1.看板猫とブライダルフェア
ゴールデンウィークを過ぎて、初夏の気配を感じる五月半ば。今日も今日とて、わたしは宝石店『さらさ』、通称『さらさ』にて労働開始。
入口に面した通りを掃き終えて、バックヤードへ戻る。裏口のドアを開けると、我らが看板猫が荒ぶる神と化していた。
だだだ、ずだだだだと床を駆け壁を走り、空中でくるんと身をひねる。首輪のチャームがきらり、緑、赤と色を変えていく。今日はアレキだ。
アクロバティック、そしてアーティスティック。
猫すごい。
うちのおばあちゃんサバ白も、ときどき思い出したように走るんだよね。
さて、看板猫――黒猫サンドラちゃん。通称さっちゃん――は、とたっと華麗に着地をきめた。そして、何食わぬ顔で毛づくろいを始める。
あれだね。さっちゃん、テンション上がったんだね。
竹箒を片付けて、わたしは猫トイレのスコップを手に取った。
勤め始めてひと月。前職よりものんびりとした雰囲気の『さらさ』は、忙しくて頭がいっぱいになることもない。今のところ、健やかな毎日を送れている。
そして今、カウンターにいるわたしの目の前に、さっちゃんが立っている。
わたしから見て左側にさっちゃんの頭。正面に身体側面、右側にしっぽ。今日もふさふさもふもふ、黒い毛並みがつやつやとしている。
おもむろに右手を伸ばし、さっちゃんのしっぽをそっと持ち上げる。さっちゃんは特に抵抗しない。
それをいいことに顔を近づけ、
「……くしゃい」
お手入れしてても「おしり」だもの。嗅いで臭うのは仕方ない。
そしてふと、視線を感じて顔を上げる。バックヤードから出て来たタツキさんが、微妙な顔でわたしたちを見ていた。
どこから見てたの!?
「ちょ、これはっ。あいさつ! 仲がいい猫同士のあいさつですからっ!!」
仲がいい猫同士は「おしり」のにおいを嗅ぐものだからね!
慌てふためくわたしから目線を外して、「……っス」と、店舗奥の工房へ向かってしまう。
タツキさん今そっちに用事あったっけ!?
ぽふんと、さっちゃんのしっぽが頬を撫でた。
来たるジューンブライドを前に、『さらさ』ではブライダルフェアを開催中。
具体的に何をするかといえば、これから婚約指輪や結婚指輪を買うお客さまに向けて、ブライダルジュエリーを告知してプッシュしていく。
普段表にPOPを出さないこの店も、立て看板を用意して目に留まるようにするのだ。
「来年のジューンブライドに式を挙げるなら、今ごろから始めた方がいいのよ」
女店主かの子さんは、店頭に置いている結婚情報誌をめくって見せてくれた。『さらさ』で扱っているブランドのページに、付箋が貼り付けてある。
「結婚準備っていろいろあるの。式場を押さえたりとか、ブライダルジュエリーもね。セミオーダーがほとんどだから、発注から納品までだいたいひと月かかるでしょ」
あとで調整が入る場合もあるから、さらにひと月ちょっと余裕を見てほしいわね。と、かの子さんは続けた。
フェアの一環として、ブライダルジュエリーご成約のお客さまにはノベルティをお渡ししたりする。
朝一で結婚指輪をお持ち帰りになったお客さまは、リングピロー(結婚指輪を結ぶリボンがついたクッション。結婚式で使う小物だ)をお取り置きしていた。光沢がある白いハート型で、女性のお客さまがいたくお気に召したものだ。
ブランド専用の袋を提げたおふたりは、笑顔で話しながら店をあとにする。
嬉しそうだったなあ……。
ハルお兄ちゃんと深月さんも、指輪が出来上がったら、あんな風に……。
わたしは軽く頭を振る。考えても仕方ないや。
店内にお客さまがいないことをたしかめる。誰もいないな。
窓辺にいたさっちゃんの背中のくぼみに、もふっと顔を埋めさせてもらった。心の乱れに猫吸引。
顔を上げると、またしても、何かを言いたげなタツキさんと目が合った。
なんでいつもいるの!?
「あの、ちょ、待ってもらえますか!!」
挙動不審に弁明しようとすると、また「……っス」と逃げられてしまった。
「んなー」
さっちゃんが鳴く。諸行無常を告げるように。
うん……時には世の中無常だよね……。
でもまあいいか、今のところ見られたのはタツキさんにだけだし。
そう思って、何気なく出入口の二重扉に視線をやる。
――結論から言おう。わたしとさっちゃんの他にも、人はいた。
揺れるセミロング、胸元できらめく赤いルビーの「星屑」――。
「えっと……こんにちは?」
店内側のドアを中途半端に開けた深月さんが、困ったように笑っていた。
これは、見られていたんだろうな!
「い……いらっしゃいませ」
穴があったら入りたい。かなり、切実に。
ぎこちないわたしたちの心持ちを知ってか知らずか、「なーん」とさっちゃんが鳴いた。




