6.人魚と銀環とプロポーズ
お茶の用意をしようとすると、タツキさんがそっと、ふたりに見えないようわたしの進路を塞いだ。その手に、婚約指輪が載ったクッショントレイを持って。
「持っていってやってください」
小声でわたしに手渡した。
リング差しで輝く、小さな円環を。
ダイヤモンドのファイア。婚約指輪にふさわしい、ちょっと大きめで、とってもきれいなひと粒石。両脇は、人気のピンクダイヤ……ではなく、涼しい色合いのアイスブルーのメレダイヤ。
地金はもちろんプラチナ。シルバーよりも少し鈍い銀色。鏡面仕上げの肌に沿って、店内がカーブ状に写り込んでいる。
「さっちゃん」
かの子さんの声。振り返ると、ローテーブルの真上で、さっちゃんが縦に伸びをしていた。
うん、見事な背骨カーブ!
前脚、後ろ脚と伸びを続けて、我らが看板猫はかの子さんの隣に移動した。じっとわたしを見たあとで。
そうだね。きっと待ち遠しいよね。
「お待たせしました」
ローテーブルの横から、そっと、クッショントレイを差し出す。
注視していたわけではないんだけど、音もなく、空気が塗り変わる瞬間を目にした。
見開かれる深月さんの両目。潤みを増して、小さな銀環だけを見ている。
隣のハルお兄ちゃんも、最初の視線は指輪に。そして、すぐ深月さんに。
「サイズと刻印はどうかしら?」
微笑みを浮かべたかの子さんが促すと、ゆっくり、深月さんの手が指輪を取った。
H to M
内側には、たったそれだけの刻印と、ルビーのシークレットストーン。さっきわたしが確認したように、深月さんも覗き込んでいる。
じっと見つめてから、ハルお兄ちゃんに渡す。ハルお兄ちゃんも、目に焼き付けるように見てから、ふたりで頷き合った。
「じゃあ、サイズ見るね」
深月さんが手を伸ばす。
「貸して」
びっくりするくらい優しい声で、ハルお兄ちゃんがその手を取る。
恭しく、とでも言うのかな。
「結婚してください」
誓いの指輪はしっかり、薬指を飾った。
あら、というかの子さんの声と、細められたさっちゃんの猫目。唖然とするわたしと、後方に感じるタツキさんの気配。
正直に、思ったことを言おう。
ここでそれやる!?
外野の心情は関係なし。深月さんは、後ろ姿からでもわかるほど耳が赤くなっていて、「はい」と小さく声がした。
ピピッ。
突然の電子音。
わたしたちが音源を振り返ると、スマートフォンを構えたタツキさん。
「ごちそーさん」
でも他所でやれ。タツキさんはそう続けた。
「ちょ……タツキ写真」
「いや。動画」
深月さんが絶句する。
くるりとこちらに向けられたスマートフォンの画面は、まちがいなく動画モードだった。画面端に、保存した動画のサムネイルが表示されている。すごくいいアングルの。
「いるよな、ハル」
「家着いたら送ってくれ」
ハルお兄ちゃんは爽やかに返す。
これはヤケじゃない、正気の笑顔だ。
わたしは慄いた。
「サイズや着け心地に問題なければ、そのままお渡しできるわよ」
「えっ、あ……もう!」
左手をハルお兄ちゃんに取られたままの深月さんは、タツキさんとハルお兄ちゃんを何度も交互に見たあと、
「やり直しを要求する!!」
ヤケを起こした。
わかります、深月さん。
口には出さず、わたしはこっそりと同意した。
婚約指輪はクリーニングしたのち、ブランド専用のリングケースとバッグに納められた。
糸替えのネックレスといっしょに受け取ったのはハルお兄ちゃん。深月さんにちくちくと怒られながらも満足そうだ。
「じゃあ、これからやり直しをしてきます」
「最初からそうしてよね!」
深月さんはハルお兄ちゃんの脇腹を小突く。
まあ、怒るよね。
わたしたち三人とさっちゃんでお見送り。店内側のドアが開けられ、ふたりは外へ向かう。
「そうだ、椎野ちゃん」
深月さんがこちらを振り返って、
「ありがとうね」
人魚は報われたから。
そう言って、深月さんはルビーの星屑と絡めた真珠を、指でつつく。
ふたりは『さらさ』をあとにした。店内には、わたしたちだけが残る。
「素敵なディナーになるといいですね」
「大丈夫よ、きっと」
「あいつら基本、バカップルっスからね」
スマートフォンで動画編集をしだしたタツキさんには、軽く蹴りを入れておいた。
次章予告
のんびりとした『さらさ』の雰囲気に慣れてきた「わたし」。
看板猫のさっちゃんもかわいくて、「星屑」たちも見てるだけで安らぐなあ。
だけど、ついに――。
「あら、新しい人? 店員なのにネックレスひとつじゃ貧相よぉ。あたくしのこれなんて……まあ、今じゃ価値が上がって手に入らないんらしいけどねぇ」
耳たぶ、首回り、手首に指を飾るゴッテゴテのジュエリー!
そう、わたしの天敵とも言える存在、「マダム」がついにご来店――!




