第28話:ただいま
何度も来たことがある万魔殿の大通り。でも今はいつもと違う。いつも隣には彼がいた。いや、少なくとも誰か知り合いがいたのだ。
石畳の通りの端っこで独り。この状況、世間では……迷子というんだろう。
アシュタロスさんに連れられて地獄への入り口をくぐったあたしだったが、ふと体が離れたあの瞬間。たちまち人ごみにのまれて、すぐに銀色の背中を見失ってしまったのだ。
人の波、喧騒。辺りを見回してももちろん知っているひとはひとりもいない。向こうははぐれたことに気付いていないのかもしれない、もし気付いていたらすぐに来てくれるはずだから。
迷子は下手に動かない方がいいと言われるけれど……心細過ぎる。
通行人はみんな人間じゃあない。人型をしていてもそれは淡く光る魂さんだったり、仮面を着けたレムレースさんだったり、顔に刺青のある悪魔さんだったり。怖いとはそんなに思わないけど、やっぱり不安。
幸い、大きな大きな宮殿の姿は確認できる。よし、とにかくあそこへ行ってみよう。ひょっとしたら案外近くでアシュタロスさんと出会えるかもしれないし、そうじゃなくても宮殿にさえ着いてしまえば知っているひとが誰かしらいるはず。ベルフェゴールさんに会ったら……ちょっと怖いけど。
そうと決まれば早速、とくるりと方向転換した時だった。
「――え?」
傾く体。引っ張られる感覚。何が起こったのかわからないまま、悲鳴をあげる間すらなく。
あたしは暗い路地へと引きずり込まれたのだった。
***
暗い。何もかもが曖昧で。辛うじて薄ぼんやりと壁らしきものが浮かび上がって見えたから、ここは建物の間なんだと理解した。――と、
「?!」
何かが背中に当たる感触。柔らかくて重みのあるそれは紛れもなく生き物。
そっと後ろから伸びてきた腕。衣擦れの音。一拍遅れて、背後から抱き締められたのだと気付く。姿はもちろん見えないが。
なんだ、やっと来てくれたんだ。あたし、ちゃんと待ってたよ。
照れくさいからって、そうやってびっくりさせようとしちゃって。そりゃあ確かに心臓はヤバいくらいに跳ね回っているけど。
「もうっ、ルシフェル――」
嗅いでいると体が熱くなってくるような、香水のような匂いがする。腕を引き剥がそうと触れた時、何か硬いものが手に当たった。不思議に思って視線を下に移す。暗闇に浮かぶ白い手。そしてその指に煌めくもの。
ようやくあたしは気が付いた。ルシフェルは……こんなゴツい指環をしない。
「こんなところで独りは危ないよ? 仔猫ちゃん」
混乱した頭に響いたのは、低く艶めかしい悪魔の囁き。そいつはあたしの耳に息を吹きかけて――舐めた。
「なッ……!」
「《色欲》から逃げようだなんて無理な話さ」
咄嗟に逃げようとしたけど遅い。向かい合う格好で両肩を押さえつけ、そいつは不敵に唇を歪めた。背中にはひんやりとした壁。逃げられない。
「ね、前から思っていたけれど、君はとっても美味しそうだ」
「あっ……!」
漸く顔を見れば。
吸い込まれそうな金の瞳。同じく金色の、腰まで伸びた髪。中性的な顔立ちのくせに、紛れもなく男の力で押さえつけてくる悪魔さん。
「アスモデウスさん?!」
「ダメだよ、人間の一人歩きは。悪魔に食べられちゃうんだから」
アスモデウスさんはクスクスと笑う。本領発揮、ということだろうか。以前に会った時以上に妖艶なその表情は、一度見てしまったら目を離せない。そうしている間にも端正な顔が近づいてきて、笑んだ口元から鋭い犬歯がちらりと覗いて見えた。
あたしは、食べられちゃうのか。
漠然と考えていた。いや、既に考えることすら面倒だった。何故かわからないけどどこかふわふわとした気分で、もう何もかもがどうでも良かった。
悪魔がゆっくりと顔を近づけ、あたしの首元に埋める。そして……
「っ……!?」
突然はしった痛みに我に返る。何? 何をしてるの?
「や、だ……いたッ……!」
嫌でも五感が働き出す。熱い息、艶かしい音。それに……鉄の匂い。
頭が真っ白になった。悪魔が、血を。痛みと怖さに視界が滲む。
「や、やめ――」
『ふざけんなこの馬鹿ーっ!!』
《ガゴッ》
言うより先に甲高い声が聞こえ、視界の端にある悪魔の頭に何かがぶつかった。彼は小さく呻いてあたしから手を離す。誰だろう、女性?
「ゲ……君はちょっとお転婆すぎるよリリム……あと目上に対する敬意を持ちなさい、傷になったらどうしてくれるんだい?」
『うっさい、アンタは昔からやりすぎなのよ馬鹿!……大丈夫? って、ねえ?! しっかり!』
意識を手放す寸前に聞こえたのは、小さな足音だった。
***
最初に見えたのはクリーム色の天井。どうやらベッドの上みたい? さらさらと肌触りが心地好い布団、ちょっと他人の家の匂い。
ゆっくりと身を起こせば、肩の近くが鈍く痛む。それで悪魔に噛まれたことを思い出して、自然と背中が粟立った。
助けてくれたのは一体誰だったんだろう。女の子の声だったような。馬鹿、とか言っていた。あのアスモデウスさんに。ということはお偉いさんだったのかな……お礼を言いそびれてしまった。
アシュタロスさんにも迷惑かけてしまったし、謝らないと……
恐らく誰かがここに運んでくれたんだろう。呑気に気絶していられたってことは、害意があるひとはいなさそうだけど。
辺りを見回そうとして今度こそ本当に心臓が止まるかと思った。だって、だって、そこに居たのは。
「……ル、シフェル……」
いつものように折り目正しく黒衣を身に纏い、背筋をぴんと伸ばして。戸口に立つ、長身の堕天使。彼はそのまままっすぐあたしを見つめてくる。
小さな震えが駆け抜けた。懐かしい。少し離れていただけだというのに。
すぐにでも駆け寄りたかった。でも動けない。身体中がじんわり熱くて、自分のものじゃないみたい。
嬉しくて堪らないのは確かなのに、彼にまた拒絶されるんじゃないかという緊張と恐怖が止まない。……別れを告げに来たのだったらどうしようって。
どのくらいの時間が経ったろう。実際は大したこともなかったのかもしれない。ただ見つめていたら、ほう、と彼は目を閉じ溜め息ひとつ。ゆっくり目蓋を上げれば光を取り戻したはずの紅い瞳。でもそこから感情は読めない。
怖かった。何も、喜怒哀楽の何もなかった。ただの深淵だ。王者で在るという、ただそれだけの……
硬直しているこちらに構うことなく彼はベッドまでやって来て、その端、足元の方に躊躇なく座った。所作、長い手足も、何を思ってか伏せられた瞳も。全てが、別れる前から一つも変わらず美しかった。
「すまなかった」
全然すまなさそうな声音でなくて、何だか可笑しくなる。触れられる距離に居ることがこれほど心強いなんて。ふと緊張が解けた気がした。
「貧血だろう、大したことはないはずだ」
「あ、うん……」
また何も言わず居なくなってしまうんじゃないかととても心配だったのに。たった数日でさえ話したいことがたくさんあったのに。さっきまでの怖さはどこへやら、会えた嬉しさと安心感であたしは頬が弛むのを止められない。
彼が。あんなに会いたくて仕方がなかった彼が、本物が、其処にいるのだ。一気に喜びと実感が込み上げてきて、思わず毛布をぐしゃりとして身を乗り出す。
「あっあの、そうっ、アシュタロスさんとアスモデウスさんを見なかった? あたし、アシュタロスさんに連れてきてもらって、それで――わっ!」
くらっと視界が揺れてベッドに手をつく。馬鹿馬鹿、貧血って言われたのに!
まあ、悪いことばかりでもなかったけど。焦って立ち上がったルシフェルの優しさが見られたから。
「大丈夫か?」
「うん……うん、ごめんね、平気」
「……膝枕でもする?」
「なんで?!」
可愛らしく首を傾げる天然様にツッコミを入れる感覚も久し振りだ。座り直した彼は咳払い。
「私も、アシュタロスには会った。ちょっとした任務を頼んである。真子にすまない、と」
「そ、そっか。悪いのはあたしなんだけど……地獄ってやっぱりひとが多いね。はぐれちゃって」
「まあ、な。あとアスモデウスは……少し言い過ぎた。流石に反省しているだろうから許してやってくれ」
堕天使長はお疲れ気味だ。うん、ひとまずふたりとも無事ならいいや。アスモデウスさん、今度もし会ったらどんな顔をしたらいいのかなあ。構わないとは言わないけど、でも、あれで嫌いになんてならない、し。
ふと違和感。ルシフェルの言い方はまるで……まるでアシュタロスさんの動きもアスモデウスさんがあんなことをするのも知っていた、ような? アスモデウスさんに何をされたかなんて言ってないのに……アシュタロスさんから聞いたのかな。
「その……怒ってる?」
恐々訊ねるとルシフェルはきょとん顔。
「怒る? 私が?」
「えっと、なんていうか……勝手に地獄に来ちゃって、ごめんなさい」
アシュタロスさんに促されたとはいえ、待てなかったのは事実だ。今さら後悔。彼にも事情があるかもしれないのに。
なんとなく先の態度が気になって謝ると、意外にもゆるゆると首を振られた。
「いや。私は……自分のために流された涙を嬉しく思いこそすれ、非難する権利などとうに失くしている」
「え?」
しかし、まあ、じっと見つめられて恥ずかしい。誤魔化すようにとにかく口を開く。
「ね、ねえ、そういえばここって?」
ルシフェルは堅い表情で頷いた。
「万魔殿の一室だ。……真子、もう動けそうだったら少し……その」
「お願いがあるんだが」、そう続けたから本当にびっくりした。
言い淀んだのも仕方ない。彼が他人に何かを頼むなんてそう無いことだ。まして人間に?
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「絵が見たいんだ」
唐突に。
「……絵?」
「うん、真子が描いた絵」
「ええと、何の?」
役に立てると喜んでいたのにちょっと拍子抜け。繋がりがよくわからなくて首を捻ったあたしを見、彼はやっと穏やかに笑む。
「私の部屋からの眺めはとても良くて。その景色を描いて欲しいな」
こ、これは部屋にご招待ってこと? 初めてだ! それにしてもお洒落な、というか不思議な口説き文句もあったものだなぁ。
でも……どうしてこのタイミングでわざわざ?
色々と訊きたいこともあったけど、差し出された手を自分でも驚くくらい自然にとっていた。アシュタロスさんのより固くて、いつもひんやりとしている手。
「少し、話したいこともあるから」
「うん?」
彼はただ微笑うばかりだった。