第27話:祈り
本当に、格好いいのだ。見た目も性格も、可愛くて面白くて優しい。あたしが知る誰よりも美しくて誰よりも強い。まさしく最高傑作だ。
最後の言葉。「行ってくる」「行ってらっしゃい」……行って“来る”、と言ったんだから彼は必ず帰ってくる。絶対に帰ってくる。だから、たとえ数日くらい会えなくても、信じて待たなくちゃ……
「――おーい、進藤ー?」
「ふぇっ?!」
無理矢理に現実へと引き戻され、あたしは慌てて立ち上がった。それまで遠くに消えていた周囲の喧騒が戻ってきて、ああ小テストの返却か、と思い至る。
机の間の狭い通路を通り抜けて教卓へ近づくと、そこに怠そうに座っていた担任の楢崎先生は心配そうに首を傾けた。
「どうした。具合悪いのか?」
「い、いえ、別に」
言ったところでどうにもならないし、そもそもこんなことで凹んでいるなんて誰かに話せるはずもない。
「そうか。まあ後で個人的にでもいいから、なんかあるなら言えよ、な?」
はい、と呟いて席に着く。
ありがとう、先生。でも、大丈夫。
「追試は放課後ここでやるからなー」
追試か、久々だな。
答案に赤ペンで書かれた『追』の文字。紙切れを乱雑に折ってしまいながら、誰に聞こえるでもない大きさの溜息を吐いた。
***
「ヤベー、俺ぜってぇ追々試だよ」
「問二の答えってア?」
「うぁー、間違ったぁ!」
放課後。およそ教室の座席が満杯になるほどに集められた生徒達は、つい先ほど屈辱の追試験を終えたところだった。解放感よりも嘆きを露わにしている者の姿が目立つ。かくいう自分も、そこまで自信が持てる出来ではなかった。
それでもとりあえず今日は終了。帰ろうといつものように筆入れを鞄にしまっていたら。
「真っ子ち~ん!」
ぱたぱたと駆けてくる足音。名前を呼ばれて動きを止めたあたしの隣の空席に、小柄な友人が無駄に勢いよく座って「にへへ」と笑った。
「黎香ねぇ、また記録更新しちった」
「記録? 何の?」
「追試にお呼ばれした回数。聞いて驚け、三十三連敗!」
「えぇ?!」
「だって問題で何を聞かれてんのかわかんないしぃ」
んな言い訳を……。ていうか今日の小テスト、第三十三回目だぞ。まさかの全敗って、マジかよ!
本気で進路が心配になりそうな武勇伝に唖然としていると、でろーんと机に伸びた黎香が表情までもだらしなくこちらを見上げてくる。ほっぺが机に押し付けられて、変な顔。
「でもでもっ、真子ちんが追試って珍しいよね」
「あー……うん、まぁね」
それは、そうだ。勉強なんてこのところまともにしていないもの。小テストの対策なんてもっての外。本当に進路が心配なのはあたしの方かもしれない、と大袈裟なことを考えてみたりする。
「真子ちん」
ちょっぴり顔を引き締めた黎香の声に、一瞬ぎくりとする。
「最近ちゃんと鏡見てないっしょ。顔面にくまさんが住んでる」
「うわ、本当?」
ショック。でも寝不足なのは事実だ。毎晩できるだけ起きていようとしているし、実際に人生初の徹夜も何回か経験した。だって彼が帰って来た時に「おかえり」って言ってあげたいから。「ねえ真子、聞いてよ」って言う気がするから。
いつになったら帰って来てくれるの? 本当は不安で仕方がない。どこかでまた倒れていたら、アシュタロスさんみたいに怪我をしていたら、……そう思うときりがなくて。
「黎香もそうたんも池ぽんも真子ちんのこと心配してるんだよ。多分……多分なんだけどさ、それってルーたんと関係あるお悩みでしょ」
「……」
そんなにあたしはひどい顔をしているんだろうか。みんなに心配かけるくらいに。
そういえば、最近は池田君とよく登校時間が一緒になる。始業時間に合わせて真面目に学校に行くようになったのは進級したせいかと思っていたけど、それだけが理由じゃなかったとしたら。奏太が朝と帰りにわざわざ話をしに机のところまで来てくれるのも、黎香の暴走具合が少しだけおとなしくなったのも、そういうことだったとしたら。
「あんね、黎香サマもいつだって相談ばっちこい!、なんだけど」
そう、このことはまだ誰にも言っていない。友達の優しさに感激しても、言えない。
勝手で幼稚な我儘みたいだけど、彼が出て行ったのはあたしのせいでもあると思うから。心配をかけたくなかった以上に、自分が嫌で誰にも話せなかったのだ。あの日もしもあたしが彼のことを知ろうとしなかったら――そんな後悔を何度もした。他の堕天使さんにも会いたくなかった。
「今回は大事な伝言!」
「伝言?」
うん、と黎香は笑う。
「うちの堕天使さんが、会って話したいんだって」
喜んでいいのかどうか。こちらから行く前に、呼び出されてしまった。
***
「少し、久しぶりですね」
変な音をたてる機械が所狭しと並んだ部屋で、銀髪の堕天使は微笑んだ。ここはマンションの一室であって実験場ではない。堕天使さんはというと、いつもの黒衣を纏っている。
伝言から二日。休日である今日、黎香の家にやっと来ることができた。急を要するものではないしむしろゆっくり話したい、ということだったからお言葉に甘えて……というよりもできるだけ先延ばしにしたくて、とうとう土曜日になってしまったのだ。彼は帰って来ないまま。
黎香本人は気を遣ってか席を外してくれているらしい。だからあたしとアシュタロスさん、ふたりだけ。随分と緊張してここを訪れたのだが、最初にアシュタロスさんの笑顔を見てとてもほっとした。この堕天使さんが笑っていられるということは少なくともルシフェルは無事なはずだから。
何を言ったらいいのか。通された居間で戸惑っていると、目の前にビニール袋が掲げられる。
「黎香さんが買ってきてくれたんですよ。お昼御飯、一緒にどうです?」
袋の中身はコンビニのおにぎり。それだけ、と言えばそうなんだけど。でも、一人じゃないご飯は、久し振りにちゃんと味がしたような気がした。
その後、「散歩でも行きませんか」という提案にうなずいて、あたし達は黎香の家から比較的近いところにある団地公園へと歩いた。あまり整備はされていなくて、土はむき出し、ブランコとベンチぐらいしかない公園。
着くまでは他愛もない話しかしなかった。お互いに核心には触れることなく。あたしはその間ぼんやりと、いつか彼と歩いた川沿いの散歩道のことを思い出していた。
「座りましょうか」
「う、うん」
ベンチに座ってからはしばらく沈黙が続いて。いちばん暑い時間帯、休日なのに辺りは静かで、じりじりと地面が焼ける音が聞こえてきそう。せめてセミでも鳴いていればよかったのに。
あまりにも、平和。
本当は何も特別なことなんてなくて、様子見で呼んだのじゃないかとそんなことを思う瞬間もあった。けれどようやく彼の名前が出た時、ついに、となんだか悲しいような奇妙な気分に襲われる。
「……ルシフェル様の体に、大きな傷痕があるのを知っていますね」
びっくりした。まるですべてを見透かされているみたいだったから。
唐突な問いかけだったけれど、しっかりとうなずく。暑がりな堕天使様はしょっちゅう半裸だったもの、お腹にある痛々しい傷痕は何回も目にしてきた。
「では、どうしてあの傷を負ったのかについては?」
今度は黙って首を振る。そのことを尋ねたまさしくあの日から、彼は帰って来なくなってしまった。答えてくれると約束したまま。
アシュタロスさんは静かに目を伏せ、慎重な様子で言葉を紡ぐ。話すかどうかではなく、どう伝えるか一語一語を選んでいるみたいに。
「あれは……あの傷は、堕天する際に大天使ミカエル様との戦いで負った傷です。ミカエル様のことは?」
「名前だけ、なら」
ミカエル。ルシフェルのことについて調べていた時に何度か名前を見かけた気がする。でも内容は全然覚えていなくて、少し申し訳ない気持ちになる。
しかしアシュタロスさんは「充分です」とうなずいてくれた。
「天界の四大天使のひとりです。今は大天使長の座に、つまりは以前のルシフェル様の立場に就いておられる。……ミカエル様に剣を教えたのは、他ならぬルシフェル様なのです」
大天使長。万魔殿でラケルさんは具体的なことを話してくれなかったが、本当の本当に彼は天界にいた時もずっと上の立場に在ったのだ。
もっと驚くべきは、そのミカエルさんという偉い天使様に剣を教えたという点。ならば彼は弟子と戦ったのだろうか? 訊くと、アシュタロスさんはそっと否定して。
「いいえ、弟子ではありません。ミカエル様はルシフェル様の弟です」
「え……?」
まさか。
それじゃあルシフェルは実の弟と戦って堕とされたというのか。あんなに大きな傷まで負って。
「お、弟って」
「彼はその話題に触れられることをひどく嫌がりますから、仕方のないことなのかもしれませんが。その様子だと、真子さんには言っていなかったようですね。やはり封じたままでいらっしゃったのか……」
おろおろするしかないあたしの頭の中は、突然明かされた彼の秘密でしっちゃかめっちゃかな状態で、アシュタロスさんが悲しそうにしている理由なんか考える余裕もない。
ルシフェルに、弟。堕天使にも兄弟がいるなんて。
彼は実の弟に斬られたのだ。天使の世界で兄弟というものがどれほどの重みがある関係かはわからないけど、それでも、きっと惨いことなのに違いない。
「ルシフェル様はミカエル様をそれはもう溺愛しておられました。見ている我々が呆れるほどに」
紫苑の瞳がふと遠くを見るような目つきに変わった。優しい眼差しが彼と被ってどこか懐かしく、でも彼はこうして過去を思い出すようなことはしなかったと思う。
ミカエル『様』。天使と、堕天使と。今更ながら彼らのことがわからなくて胸が痛んだ。だって、敵対し剣を携え戦ったのに。目の前の彼は、未だに天使を敬っているじゃないか。
「とても仲の良い兄弟でした」
「なら、どうして……」
そんなにも仲が良かったのなら、周りが呆れるくらいに愛していたのなら、何故ふたりは戦ったのか。どうしても争わなければならない理由が、どうしても堕天しなければならない理由がそこにはあったのだ。傲慢だとか嫉妬だとか、伝承にあったような動機で彼は弟を傷つける道を選ぶひとじゃない。
弟に剣を向けた時、ルシフェルはどう思っただろう。彼は優しいから、と考える。きっと理由が何であれ、苦しまなかったわけがない。そう思うと、自分のことでもないのにまた泣けてきそうだった。
「直接彼の口から聞いた方が良いでしょう。僕が語るそれは、彼らの真実ではない」
「……」
「僕が言いたいのはそこではないのです」
と、声の調子がわずかに明るく変化する。ほんの少しだけど。
「ルシフェル様はいつだって迷い、悩んで選択してきました。ミカエル様に、天界に刃を向けると決意する時も相当迷っていた。正しいことなのかどうか確信が持てないと、一度だけ僕に漏らしたこともあります。ただ常に言っていました――『責任はとる』と」
はっとした。責任。彼が直接その言葉を口にしたことは数えるほどしかないけれど、でも、いつも行動の根幹には責任感というものがあったように、今となっては思う。あたしを守ると言ってくれた時もそうだった。
「それが何より彼を追い詰める原因でもあるのですがね」
「……だったら今回も」
「ええ。恐らく彼なりのけじめをつけるつもりなのでしょう。それがどんな結果をもたらすかはわかりません。けれど、きっと心配要らないと思います。彼は……ルシフェルは、とても強いですから」
思わず顔を上げた。優しい表情に力強い言葉が信頼の証。ルシフェルって、仲間からすごく慕われているんだなと思う。
「アシュタロスさんってルシフェルのことをとても信頼してるんだね」
何だか嬉しくなって笑った。愛想笑いじゃない笑顔はいつ以来だろう。久々でぎこちなくなってしまったけど。
「ルシフェル様とは長い付き合いですからねぇ。もちろんミカエル様とも。僕はルシフェル様の……えーと、何なのでしょう」
「親友、ってこと?」
「なるほど、親友……ですか」
その言い方、そしてほんの少し寂しそうな微笑を見て後悔した。遅ればせながら女の勘が働く。
あたしなんかよりもずっと近くでルシフェルを見てきた堕天使さん。ついこの間、抱き締められながら涙を零していた姿が脳裏に浮かぶ。そうか、やっぱりこのひとは。
「アシュタロスさん、ルシフェルのこと――」
「それを貴女が言うのは野暮というものですよ」
「でも、」
尚も言い募ろうとして口を噤む。なんだか触れてはいけない部分だったような気がして。
アシュタロスさんは“彼”なのだ。あたし達は敬意を表してそう呼ばなければならない。
向こうもひょっとしたらこの前のことを思い出したのだろう、珍しく顔を赤らめた。
「この間は恥ずかしいところをお見せしましたね」
案の定そう言われた。本当に自虐的な響きがあったから、咄嗟に否定する。秘密を知ってしまってからはどうしても、敵わないなぁという視点で見てしまうことがあるから。
「恥ずかしくなんてない。アシュタロスさんはルシフェルのためにすごく尽くしてたし、感謝されるのは当然だよ。むしろ羨ましかったもん、あんな風に、その……」
「真子さんには、抱き締められる権利はないのですか?」
「えっ」
言葉に詰まったあたしを遮り、いつになく真剣な顔でアシュタロスさんは言った。
あたしが……あたしはルシフェルの力になることができているのだろうか。目の前の堕天使さんみたいに。
「彼はね、真子さん」
ぎ、とベンチがきしむ。立ち上がった彼を座ったまま見つめる。
「彼は他者に頼ることを知らなかった。愛するばかりで、愛されることを知らなかった」
数歩、進む。銀色の長い髪がきれいだなと、やはりどことなく華奢な背中を見て思う。緩い黒衣を着ていても、知ってしまっているから、見えてしまう。
「僕らが……僕がどれだけ愛していると、お慕い申し上げていると伝えても、それは結局いつだって主従愛の中にありました。僕は、超えることができなかった!」
吐き出された言葉。忠臣の、忠臣であるが故に抱く思いの丈。
“彼”が“彼女”になったその瞬間、儘ならない痛みを叫んだ一女性にかける言葉をあたしは持たない。
「……だから正直に言って、僕は貴女が羨ましい。僕らが何百何千もの年月を重ねてもできなかったことを、ほんのわずかな時間で成し遂げてしまったのですから。皮肉なことだと思いませんか。彼を救ったのが我々天使や悪魔ではなく、彼が見下すような真似をしてきた人間の貴女方だなんて」
本当は、あまり顔を見たくなかったのだけど。そこで銀髪の堕天使はくるりとこちらを振り向いた。向き合わなければならない、そう思って見上げた“彼女”の表情は初めて見るようなものだった。
怒るとか憎むとかそういうのではない。ただ、ひたすらに辛そうだった。
「羨望だけではありません。貴女を妬んだことだってあります」
改めてゆっくりと歩み寄ってきて、アシュタロスさんは目の前で立ち止まる。あたしは何も言えずに、黙って紫苑の視線を受け止める。その義務がある。
「僕らは貴女方とは違う。僕が何より優先するのは彼の命令」
「……」
「もしも彼が、人間を殺せと言ったなら――」
ひうん!、と風を切る音。
眼前には銀色の物体。鼻先すれすれにナイフが突きつけられていた。その柄を握りしめた堕天使さんの顔は驚くほどの無表情。
「もちろん、やりましょう。貴女や黎香さんが相手だって僕はきっと躊躇わない。……けれど、」
耳鳴りがした。いつも彼らがやってくる時の前兆と同じもの。
誰が来るのだろう。恐怖と期待とに胸が鳴るのを感じながら緊張していると、案外それはすぐに現れた。淡い緑色の光が描く幾何学模様はアシュタロスさん自身の足元に。そうして手に持ったナイフを星の角に突き立てれば、完成したのはひとつの魔方陣。
「僕は彼に幸せになって欲しい。あの方はもう充分に苦しんだ。多くのものを背負い続けた身も心もとうにぼろぼろなのです。だから……彼が望むなら」
差し伸べられた手。驚いて目線を上に移すと、再びの笑顔には本当に誰かを愛するひとの強さ。
戸惑いながらもその手を取ったあたしを促して、彼は言った。
「僕はできることをするのみ。真子さん、貴女は幸せになりなさい。彼のためにも」
「アシュタロスさん……」
――ああ、勝てないなあ、やっぱり。
プライドの高い彼のこと、主従の線引きを超えさせることは絶対になかったのだ。これほどの愛を前にしたって。
あたしにできること。天使でも悪魔でもない、一個の人間だからできること。
足元から光が溢れている。中央に立つ堕天使さんに引き寄せられる。ナイフを思い出して体が強ばってしまったけど、その手つきは存外に優しくて。耳元で告げられた緊張の声音。
「掴まって。地獄の入り口を、開きます」