文字を拾う人
活字というのは言葉の屍なんだよ。
その人は特別冷たい声でも優しい笑みを浮かべるでもなく、ただ淡々と自らに与えられた仕事をする片手間に言葉を放った。裸電球から蝋燭の火の様なオレンジ色の光で明るく照らされているが、部屋の隅、ちょっとした影の存在感は異様なほどで、まるで廃墟の様な、なにもいるはずの無いのに誰かかこちらを見ているような不気味さを持った場所だった。創立記念日で小学校が休みになった日、ぼくは一人で遊んでいたけれど、退屈を持て余して、玄関ドアの鍵だけを持って家を出た。真新しいパステルカラーの住宅街を抜けて過度の差し掛かる度に右の次は左、という風にして適当に歩いていると、いつの間にか周囲の風景は見たことの無い物に変わっていた。3階以上の高さの建物の無い昔ながらの平屋や文化住宅がひしめく様に並ぶ路地裏の一角に、その工場はあった。印刷機の音が規則的に聞こえているその奥は、小学校の図書室の様ように、幾つもの棚が並んでいた。ハチの巣箱の様なその棚の中に、鈍い銀色の一文字だけのハンコがびっしりと文字の面をこちらに向けて並んでいる。その人は弁当箱くらいの木の箱を左手に、右手に持った紙を確かめながら慣れた手つきでびっしりと並んでいる文字の壁から必要な平仮名や片仮名、漢字を抜き出して箱に並べる。活版印刷は手書きと現代の印刷技術のちょうど中間に位置する文章の印刷方法だと、その人は教えてくれた。ただ、その人が文字を選ぶ様子は、決してこの仕事に親しみ馴染んでいると言ったような印象は感じなかった。その上で発せられた言葉だったので、ぼくは思わず背筋に冷たいものが這い上がってくるのを感じた。全身の毛が逆立つような、体温が奪われていくのに汗が止まらない。
「活版印刷の前には、木版というのがあった。それは筆で書いた字を木の板に掘って、今でいう版画の要領で墨を付けて量産した。活版印刷は13世紀ごろに日本に伝わったそうだ。世界で最初に出版された本は何か、知っているかい?」
鈍色に光る一文字を引っ張り出して、仕切りの付いた木の箱の中へ入れて行く。ぼくは質問された事に気付くのに少し遅れてしまった。文字を引き抜く手が止まったのに気付いて、ようやく我に返った。
「えっと、それは僕も知っている本ですか?」
その人は再び棚に視線を戻してピンセットのような物で文字を摘み出す。
「ああ、読んだ事は無くても、名前くらいは聞いたことがあるだろう」
普段本を読まない僕に答えられる筈もないけれど、分かりませんでは期待を裏切る結果になりそうなので、適当な名前を答える事にした。
「えーっと、学問のすゝめとか?」
その人はほんの僅かに口元を緩めた。
「きみが知っている一番古い本はそれなのか」
からかわれた事を察して、ぼくは少し不機嫌になる。それが咋に声に反映されていた。
「ぼくは本を読まないって言ったじゃないですか?で、答えはなんなんですか?」
その人はさっきまでの硬い表情には戻らず、少し気の抜けた顔で少し得意げに答える
「聖書なんだそうだ」
ぼくはつい納得してしまった。なんだか手品の種を明かされた時の様な、拍子抜けから感動を引いたような気分だった。
「さっきの言葉って、どういう意味なんですか?」
ぼくは気を取り直して尋ねた。どうにも不穏な響きは相変わらず頭の中で静かに存在を主張している。
「活版印刷所を描いた銅版画には、よく死神が描かれるんだ。活字に起こすというのは、作家が紙に書いた文字を、ステレオタイプな文字に変換する作業なんだ」
「どうして、それが言葉の屍なんて言い方になるんですか?」
「言葉はその本人の声で発された時点で命を持つんだ。それは紙に書いた文字でも同じ事だ。直筆原稿には活字には無い作家本人の筆跡、書き損じを消した線、何度も推敲した痕や不意に落ちたインクやコーヒーの染みなんかが残っている。そういう命を根こそぎ奪って、体温の無い文字に変換する作業、それがこの仕事だ。たくさんの人に見てもらう事、読んでもらう事、その為には万人に読める字に変換しなきゃならない。だから俺はこうして文字を拾っているのさ」
それは何の意図も意味も無い、素朴な質問だった。
「じゃあ、印刷業者にすればよかったのに、こんな手間のかかる仕事じゃなくて」
この時代に、活版印刷なんて面倒な作業で文章を紡ぐ仕事なんて、しかも活字を言葉の屍なんて呼んでいるその人は、一体何のためにそんなことをしているんだろう。純粋にそう思った。その人は、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
「俺に出来る仕事は、これだけだからなあ」
そこでハッとした。電球の明かりが弱くなって、部屋の隅でこちらを見ていた小さい影が至る所で合流して大きな闇に変わろうとしている。
「キミも、拾っていくかい?」
その人はそう言うと自分が持っている物と同じ箱空っぽの箱を差し出してきた。ぼくは途端に怖くなって、慌てて工場から逃げ出した。
それから何度か、ふと思い出してその場所を探してみたけれど、二度とその工場にはたどり着けなかった。