなく、心から。
◇
梅雨の天気が変わりやすいように、「そういう日」、というものがあると思う。
今日の『さらさ』では……。
わたしにとって、「天敵」と出会ってしまう日だった。
この時期にしては珍しく、気持ちがいい晴れ。連日の涼しい気温に慣れた身体には、蒸し暑くて汗ばむくらい。
「では、指輪のサイズ直しでお預かりいたします」
伝票に必要事項を書き込んで、お客さまに控えをお渡しする。
連絡先の確認や、希望する時間帯を伺うことも忘れない。何かあったときに必要だからね。
トレイをカウンター下のスペースに下げて、お客さまのお見送り。終わったら、お預かりしたお品をチャック付きのナイロン袋に入れる。さらに店控えの伝票と一緒に大きいナイロン袋に入れて、「お預かりボックス」へ。
ふう、とひと息つくと、
「ごめんください。指輪のクリーニングお願いできるかしら?」
常連の、上品な老婦人がご来店。わたしの苦手な「マダム」ではない、素敵なおばあちゃまだ。
「いらっしゃいませ」
お出迎えしたら、まずはお茶の用意。そして、かの子さんに目配せ。
このご婦人は、かの子さんとのお話しを楽しみにしている。
「あら、こんにちは。今日はどうしたの?」
自然と入れ替わるかの子さん。わたしは、お預かりした指輪のクリーニングに取りかかる。
洗浄前のチェックで、脇石のメレダイヤ(定義はいろいろだけど、『星屑さらさ』では0.1ct以下の小粒ダイヤを指す)のグラつきを発見。超音波洗浄機にかけずに歯ブラシで磨いたら、すすいだときに別のメレダイヤが外れた。
けっこうよく見る光景だ。クリーニングは、こういう点検も兼ねている。
水気を拭き取り、取れたメレダイヤはセロテープに挟んで閉じ込める。
指輪はクッショントレイの指輪用の溝にはめ込んだ。セロテープで閉じ込めたメレダイヤもいっしょに載せて、楽しげなふたりの元へ。
「あらまあ」
トレイを受け取ったかの子さんは、そのまま老婦人に見せ、
「これ見て。爪が緩んでいたみたいね。石がなくならないでよかったわ」
そこから、爪の緩み直しに石の留め直し、ついでに指輪の歪み直しへと話がとんとん拍子に進んでいく。
とても和やかに。
「それじゃあ、少し預からせてね」
かの子さんはさらさらと伝票を書いて、老婦人に控えをお渡しした。ふたりはそのまま、おしゃべりの続きへ。これが、かの子さんにいいお客さまがついている理由なのかなと思う。
あとの作業はわたしが引き継いで、さっきと同じように「お預かりボックス」へ。
そしてふと気づく。
いつもならタツキさんがちょこちょこ回収に来てくれるんだけど、今日はあまり姿を見かけない。
最近はお直しの品が多いこともあるから忙しいんだろう。でも、タツキさんは作業を早く終わらせるタイプのクラフトマンだ。
どうしたんだろう?
頭に浮かんだ疑問は、次のお客さまのご来店とともに保留された。
いや、保留だなんて生半可なものじゃなく……。
「お久しぶりねぇ!」
店内側の二重扉が勢いよく開けられ、ドア上部のベルが、からがらと暴れ回る。
嵐。もしくはゲリラ豪雨。
そうとしか言えない威容の誰かが、やってきた。




