1.「おでかけ」先の招き猫
突然だけど、現在二十三歳のわたしは無職だ。理由はマダムが強かったから。
何ごとだ、と思うかもしれない。だけど、総合するとそういうことになる。
四月、平日。おはようを言うには少し遅い。わたしは久しぶりに「おでかけ」の準備をしていた。
なにか特別な用事があるわけじゃない、ほんの気晴らしのための「おでかけ」だ。
髪は先月切ったから大丈夫。前髪は目にかからないくらいで邪魔じゃない。後ろは、やってみたい髪型が思いつかないまま背中まで伸びた。美容室に行くたび、毛先だけは整えてもらっている。傷みにくい髪質でよかった。薬剤のにおいが苦手で染めたくないから、地毛でなんとかしないといけない。
服はどうしよう。最近人に会ってないから、どういう服が無難なんだろう。
とりあえず、白い綿ブラウスに、去年買った淡い紫のカーディガンを合わせる。下は……スカートにしよう。濃紺で膝くらいの丈。今日は暖かいから、ストッキングじゃなくて靴下がいいかな。
地味じゃなくて、シンプル。わたしは自分に言い聞かせた。
最後に、ネックレスを着ける。
金色より少し銅色がかったチェーンに、揺れるピンク色の小さな石。「星屑」。
わたしは、ネックレスを服の下に忍ばせた。
無職である「わたし」、椎野ユキについて、少し説明しよう。
大学卒業後、わたしは社員として宝飾品販売会社に就職した。
研修を終えた新入社員が配属されるのは実際の売り場。お客さまとやりとりする最前線。
わたしはベテラン店長がいる店舗へ配属された。
そこで待ち受けていたのは、マダムたちと戦う日々だった。
マダム。広い意味で言えば奥様とか、ご婦人。
でも、わたしが主にイメージするマダム像は――景気のいい時代を生き、宝石を積極的に買い求める、両親より年上の女性だ。彼女たちは金銭的に余裕があり、高価な宝石に触れる機会が多かった。目が肥えているのである。
対して、物心つく前から「不況」という言葉を聞いて育ったわたし。家は特別裕福でもなく、親は宝飾品にさほど興味がなかったらしい。結婚指輪すら着けていないし。
それでもわたしがあの業界に足を踏み入れたのは、
『宝石も「星屑」なんじゃないかな』
宝石は星屑。いつかもらったこの言葉と、星屑――ローズクオーツのネックレスがあったから。
わたしは毎日、身につけた小さな星屑に触れていた。
それはそれとして。
わたしが配属された店舗は、会社の中でも売上規模が大きかったらしい。
店長やベテランさんの補助をしつつ、新人なりにがんばった。勉強もしたし、なんとか渡りあおうとしたのだ、マダムたちと。
でも。
「いやー、マダムって強いよね……」
年季が違った。戦い方を間違えた。戦う相手ではなかった。
そもそも、「戦う」という思い込みからして違っていたんだろう。
わたしはマダムに圧倒され、やる気は空回りして、そして気づいてしまった。
店長とベテランさんもまた、不況と無縁の時代を生きたマダムであると。
前門のマダム、後門のマダム。
売上ノルマとか、展示会とか、希少価値と価格が上がり続ける色石とか。
男性のお客さまもいたけれど、宝石店はほぼマダムの主戦場で、宝石はマダムたちの戦利品だったのだ。
それに気づいたわたしはなんというか、「負けた」。
一年目の秋を過ぎた頃に職を辞し、今に至る。
色んな苦手意識を抱え込んで。
そんな経緯があって、わたしは春の街中を歩いている。
多孔質な石畳を敷いた、小洒落た商店街。昼下がりにさしかかって、人通りもまばらだ。すれ違う人はいるけど、お互いに顔を見るでもなし。知らない人同士だしね。
ゆっくりと歩いていると、化粧品店の看板が目に入った。『肌がきらめくプラチナヴェール』とか『指先ワンポイントで差をつける、これが大人のダイヤモンドネイル』とか、手書き感がポップだ。
……目眩を感じて目を逸らす。
うーん、まだだめかあ。
よろよろと、わたしはその場から離れる。
マダムたちとの、勝負になっていない戦いで抱え込んでしまった苦手意識、その一。宝石に関する言葉を見聞きすると、なんとなく気分が悪くなる。
宝石自体は好きだし、そろそろ前を向きたいんだけど。
そっと、服の下に隠した星屑に触れた。
そろそろ帰ろうかな。
歩く速度を上げたわたしの視界に、ふと気になるものが映った。
蔦草が這い登る赤茶色のレンガの壁に、ヨーロッパ風の出窓。その中に、ふわりとやわらかな質感と曲線美を持つ、黒い猫。
「猫だ……!」
思わず声が出る。日常での猫との遭遇。しかも大事にされている子であれば、それは「幸せのかたち」そのものに他ならない。隙あらば、その完璧ともいえる造形美や仕草、性格の愛らしさを賛美せずにはいられないのだ。
色つやの美しくやわらかそうなふわふわ毛玉ちゃんは、まるで置物のように佇んでいる。
黄緑色の目に縦長の瞳。陽を浴びてきらりと光る、首輪の緑色のチャーム石。思わず出窓に近づいてみれば、黒猫は「にゃ」と小さく鳴いてくれた。
ああ、かわいい。丸ごとすべてがかわいい。かわいいことこの上ない。人知が及ばぬなにものかが、この愛らしすぎる生き物を存在させてくれたことに感謝せねば。
これが、「尊い」という感情だろうか。
わたしは静かに目を閉じ、両手を合わせた。
それはそれとして、ふと気づく。
猫越しに見える室内には、テーブルにイスが何組かとカウンター。民家ではなく、飲食店らしいということ。
もしや、純喫茶風の猫カフェだろうか。ちょっとだけなら、寄ってみてもいいかな……?
わたしは深く考えずに、入口のドアを見つけてノブに手をかける。
これから何が起こるかなんて、全然予想することもなく。