夢のような日々を、と彼女は言って
なぜこんなに空は青いのかと、考えてみた。
東に広がる太平洋の美しい海が、空に反射しているからなのだろうか。しみじみと眺め見た空が、こんなにも美しいなんて思わなかった。そのために購入したマンションだと思い出したのは、見晴らしの良いベランダの向こうに、空があると気付いた時だ。
硬いフローリングの上で起き上がると、個性のない家の匂いがした。朝の珈琲の匂いも、朝食の立ちこめる、あの独特とした鼻をつく匂いも、今はしない。
馬鹿らしい、と瀬藤は鈍痛のする頭へ手をやった。
カレンダーは既に六月二十日をさしている。いつの間に日付が過ぎてしまったのだろうと考え、そうか、あれからもう三ヵ月が経ったのかと、瀬藤は実感もないまま漠然と思った。
「お前、ちょっと仕事のし過ぎだよ」
そう言われたのは、昨日だったか、一昨日だったか。はたまた、先月のことだったのかは、よく覚えていない。
そう言ったのは会社の同期でもある友人で、今は同じ課の部下にあたる田辺だったような気がする。他の人にも色々と気を遣われるようなことを言われた記憶はあるが、深く考えようとすると、思考がさらさらと指の間からこぼれていくようだった。
「少しは休んだ方が良い。もう、ぶっ通しで仕事してるだろ」
「この事業を成功させないといけない。休んでいる場合じゃないだろう」
瀬藤は、誰よりも仕事に厳しい男だった。同期の中で一番の出世頭であり、先輩後輩、上司に関係なく頼りにされていた。
購入したリゾート地のマンションに帰れない日も多く、それでも人の二倍以上の業務を次々とこなしていく彼に、誰もが尊敬の眼差しを向けた。
「休暇を取っておいた。お前、少し休め」
事業が成功を収めたあと、上司から突然の休暇を言い渡された。上からの命令に忠実な瀬藤は、この三ヵ月で四日の休暇もなかったたな、と今更のように考えて「はい」と答えたのだ。
月曜日から始まった休暇は、実に来週分まで見事に白紙で埋まった。
初日の昨日は、何をしていたのだろうかと振り返るが、今と同じ体勢で、横になってぼんやりとしていただけだったと思い出す。
上体を起こして無造作にシャツの上を払うと、朝陽に照らし出された埃が、白く光って宙を舞った。そばに一冊の文庫本があるのに目を止めて、そういえば数分ばかり読んでいたな、と他人事のように思った。
いつもの癖でパソコンのメールをチェックすると、不思議な事に、一通も入っていなかった。仕事用の携帯電話には、上司から「きちんと休むように」という、柔らかい文面のメールが社員代表として送られていた。
瀬藤は、文面の最後に従って、社用の携帯電話の電源を落とす事にした。上司命令によると、どうやら来週までは電源を入れてはいけないようだ、とも思う。
プライベート用の携帯電話は、食卓の上に放置されたままだった。
不在着信を知らせるランプが点灯していたが、瀬藤は、特に見もせずに冷蔵庫から水を取り出して口に含んだ。
相変わらず食欲はなかった。ワインにもビールにも手が伸びそうにない。いつの間にか、立派な冷蔵庫は、水とワインとビールばかりで、大きな容量を持て余していた。
瀬藤は、先程と同じ場所で横になった。
ベランダから吹き込む風が、カーテンを躍らせて何度も、ふんわりと柔軟剤の香りを広げていく。
清潔に保たれていたはずの部屋で、彼は煙草をくわえると、火をつけた。深く吸い込んだ煙が、紫煙をくゆらせて風に飲み込まれていくのを、ただぼんやりと眺める。
不意に呼び鈴が鳴った。
もう随分鳴ることもなかったベル音だと気付いて、瀬藤は、人差し指と中指に挟んだ煙草を唇へと近づけながら、内扉が開いたままの廊下の向こうへと目をやった。
呼び鈴は乱暴に鳴らされ続けており、瀬藤は、営業に駆り出されたセールスマンが、一階からインターフォンを覗きこんで「マンションの自動扉を開けてください」という厚かましさで押しているのだろうかと勘繰った。
しかし、その後しばらくすると、直接玄関扉がノックされて、彼は「おや」と声に出して煙草の煙を吐き出した。何もない部屋に煙草の匂いが広がり、ようやく無機質な家が現実味を帯びてくる。
ふと、ある人間が彼の脳裏に思い出されたが、それは虚しい願望にすぎないと分かって、彼は静かに煙草を呑むしかなかった。
扉は苛立ちを持って強く叩かれ、小さな舌打ちと共にガチャリと鍵が空いた。「お~い、いるのか~」と、なんとも間が抜けた声が静寂を打ち破り、瀬藤は開いた玄関からやってくる人間を、煙の向こうに眺めた。
入室して来た相手は、革の黒ソファの後ろから顔だけを覗かせた瀬藤を見ると、「うわっ」と幽霊でも見たような声を上げた。
「お前、もしかして昨日からずっとそうやってたのか?」
「なんだ、悪いのか?」
「うひゃぁ、信じらんねぇ」
オレンジと白のストライプが入ったポロシャツに、デニムの軽装をした田辺は、癖の入った短髪頭をかいて「う~む」と呻った。
「いいのか、部屋で喫煙して」
「いいんだ。部屋の中で喫煙しても」
室内を禁煙にしてしまう事に、もう何の意味もないのだから。
瀬藤の沈黙に言葉を読み取ったのか、田辺は、それ以上は追及せず辺りを見回した。
「しっかし、マジで昨日のまんまだな。俺が入れてやった新聞も、テーブルに置きっぱかよッ」
「ああ、そうか。そういえばお前、置いていったな」
「完全に忘れてましたって感じだな。ほら、今日の新聞、ここに置いとくぜ。放っておいたら下のポストが破裂しちまうよ」
田辺は愚痴ると、ソファの肘掛けに新聞を置いた。彼の腰元にある車のキーの中には、瀬藤のマンションの合鍵が、真新しい光沢をもって揺れている。
「瀬藤。海、行くぞ」
「――突然、なんで?」
「俺とお前が、折角にも同じ日に休暇を取れたからだ!」
「断る。家族と行って来い」
「ほんと、俺の上司になる前から、お前ってこういう奴だったよなあ」
同じ経済大学の出身だった二人は、個人的な友人としての付き合いも長かった。
瀬藤は、煙草をくわえたままベランダへと視線を移した。その後ろで、田辺が大きく溜息をつき、「ほら」といって彼の上体をぐいと起こすと、大袈裟に肩や背中の埃を払う仕草をした。
「全く、お前埃だらけになってるじゃん。休暇の間中ずっと寝てたら、あまりの陰湿さにキノコがはえてくるぞ」
「それは食用か」
「バカヤロウ、性質の悪い毒キノコだよ。食った瞬間、全員が無愛想な仏頂面になっちまうタイプのものだ。うちの社の奴らがそれを食っちまったら、どうするんだよ。取引先とお客様は、神様なんだぞ?」
「それは厄介な代物だな」
少し考え、瀬藤は上辺だけで反射的に言葉を返した。田辺に促されるまま気だるそうに立ち上がり、煙草を灰皿に押し潰す。
「アユミはパートの仕事だし、うちの可愛いナノカちゃんは幼稚園だし、俺はとても暇なんだ! ちょっとぐらい付き合えや」
田辺がそう言い、瀬藤は「ああ」と生返事を上げてのっそりと歩いた。後頭部に立った寝ぐせの上から力もなく頭をかき、普段は仕事でフル回転しているはずの頭を、空っぽにしたまま欠伸を噛み殺す。
田辺が言いたいことは、瀬藤とて十分に分かっていた。
背中に刺さる視線は、瀬藤の脳裏に、今にも泣き出しそうな田辺の表情を描いた。上司に「休め」と言われた時も、同じものを背中に感じた。
分かっているんだ。でも、まだきちんと整理が出来ない。
霞むような思考の向こうで、瀬藤は、曖昧になった記憶の沼に沈んでいきそうになった。
※※※
高倍率といわれていた会社の入社式、瀬藤の隣には、嬉しさと期待に瞳を輝かせる田辺の姿があった。同期として、入社式前の二週間を研修で共に過ごしていたため、メンバーたちの間には、友人同士のような暖かい関係も築かれていた。
新入社員たちは、緊張と希望を抱えて並んでいた。田辺と瀬藤は、長身である事も目を引いたが、瀬藤の場合は、堂々と背広を着こなす姿勢が一段と目立った。
そんな彼の隣にいたのが、遠慮がちにちょこんと腰かける華奢な女性だったものだから、彼女がより一層幼く見えてしまったほどだった。
「はじめまして。わたし、仲津紗奈恵といいます」
隣に座る少女のような女性が、初日の研修で行った自己紹介を、瀬藤は昨日のように思い出しながら、入社式の席についていた。
※※※
夢を見ていたのだと気付いたのは、乗っていた車が赤信号で止まった時だった。
自宅から十五分ほどの距離の間で、瀬藤は、自分が寝ていた事を静かに推測した。窓に肘を乗せて外を眺めていた姿勢のままだったので、車内に流れる音楽を楽しんでいた田辺は気付かなかったらしい。車が発進すると、「イエッサ~デイ」と調子外れの音が、田辺の口から飛び出した。
外には、陽気な天気が広がっていた。だんだんと丘を下っていく車の眼前には、太平洋が臨めた。海は深い青をたたえ、太陽の光りをきらきらと反射させて、エメラルドにも水色にも見える。
頭上高くを覆う空は、それとは比にならないほど澄んだ明るい青を塗りたくっていた。
「でもほんと、いいところに住んでるよなあ」
田辺の愛車である白のBMWは、静かなエンジン音で滑るように道を下っていく。車内には冷房が掛けられていたが、どちらの窓も、いつものように全開にされ、二人の横顔は外の熱風に強く煽られていた。
瀬藤は海から視線をそむけると、見慣れた建物が通り過ぎていくのを興味もなく眺めた。以前から地面は、こんなにも明るいアスファルトが敷かれていて、建物はこんなにも太陽を眩しく浴びていただろうか、とぼんやり思う。
見慣れているはずなのに、まるで美しい異国の地に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。今までは分からなかったが、ここは、空気の匂いも新鮮で美しいような気がする。
「朝焼けとか、夕陽が沈む景色とか、最高なんだろうなあ」
「さあ、どうかな。ゆっくり見た事がない」
ここ数年は、忙しさもあってろくに見てもいなかった。マンションを購入したばかりの頃は、テラスで珈琲を飲みながら朝日が昇るのを眺め、夕方は涼しげな風を身体に受けながら、沈む太陽を目で追っていたというのに。
西からやってくる夜の色と、沈みきらない昼が交錯する夕暮れは美しく、そこに色づいた一番星を見つけては二人で笑い合っていた。瀬藤が「衛星だよ」とからかうと、彼女は横顔を黄昏色に染めたまま笑った。あどけない微笑みは、幼い少女のようだったのを覚えている。
瀬藤は、回想を振り払った。
あの時、肌に感じた温もりも全て、曖昧になった記憶の向こうへ消えてしまったはずなのに、どうして今更になって戻って来るのだと、自分に苛立って眉を顰めた。
白のBMWは、海岸へと真っ直ぐ降りていった。海岸沿いを走っていたので、ビーチへ向かうのかと思っていた瀬藤の推測は、しかし見事に外れた。
――数十分後、二人は海岸の塀に肩を並べて座り、釣り糸を垂らしていた。
「なあ田辺、聞こうと思っていたんだが、――これは一体なんだ」
「え? 釣りだけど?」
朝の海岸には、距離を置いて中年の男と、麦わら帽子をかぶった老人がおり、彼らは言葉もなく釣りに没頭していた。田辺はぼんやりとしていた瀬藤に釣り竿を持たせると、麦わら帽子をセッティングして、そこに座らせたのである。
にべもなく答えた田辺の頭に、自分と同じ麦わら帽子があるのを見て、瀬藤は複雑な表情を浮かべた。
波が海岸へ打ち寄せ、涼しげな音を立てていた。蒸し暑い風に、少しばかりひんやりとした潮風が混じり、アスファルトを照らし出した太陽の熱でじんわりと汗をかく。
中年の男も老人も、釣りを楽しんでいるような表情には見えなかった。
暑さを堪えて、じっと耐えている印象がある。
田辺は、釣り竿を持ったまま糸の垂れた先を覗き込みながら、陽気な表情そのままに、時々額から流れる汗を拭っていた。瀬藤は、風呂に入った意味がなかったなと、ただ釣り竿を固定したばかりの姿勢で静かに思った。
瀬藤たち同期の面々は、皆で釣りに出かける事が多かった。
メンバーは、釣り好きの田辺と、他の三人を筆頭にして各海岸に乗り込んでいた。寿退社した、体育会系の三嶋香織は特に常連で、銀行員と結婚するまでは、田辺のいいライバル的存在だった。
そういえば、と瀬藤は、同期たちとの初めての釣りを思い起こした。
あの日も、今日のようによく晴れていて、入社一ヶ月目で「釣りに行こうぜ」と言い出したのは田辺だった。
大学時代から田辺に付き合っていたから、瀬藤も勿論セットで付き合わされた。「意外だなあ」と同期たちは二人の組み合わせを見たが、同じく釣りが好きな面々からも提案が出始め、結局は、初心者も交えて同期全員が参加する事が決定したのだ。
田辺は大学時代と変わらず「魚釣って食おうぜ!」と意気込み、瀬藤も自身の変わらぬ方針で「俺は刺身が食えればいい」と抱負を語った。「全部唐揚げになっちゃうわよ」との言葉は、誰が言ったのか覚えていないが、その言葉を聞いて、紗奈恵が上品に笑った事だけはハッキリと覚えている。
彼女の整った顔が笑みを浮かべると、まるで少女のような華やかさに交じって、女性らしい美しさがあった。それを見て、瀬藤はひねくれた不敵な笑みを浮かべたのだ。
いつも紗奈恵は、同僚の後ろで恥ずかしそうにしていたものだから、もっと笑えばいいのにと思った事も覚えている。
瀬藤はただ、紗奈恵の笑顔をもっと間近で見ていたかった。ただ、それだけのために田辺の無謀な誘いに乗って、同期の皆で、都会や大自然の中に繰り出した。
会社から一時間の距離にある遊園地のジェットコースターはもうお馴染みで、それでも、瀬藤は紗奈恵だけを見ていた。何度同じことを繰り返しても、一刻一刻違って見える彼女が頭から離れなかったのだ。
触れてみたい、と思ったのは、いつの頃からだろうか。
自然と彼女の顔に手を伸ばし、慌てて「すまん」と謝った日があった。会社での何気ない風景の中だったような気がするが、よくは覚えていない。
ただ、驚いたように見開いた大きな瞳と、火照って赤くなった小さな顔に面食らって、瀬藤も同じように恥ずかしくなった記憶はある。図体のでかい気丈な男である瀬藤が、見ていた同僚たちにはじめて「可愛い」と言われたのも、あの時が初めてだった。
「釣れないなあ」
隣でのんびりとした声が上がり、瀬藤は「そうだな」と記憶を振り払って、そう答えた。辺りには、波と風が入り混じった音ばかりが広がっていた。
瀬藤と田辺は、海岸の塀の上で、長い事釣り竿を握っていた。シャツから覗いた腕が赤くなり始めた頃、田辺が、海上の奥を横断する船を目で追いながら、ふと言った。
「ナナミちゃん、元気か?」
瀬藤は一瞬、息が詰まりそうになった。麦わら帽子で目元を隠すようにしながら「ああ」と、どうにか答える。
本当は数ヶ月前から連絡を断っていたため、よくは知らなかった。
瀬藤の方から遠ざかってしまったのである。
「俺さ、お前との付き合いって、長いなあって思ってんだ」
田辺は横目に瀬藤を見ると、「お前が向こうの義父さんたちに連絡を取ってないのも、知ってる」と続けた。
「どうするんだよ、ナナミちゃん。お前のいないところで、そろそろ三カ月半になるぞ」
「――俺には、出来ないと思う」
瀬藤は、絞り出すように小さく呟いた。
風が吹き抜け、二人の麦わら帽子を頭へと押し付けた。
「その資格が、ない」
選べないんだ、と瀬藤は言葉を呑みこんだ。
霞んだ記憶の向こうに答えがあるはずなのに、探し出す事への強い拒絶を感じている。頭と心の整理をつけようと、彼女の荷物を義父たちに託したはずなのに、時間の感覚と共に、大切なものを見失ってしまったような気がする。
田辺は何も言わなかった。視線を海へと戻すと、一度麦わら帽子のつばを掴んで、くいっと引き寄せる。
瀬藤は目を閉じ、彼女が好きだった海の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。どこへ行っても、何を見ても彼女との思い出が溢れているような気がした。これまでに行った様々な場所に、彼女との記憶の欠片が散りばめられているのだ。
手繰り寄せた苦しみと悲しみの果てに、何が見い出せるというのだろうか。
あの時、神を憎み恨むように叫び、瀬藤の胸は激しい咆哮と共に引き裂かれた。探し求めている答えは、本当に存在しているのだろうか?
田辺がすくっと立ち上がり、麦わら帽子を取って空元気な笑顔を見せた。
「全然釣れないし、ちょっとドライブしようぜ!」
「どこまで?」
「気のむくままに、さ」
しっかりとした田辺の強さが、瀬藤には眩しかった。
※※※
瀬藤と紗奈恵が付き合い出すまで、そう時間は掛からなかった。
お互い両想いであったはずなのに、中々話しを切り出せず互いが恥ずかしそうにして立っていた時、田辺を含む同期のメンバーたちが「もう見てられない!」と飛び出して来たのだ。
「紗奈恵ちゃんは、瀬藤のこと好きなのッ、嫌いなのッ!?」
瀬藤の初恋を知っていた面々が、そう言って問い詰めると、紗奈恵はすっかり茹で上がった顔をして卒倒しそうになった。瀬藤が止めるのも聞かず、田辺が「じゃあ嫌いなのか」と尋ねると、彼女はぐるぐると目を回しながら叫んだ。
「き、きき嫌いなわけないじゃない! だって近づくとどきどきしちゃうから、上手く話せなくなっちゃうのよぉッ」
そう言って、子どものように泣き出してしまったのだ。
まいった、と瀬藤は顔に手をやった。どちらも初恋で、そういう感情をあまりよく知らなくて、それでも瀬藤は、子供のように泣き出してしまった彼女も愛しいと感じた。
彼は顔を真っ赤にさせながら、冷静を取り繕って「大丈夫か」と尋ねた。紗奈恵はぴたりと泣きやんでくれたものの、恥ずかしさで、今にも逃げ出してしまいそうだった。
誰よりも努力を重ねた瀬藤は、仕事が安定して軌道に乗ったあと、紗奈恵と結婚した。
出世頭である瀬藤の忙しさと、妊娠しにくい紗奈恵の体調もあって、二人の間には中々子どもが出来なかった。遊び歩いていた田辺が遅めに結婚をして、瀬藤たちよりも先に子どもを得た。瀬藤は子どもが欲しかったが、紗奈恵の事を考えると、強くは出られなかった。
彼女は、幼い頃から身体が弱かった。内臓を三ヵ所も手術している事を知らされたが、瀬藤は「それでも君がいい」と彼女を選んだ。
よく体調を崩す紗奈恵を見守り、ようやく籍を入れ、本人や彼女の義父たちが望むように紗奈恵を専業主婦にしたのだ。彼の仕事は格段に忙しさを増したが、毎日が輝いているようにも見えていた。
会社からは少々離れてしまうが、瀬藤は、紗奈恵が気に入ったロケーションにマンションを買った。田辺はよくそこを訪れ、所帯を持ってからも当然のように遊びに来た。時々連れて来る彼の妻と、紗奈恵はすぐに打ち解け、二人で買い物に出かける事も少なくはなかった。
「手術が終わっても、三年、五年、八年の経過が、無事に行くことが大事です」
主治医が告げた言葉に、そんな事知ってる、と瀬藤は唇を噛みしめた。
※※※
瀬藤は、ハッと目を開いた。全身に嫌な汗をかいていた。
車のシートを倒した状態で眠っていた事を思い出した時、効き始めた車内の冷房から吐き出される冷風の中に、田辺が勢いよく身体を滑り込ませてきた。
「いやぁ、すまん、待たせたッ。自販機が遠くてさ」
すごく走ったよ、と言って笑った彼は、ふと眉根を寄せて瀬藤を見た。
「どうした? ちょっと陽に当たり過ぎたか?」
「そのようだ」
瀬藤は、田辺から缶ジュースを受け取った。数分ほど寝ていたとは言えず、勢いのまま缶ジュースを受け取った事を後悔しながら、シートを元の位置に戻してプルタブを開けた。
思う事は多々ある。例えば、「こいつは、なんでいつもこういう妙な甘い飲み物をチョイスをするんだ」とか、「日差しでバテるほど、身体が歳食ったなんて言われる筋合いはない」と――
そんな事を思いつつ、瀬藤は、無言でカルピスウォーターを口に運んだ。隣の田辺が、桃味のゼリー入りジュースを豪快に飲む様を無視すれば、車内の涼しさに少しは気分も良くなってくれた。
田辺は、一息でジュースを飲み干した。瀬藤が、半分残ったカルピスウォーターをジュース立てに置いた後、田辺が運転するBMWは静かに走り出し、海岸沿いから国道へと登って、昼間の走行車に紛れて爽快に路面を進んだ。
「俺は、いつまでもお前の親友だぜ」
しばらく車を走らせた後、田辺がふとそう言った。
その後車内は、冷房機の稼働音以外の音を再び失った。まるで、美しくデザインされた車の内装が、全ての雑音や雑念を吸いこんでしまっているような錯覚に陥った。
車外は、太陽の強い光を受けて灼熱を漂わせていた。
どの車も窓を閉め切り、痛みさえ覚える斜光が、世界を焼いて陽炎を上げているように見える。
田辺が、自分からの言葉を待っているのだという事は、瀬藤には痛いほどよく分かっていた。
言ってしまいたいと思った事は。これまで一度もなかったのに、走り続けている車の中の静寂のせいか、車内に満ちる不思議と安心出来る空間のせいなのか、瀬藤は、視線を外へと移すと、自然と口を開いていた。
「俺は、紗奈恵のために在れただろうかと、ずっと悩んでいる」
三ヵ月ぶりに口にした名前は、すんなりと唇からこぼれ落ちた。彼女を求めて叫んでいたその名は、喉を貫く熱もまとわず、今回は静かな心持で胸へとせり上がって止まってくれた。
これまで誰にも言えなかったのは、口にする事なんて考えられなかったからだ。
探し求める答えも全て、自分の中にあると分かっていて、誰かにその答えの断片だけでも求めようとするなんて、瀬藤にはずっと馬鹿げた考えに思えていた。
「専業主婦にした紗奈恵を、まるで、あのマンションに閉じ込めていたような気がするんだ。俺は、彼女のために何をしてやれた? 仕事が忙しくて、中々構ってやれなかったんじゃないかと思う。実家は三県隣で遠すぎるし、この土地には、彼女を知っている人間が、俺たちの会社以外にはほとんどいない。俺が、彼女の大切な時間を奪ってしまったんじゃないかと――」
言葉が続かなくなった。再び、頭の中が真っ白になってしまった。
他人事だ。俺を語る、もう一人の俺がいるみたいだと、瀬藤は漠然とした錯覚に眩暈を覚えた。考えていた事や、それと同時に脳裏を掠めた過去の思い出が、頭の奥に霞んで、途端に見えなくなってしまう。
田辺は何も言わなかった。しばらくすると、BMWは速度を上げて進路を変更した。
少々荒い田辺の運転には慣れたものだが、移り変わる景色に目をやった瀬藤は、言葉を呑みこんだ陰鬱な重々しさを忘れた。
そこは彼にとって見慣れた懐かしい場所で、田辺や紗奈恵と、もう何度も一緒に足を運んだ、あの日の過去が容易に重なった。
「馬鹿言うんじゃねぇよ、瀬藤。彼女が不幸だったなんて、誰も思っちゃいないのにさ」
荒い運転を続ける田辺の声は、気丈を装ってはいたものの微かに震えていた。「本当に馬鹿だな」と続いた田辺の言葉に答えようとしたのだが、瀬藤は、またもや急に進路を変えたBMWに、言うタイミングを逃した。
※※※
到着した場所で、二人はしばらく柵越しに海を眺めた。焼けるような昼間の太陽を頭上に、瀬藤は口角を上げるばかりの笑みをもらした。
「ここ、横浜じゃないか」
「正解」
田辺も、力なく「へへっ」と下手な笑いを浮かべた。
ここまでの時間間隔が短かった事を考えると、瀬藤は、自分が話しの合間合間に眠ってしまっていたのではないかと疑った。
「俺、寝ていたか」
「いんや、起きてたよ。たださ、お前は俺と同じ場所に立っていなきゃいけないのに、違う時間に立ってる感じだった。正直、そういうのは寂しいぜ」
田辺は、柵に寄りかかるように海へと背中を向けた。瀬藤はそれを横目に見ただけで、視線を海へと戻し、絡みつくような生温かい潮風を胸一杯に吸い込んだ。
「ちゃんと見てやれよ、瀬藤。辛いかもしんないけど、逃げるのは一番よくないと思う。一応言っておいてやるけど、そういうの、お前の悪い癖だからな?」
背中越しに、田辺が唇を尖らせた。
瀬藤は目を閉じ、瞼の裏に見える眩しい場所に空を思い描いて、ふっと話しを切り出した。
「紗奈恵を失う事が、怖かった。彼女の身体がもう限界だなんて、信じたくなかった」
田辺は視線を合わせないまま肯き、「それでも、産もうって言ってくれてたよな」とだけ言った。なぜ忘れていたのだろうと思うほど、瀬藤はすんなりと思い出し始めた。
「――ああ、そうだ。どうしても産みたいと、彼女は言った。産めば身体に負担がかかるのに、約十年を生きる確率よりも、俺たちの子どもを産みたいと言ったんだ」
思い出した。病室に横たわった彼女を、そばに座って見つめたあの日、――。
開いた瀬藤の瞳から、はらはらと、涙がこぼれ落ちた。
三ヶ月前とは違い、静かな悲しみと別れの痛みに、見開いた瞳から次から次へと想いが溢れてくる。人の前では泣くものかと歯を食いしばって耐え、一人締め切られた部屋で泣き上げた夜は、もう二度とやっては来ないのだと分かった。
だんだん弱っていく身体で、紗奈恵は病室のベッドに横たわったまま、瀬藤と沢山の事を話した。訪れるか分からない将来の話も、一日の中で、瀬藤と共有出来ない時間に起こった事、そして考えた事を、とりとめもなく語る。
幸せそうに微笑む彼女の顔は優しくて、瀬藤は、彼女だけに見せる愛しい微笑みで、何度も肯いたのだ。
「後悔してる?」
出産が近づいて来たある日、紗奈恵は、静かな口調でそう尋ねてきた。
自分がいる架空の未来について話すのは、もう耐えきれないと声もなく泣き出して、何度も何度も瀬藤に謝った。
「それでも、こんな私でも、今だけは、あなたの傍にいる事を許して」
許して、なんて俺の方がそうだ。瀬藤は、涙を堪えて彼女を抱きしめた。
「どうしても、あなたにこの子を残したいのよ」
彼女の気持ちが、言葉と一緒にひしひしと伝わって来て、瀬藤はもう、何も言えなかった。
二人は、声を押し殺して泣いた。神様は何て残酷なのだろうと、瀬藤は残されていく自分と、小さな命を想った。
その数日後、彼女は出産した我が子を抱いた。
瀬藤の前で、満足そうに微笑んで見せた。
「わたしの赤ちゃん。生まれてきてくれて、ありがとう……。瀬藤さん、私に大きな幸せなと、夢のような日々を、ありがとう」
幸せでした、と掠れた声でそう言った。
その後、紗奈恵は集中治療室へと運びこまれたが、もたなかった。
なぜ忘れていたのだろう。あの時、俺は何もかも許されていたのに。
瀬藤は塀に両腕をあて、声を押し殺して泣いた。背中を向けたままの田辺が鼻を啜り、ふと、人影に気づいて空元気にも手を振った。
初老に近い細身の男が傘を差す中、隣を歩く同じ年代の女の腕の中で、三ヵ月前よりも随分と成長した赤子が身じろぎし、父を求めて大きな声で泣き出した。




