Time is up!
産まれて来る前から刻んでいた時間。それはあっという間に、それこそ呆然とする暇さえも与えてくれる事もなく、刻々と過ぎ行く筈だった時間は止まってしまった。
いや、止まってしまっただと語弊が生じるかもしれないから、壊されてしまったと言ったほうが正しいかもしれない。
伊崎裕貴は自分の意に反して、自分の時と引き換えに、全治三ヶ月の足の怪我と、報われることのない恋心を手に入れたのだから。
時間が壊れてしまってからの裕貴は、何をするにも上の空で心此処にあらずの状態が続き、裕貴自身が破壊された時の流れの重大さを誰よりも噛み締めていただろう。
裕貴にとっての時の流れは自分のペースで生きていく時間であって、自分の意思や自分のルールを保っての生活を意味していて、それを乱すものの存在の介入は今まで容易に許すことはなかった。
それなのに、突然それは裕貴の中に土足で侵入したばかりか、裕貴の時を刻む人生の時計をがっちり鷲掴み振り回すのだから、裕貴の時間は壊れてしまったのだ。
時が壊れてから二週間。まだ、時の修復の目途は立っていない。
「裕貴、まだ足痛いの? 腫れは引いた?」
鈴が鳴るような涼しげな声音は、時として感情を感じさせず冷たく聞こえる。だけど、そんな彼女の声だけが心地良く、裕貴の中に響くから思わず舌打ちをしたくなる。
俺の時間を奪っただけで飽きたらず、心の動悸まで乱すなよ。
裕貴は凛とした表情で紙袋を片手に提げて、長い黒髪を空いた手で弄る中井杏奈を、重い溜め息と共に見上げた。
「別に、平気だけど!」
本当は心配してくれた事が、訪ねて来てくれた事が心躍る程嬉しかったりするのだが、如何せん裕貴はまだそれを認められないでいる。悪足掻きなのは百も承知。それでも裕貴は壊れた時間の修復のチャンスを狙っているから、浮き立つ気持ちは無視してしまうに限ると決めていた。
認めてしまったらもうそれこそ修復不可能。
「今日はまだ咲子は来てないの?」
「毎日来るわけじゃねぇよ」
やはり素っ気なく返し、横目でチラリと杏奈を盗み見る。
ああ、やっぱり綺麗だちくしょう。
俺の足は杏奈の犠牲になったんだ、今なら間に合う考え直せ。
激しくせめぎ合う自身の葛藤に檄を飛ばし、裕貴は病室の入り口に視線を逃がした。
いつも咲子が入って来る入り口。本当は咲子は一日と開けず裕貴を見舞いにやってくる。身の回りの世話を焼きたがるのは、面倒見の良い姉だからである。
そして、杏奈は咲子の親友であり勤め先の同僚だ。だから今までも何度か顔を合わせる事も会話を交わす事もあったのだが、まさかこんな立場に立たされる事だけは想像していなかった。
心優しい咲子だが、杏奈と裕貴を引き合わせた事だけが恨めしく思えてならない。
大体なんでおっとりしている咲子が、杏奈と友達なんだ。
余りにも二人は水と火のように対極で、裕貴は憮然として納得がいかない。
おかげで俺の時間は乱されまくりだ。
「なんて顔してんのさ?」
切れ長の瞳に密度の濃い睫を訝しげに細め、杏奈は近くにあった椅子を手繰り寄せて、裕貴の枕元辺りで腰掛けた。
「なんて顔って、大体お前がなぁ」
「はいはい、分かってるって! だからお詫びに暇つぶしの品持って来たから」
文句の一つも最後まで言い切らせて貰えず、裕貴は杏奈に遮られた。
お詫びの品? なんだ、少しは悪いと思ってたのか。と、裕貴は意外な思いで心なしか質の悪い笑顔を浮かべる杏奈の美麗な面をぼんやりと見上げた。
「ほら、暇つぶしといえば雑誌でしょ」
そう自信満々、不敵に言い放ち杏奈は持っていた紙袋の中に無造作に手を突っ込み、それらを一掴みに裕貴のベッドに放り投げた。
そして杏奈の気の利く行為に自然に浮かんだ裕貴の笑みは、瞬間冷却されたかのように一瞬にして固まってしまったのだ。
「ばか、お前これ……」
どう反応していいのか、裕貴は二の句が繋がらない。それは目の前に放られた数冊の雑誌に目が点になり、唖然とせざるを得なかったから。
表紙を飾る綺麗なお姉さんたちは、面積の狭い布地に纏われているものもあれば、上半身を裸身のまま妖艶に微笑んでいたり。
俗にいうエロ本だ。これを一体全体どうしろというのだ。ここは共同部屋である。ここで何をしろというのか、何を!
大体年若い女性が如何にも男性向けのこの手の雑誌を、どんな顔してレジに差し出せるというのか。
裕貴はそれを想像して杏奈という女に空恐ろしい恐怖を抱かずにはいられない。やっぱり、こいつはただ者じゃない、一筋縄ではいかない相手なのだ。
今まで裕貴が相手にしてきた可愛い女の子たちとは訳が違う、裕貴は驚きと呆れに満ちた目で杏奈を見た。
「なに、気に入らないの?」
そういう問題ではない。
空恐ろしい思いで一杯の裕貴は、目をしばしばさせながら杏奈の不機嫌に歪んだ、それでも整った美しい顔を呆然と見ていた。
「ああ、分かった。これじゃ、満足出来ない? それじゃあ、この前の続きをしようか?」
名案を思い付いた風に杏奈の目が煌めくと、徐に裕貴のベッドに乗り上げようと杏奈が手を掛け身を乗り出す。
その光景に、裕貴のある記憶が重なる。重なってぼんやりとした頭に鮮烈な映像を描いた。
薄いキャミソールに、すらりと伸びた足。薄暗い部屋の中で眠る裕貴を揺り起こし、長い艶めく黒髪を垂らしながら妖艶な笑みを湛え裕貴を覗き込む杏奈。
そう、それは間違いなく裕貴の時間が壊れる直前の映像であって、原因でもある。
杏奈は自慢の容姿をもってして、裕貴の何もかもをぶち壊してくれたのだ。よりにもよって自宅に泊まりに来ていた裕貴の彼女が隣で眠っていたのにも関わらず、杏奈は下着姿も同然の姿で現れたのだ。
それから先はもう坂道を転がり落ちるように、猛スピードで裕貴の人生という時間は悪いほうへと壊れてしまった。誤解した彼女には平手打ちと共に去られ、しかも杏奈の姿に驚いた裕貴はベッドから変な姿勢で転落し全治三ヶ月の怪我を足に負ったのだった。
足を負傷し痛みに悶えながら、裕貴はその夜杏奈を招いた咲子まで憎らしくてならなかった。
そうしてそこまで考えた所でふと我に返った――返らざるを得なかった――裕貴は、杏奈の押し出す片腕によって座っていた上半身をベッドに倒された。
このままでは、まずい。何をされるかたまったものじゃない。
「いいから! 降りろって! もう、なんもしてくれなくて構わないから!」
「あら、そう?」
思いの外あっさりと身を引いた杏奈に、裕貴は心底ほっとし、安堵のため息を盛大に吐き出した。
「じゃあ、続きは退院したらね。また来るわ」
そう言って杏奈は颯爽ときびすを返し、出口兼用の入り口へ自慢の髪を靡かせあっという間に帰って行く。
わずか十分にも満たない見舞い。見舞いといえるのかどうかも危うい、杏奈の見舞いは台風一過程の破壊力を伴ってまたもや裕貴の時間を破壊して行ってしまったのだった。
一日中走り回った後のような脱力感をひしひしと身に感じながら、裕貴は時間の修復は相当に難しいと、半ば諦めた気持ちで杏奈のいなくなった空間に僅かに心寂しく思う。
だけど、杏奈より七歳も若い裕貴はもう、裕貴自身が修復不可能なところまで奪われてしまっていることに気がついていないのだった。
昼下がり、窓の外を見上げて空が高いな、と思う。胸一杯に空の青を吸い込み、ズキズキと痛む胸の痛みは足の痛みに重ねて誤魔化した。