第29話:彼が天使をやめたのは
連れられてやってきたルシフェルの部屋。
なんともまあ……広すぎて比べることも失礼かな、あたしの部屋とは大違い。
殺風景というわけではないのだが。壁の本棚一つとっても、本達の規則正しい整列といったら! 落ち着いた質感の机は仕事用かな、ベッドのシーツもまるでホテルみたいにきっちりしている。
「掃除が得意なだけあるねえ……」
「ふふ、アルベルト達の仕業だと思うが」
従者さんは堕天使長様がいつ戻ってもいいようにしていたのかもしれない。泣ける話じゃないの。
壁の一画を占める大きな窓に思わず駆け寄る。
本当に眺めが良いんだね、すごいなあ。わ、バルコニーもついてる!
隣に立った彼はきょろきょろするあたしを可笑しそうに見て、それから視線を窓の外へ向けた。広がるのは彼自身が治める地獄の都市。
「私はね、真子」
窓枠に手をかけ、街並みを見下ろし。眼差しはとても優しい。この都の、支配者。
「世界を救ったんだ」
「……」
「救った、はずだった」
二度目は呟くように。目を伏せた横顔はやっぱり少し悲しそうで。ああ、まだ彼は心から笑えないんだ。何かが引っ掛かっているんだ。だからこうして無理をする……
「ルシフェル」
堪らず名前を呼べば、驚いたような紅眼がこちらを見る。すまない、と微笑んで彼は天蓋つきの豪奢なベッドを指差した。
「座ろうか。長くなるから」
***
絵が見たいなんていうのは、本当の目的じゃないとわかっていたから。緊張。彼はこのところ見なかったような穏やかな表情で、何かあったのだと直感するには充分だった。それが良いことだったのか悪いことかはわからないけど。前向きな覚悟ならいいなとなんとなく思った。せめて、諦めでないのなら。
ただ、今は彼が自分から話をしてくれるのが嬉しくて。隣に居られることが嬉しくて。温もりを感じる距離に座って噛み締める。
「……どこから話せば良いだろう」
「……どこからでも。全部聞きたい。あたし、ルシフェルのこと全部知りたい」
「そうか」
ルシフェルは小さく笑って再び窓を一瞥した。
「では……昔話をしようか」
何を言おうとしているのかは正直さっぱりわからない、けど。いつも教え諭すように流暢に言葉を紡いでいた彼が、これほど慎重に話すのは初めてな気がする。
「……私が堕天したのは」
静かに口を開き。
「天界を去ったのは、自分の責を果たすためだった」
責。責任。アシュタロスさんの言葉が頭をよぎる。
「傲慢だったのかもしれない。確かに思い上がっていたのだろう。私なら世界を救えると、それだけの力を与えられたはずだと信じていたから」
口調はあくまで穏やかで。響く声は音楽のようで。だから、逆に辛かった。決して良い思い出のはずがないのに。
「厳密にはな、私は地獄の王ではないんだ」
「ルシフェルが地獄でいちばん偉い……わけではないの?」
「単に万魔殿という一都市を任せられているだけで。地獄を統べるのは本当は……天界と同じ、主なんだよ」
主。ルシフェルの上に立つひと。
「神様……?」
ともすれば魔王と呼ばれる彼は、あたしの言葉にどこか幸福そうな微笑さえ浮かべて一つ頷く。
「この世界を光で満たしたいのなら悪魔など生まれるはずがない。絶対の存在である主が何故に悪を放っておくのか。それは、善は悪がなければ存在しないと同義だからだ。主は全てを以てこの世界を形作っておられた」
善と悪。それは恐らく光と影と同じこと。光がなければ影は出来ない。でも、影がなければ光はそれと判らない。
何か引っ掛かる……過去形。
かつてそうして形作られた世界は、今は。
「そのことに思い当たった時、まるで世界の理に近付いたような気さえした。主の御心を解したのだと自惚れていたんだ、恥ずかしいことに」
「……」
「主は世界を御創りになる。しかし出来た世界を動かすのは主ではない。産み落とされた者達……紛れもなく私達が発展させていく必要があった」
ルシフェルはそこで一旦言葉を切り、少しの間、黙って自分の手元を見つめていた。それから、何に対してか頷いてまた話し始める。
「地獄には幹部が七名いる」
「うん……?」
――あれ? これは知っていると思って応じたのだけど、今更ながらちょっと待てよと考える。
ずっと前、パーティーの時もレムレースさんの戦闘訓練の時も、先日の軍馬脱走の件にしても、これほど頻繁に堕天使さんや悪魔さんと関わっているのに。
思考を読んだかのようにルシフェルは首を縦に振った。
「そう。全員がこの都市に揃っている訳ではない」
ルシフェル、ベルゼブブさん、ベルフェゴールさん、レヴィ、そしてアスモデウスさん、以上五名しか。会ったことはおろか、名前すら聞かなかった。
「残りのふたりは別の階層にいる。地獄が何層にも別れていることは以前教えたな?」
「うん、確か」
「万魔殿よりも下に、そのふたりは居る」
「下……」
思わず床を見た。地下都市みたいなものだろうか?
「それで……それはそれとして、頭の隅に留めておいてくれ。堕天の理由を話すには、先に世界の枠組みを知ってもらわなければ」
迷いながら話しているみたいだったけど、混乱しているあたしにとっては、時折ある息の間がありがたい。
「まず、天界がある」
ルシフェルは虚空の一点を指で示した。
「地上がある」
少し下へ。
「万魔殿、地獄の各層がある」
更に下へ。
「その一番下に“煉獄”がある」
「れんごく?」
「世界を上から照らすのが天界ならば、下から支えるのが煉獄。ここに比べれば万魔殿など地上同様、中途にあるに過ぎない」
ふとサンドイッチを思い浮かべた。たぶん、全然違うと思うけど。
それにしても煉獄……どこかで聞いたと思ったらそうだ、あの軍馬。纏っている炎は煉獄のものだって。
「ただ、」
ため息を一つ、話は続く。
「この煉獄、放っておけば自ら拡大を続ける。欲望にはキリがないからな、史実それが国や都を滅ぼしたことは一度や二度ではないだろう」
……ん?
「そして煉獄に呼応するように天界も拡大する。世界も」
お?
「だから私は堕天した」
え?
「そういうことなのだが」
「ちょ、ちょっと待って!」
言われてもさっぱりわからない。拡大?
「もう少し説明をお願いします、先生……」
「え、ああ、そうか、分かりにくかったか」
唸り、目をさまよわせて「ん」ともう一度。
「世界というのは自然と拡大したがるものなのだが、これは良いか? ……ああ、いや、構わない。謝るな。そうだろうな、人間には理解し難いことかもしれない。そういう性質を持っているとだけ、今は思っていてくれ」
拡がる向きに動くもの。エントロピー……乱雑さとはまた違う話、かな。どうだろう。
「煉獄は拡大すると言ったな。土台が拡がろうとするのだから、それに合わせて天井も拡がる。そうしなければバランスが崩れてしまうから。煉獄と天界が拡大し結果的に世界が大きくなろうとするのは自然なこと。けれど、とても危険なこと。他の世界に干渉してしまうから」
他の世界。あたし達が生きるのとは別の世界があるというのか。
「パラレルワールドってこと?」
「パラ……?」
「あー、並行して存在する世界? みたいな」
「そんなところだ。分かってるじゃないか」
ルシフェルは嬉しそうに笑った。褒められると少し照れ臭い。
「それを防ぐため、私は堕天し、万魔殿の長となった。位置的にこの都はとても都合が良かったんだ」
サンドイッチを思い返す。天界、地上、万魔殿、煉獄。拡がろうとする煉獄の上に、立ち塞がるかのように陣取った都市。
「あ、え、まさか」
「私が堕天した理由は、この都をいわば重石として煉獄の、ひいては世界の拡大による他世界への干渉を防ぐこと」
――なんて、大きな。
話のスケールに目眩がする。まさかこの目の前の男は、本当に世界を救うために身を呈したというのか。主と別れ、大好きな弟と争い、純白だったろう翼を黒く染めてまで。魔王と呼ばれ悪魔と呼ばれ、それでもひとり闘っていたなんて。
「魔力を以て制す、ということだ。万魔殿と私は密接に関わりを持っていた。私自身の魔力を注ぎ込むことで都市は形を保っていたし、全ての機関はそうして動いていた。大した負担でもなかったがな。私の力はそれほどまでに強大だ。そして此処には、同じく魔力を有した数多の住民がいる。我々の存在が重石となる」
驚かせることが楽しくて仕方ないというように、ルシフェルはくつくつと肩を揺らす。あたしはただただ唖然とするばかり。おかしい。食いしん坊で天然の堕天使様と目の前で語る彼が結びつかない。
都市を保つ。ずっとずっと。
彼の仕事はこれだったのだ。書類も、会議も、もちろんきっと大切だけど。堕天使長は最も重大なこの仕事を続けてきた。たったひとりの力で。
「ここに移るためには天使で居てはならなかった。当時の反乱が、私が悪と描写される一因となったのだろうな」
もはや何が現実か考えるのを諦めたくなってくる……。でも気になることが。
「もし煉獄が大きくなるのを防げばいいなら、その、さっき言ってたふたりの幹部さんの力じゃだめだったの? 下にいるって言うなら……」
「それは出来ない」
ちょっと困ったような顔をして彼は続ける。
「ふたりのうち片方は主のことだ。統べるが、治めない。こちらでは《憤怒》と呼ぶ者もいるが」
ええ、そこに神様が入ってくるの?!
神の怒り、とか言うし変ではないのかなぁ。天界も地獄もまるっと見守ってる存在ってことなんだろうか、恐らくは。
「残り一名は……そうだな真子、問題を出そう。万魔殿の役人レムレースは絶対に罪を犯さない。何故だかわかるか?」
突拍子もない。
うーん……そういえば彼ら、仕事をしている姿しか見たことがないけど、まるでプログラムされているかのように丁寧で忠実だった。そもそも、この都で喧嘩だとか盗みだとかあんまり聞いたことがない気がする。
「悪魔と堕天使がいるところで下手なこと出来ないから?」
「それも、あるかもな。だがもっと根源的な話だ。魂というのはまず煉獄で裁判にかけられる。その償いの姿がレムレース。彼らは最小限の欲望を残し、他を全て煉獄に置いてくる。何せ欲から罪は生まれる、であれば欲を持たぬ存在を作れば良いと」
じゃあ万魔殿を慰安旅行でも楽しむかのように歩いている魂さんと、仮面の役人レムレースさんって、実質は同じということ?
欲望を置いてくる。なんとなく、浄化とかそういうイメージ。情報量が多くてクラクラしてくるぞ。
「というか、なんで仮面なの?」
「労働に顔など必要ないからな。肉体も身体能力の問題で、男である方が都合が良かっただけの話。……ちなみに真子が万魔殿に入る時に世話になった受付嬢、あれもレムレースと同等の存在だ。都市の顔だから、ああいう器を貸し与えてあるが」
要するに見栄だ、と肩を竦められた。初めて入獄手続きをしたときのことを思い出す。だから皆お人形のように可愛かったのか! そして言われてみれば確かに、女のレムレースさんって見たことがない。
「償いが済めば、晴れて転生というわけだ。さて、では先程の質問の答えだが」
残りの幹部。ひとりは神様、もうひとりは?
「煉獄に在るのは罪を犯した魂の欲。“それら”自体が幹部がひとり、マモン。《強欲》と呼ばれる悪魔」
概念としての存在? そうか、ルシフェルは「欲にはキリがない」と言っていた。渇くことなく永遠に増大する欲望を囲う煉獄もまた、ずっと拡大し続けるのは道理かもしれない。そしてそれ自体であるなら、当然ながらルシフェルの代わりにはなり得ない。
「これが地獄の幹部。大罪の名を冠する七柱」
《傲慢》である彼は、どこか誇らしげにそう言った。