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Betrayer (2)

 言葉を失ったベルゼブブは放られた首飾りを慌てて受け取り、何を、と口を開きかけた。その刹那。

 世界から音が消えた。風がぴたりと止み、全てが息を潜めるかのように。

 からん、と剣の落ちる音がひとつ。そして。


「アスモデウス!」


 ベルフェゴールの怒号が聞こえた時には既に彼らはその場から飛び退っていた。堕天使の行動が奇妙だったからばかりではない。彼らの本能が警鐘を鳴らしたのだ。

 静寂が嘘のように突風が吹き荒れる。空気が震え、漆黒の羽根が舞い上がる。


『――《リクウィデイト》』


 それはまるで呪詛の如く。呼応するかのように大地が鳴動する。

 やがて風が止んだ時に悪魔達が見たものは、一瞬で無惨に抉れた地面と、その中央でだらりと両腕と頭を垂れて立つ堕天使だった。退避しなければ間違いなく、跡形もなく消失した草木と同じ運命を辿っていただろう。

 彼の喉から音が漏れる。地を這うような低い……笑い声だった。


『クク……クハハ……クハハハハッ!!』


 顔を上げた彼は愉しそうに嗤う。それから調子を確かめるかのように首を鳴らした。


『悪くない』


 元々の穏やかな声色。だが底には甘く冷たい響きが潜む。


「てめえ……誰だ」


 そこに居たのはルシフェルであってルシフェルではない。鋭利な美貌はそのままに、しかし紅い瞳は寒々しいまでの輝きを帯びていた。


『誰? ルシフェルだよ、見れば分かるだろう』


 彼はベルゼブブを見返して薄い唇を三日月の形に歪める。


『同じ名では呼びにくいか? では……《ルシファー》でどうだ? 天使と同じ名というのも癪だからな』

「ルシファー……」


 ひゅう、とアスモデウスが口笛を吹いたが、ベルゼブブは無視した。

 違和感などという生易しいものではない。完全なる別人。今や彼らの目の前にいる男は堕天使の長ではなかった。


「オイ、てめえルシフェルをどこへやった!」

『クク……愛すべき枷は中で眠っているよ。有難いことだ。奴が強く在ろうとしたお陰で私も強大な力を得られた』

「中、って……どういうことだよ?!」

『なんだ、聞いていなかったのか』


 胸に手を当てたまま、ルシファーは心底驚いたという表情を見せた。


『傲慢な天使よ。堕ちて尚、己を過信するか』


 ため息混じりに呟く声は、本当に呆れ果てたように。

 するとそれまで黙っていたベルフェゴールが口を開く。


「貴様、悪魔だな」


 腕を組み不機嫌さを隠そうともせず、灰色の双眸でルシファーを睨む。ほう、と見返した男の声には楽しむような色があった。だが、


「悪魔……?!」


 呆然とベルゼブブは呟く。


「なんで、……」

『――愚者共が』


 吐き捨てた悪魔の紅眼が堕天使を映す。憎悪の眼差しに過るのは深い憐れみの情。


『奴は不幸だ。結局、誰にも理解されることはなかった。貴様ら堕天使は……天使は一度でも奴の弱音を聞いたか? 欠点を見たか? 救いを求める声を聞いてやったか?』

「……」

『抑圧された欲望は切欠さえあれば一気に膨張し、やがて人格を破壊する。そして私が生まれ……奴は私を己の中に住まわせることにした。奴が堕ちた時、闇から救い出したのはこの私だ。今や奴は自ら私に体を渡した。力を貸せ、と』

「そんな!」


 一声叫びベルゼブブは体を震わせる。完璧だと思っていた。どこにも欠点はなく、そうやって創られているのだとばかり。

 だが、違った。光の名を冠した天使は、その輝きが照らすことのできない場所で闇を濃くしていたのだ。知らなかった……否、誰も知ろうとしなかった。優しく慈愛の笑みを見せる天使が救いを求めていたことなんて、誰にも分からなかったのだ。負の感情が悪魔を生み出すまで。


『言っておくが。貴様に私は殺せない。“殺させない”』


 呆然とする堕天使を一瞥し鼻で笑うと、悪魔は背筋を伸ばして辺りを見回す。


『さて』


 大気の温度が下がってしまったかのように、数多の生命が呼吸を忘れてしまったように。その空間はもはや強大な悪魔の支配下にあった。


『知っている、知っているぞ。全て中から見ていた。ベルフェゴールにアスモデウス、そしてベルゼブブ。先に死にたいのは誰だ?』


 しかしその場にいた悪魔はひとりではない。凍てつく殺気を発しているのはルシファーだけではなかった。


『貴様か』


 愉快そうなルシファーの視線の先。発散される力に白銀の髪を靡かせ、ベルフェゴールが敵を見据える。

 鋭い歯を剥き出した口から漏れる唸り声、その姿はまるで獣。灰色だった瞳はいつしか血のような紅色に変化していた。


『漸く本性を現したか。ああ……素晴らしい。私を殺したいか? 良いだろう!』


 瞬間、ベルフェゴールの爪がルシファーの胸を裂いた。白衣もろとも、紅い軌跡が宙に描かれる。ルシファーは嗤いながら片腕を振るった。

 先の戦いとは速さも力も段違い、それでももう彼らは″能力″を使わない。肉弾戦……極力相手に血を流させる戦い方。


「君、そこに居ると危ないかもよ」


 不意に聞こえた声にベルゼブブが顔を上げると、頭上の木の枝にアスモデウスが座っていた。


「感傷に浸るのもいいけど、巻き添えで八つ裂きにはされたくないだろう?」


 ベルゼブブは黙って飛び上がり、アスモデウスの隣に立つ。見下ろした先では目まぐるしい攻防。生臭い、血の匂いが漂っている。


「……会った時から変わった堕天使だとは思っていたけど」


 金髪の悪魔は隣を見ようともせずに言った。


「不思議な力を使ったかと思えば、まさか内側に魔物を飼っていたなんて。美しくって謎が多い。ますます気に入ったよ」

「あれは……ベルフェゴールは、どうして」

「悪魔は皆、本当はああなんだよ。普段表に出しはしないけれどね。血に酔った時なんか、ついつい本性が出てしまったりする。ベルはルシファーを止めるために自分で制限を解いたようだけど」


 白銀の悪魔はルシファーへ飛び掛かり肩口に食らい付いた。鮮血が吹き出し、口を真っ赤に染めたままの悪魔は地へと叩きつけられる。肩からどす黒い液体を滴らせる友の姿を見てベルゼブブは声を上げたが、アスモデウスは眉一つ動かさなかった。


「僕らは天使と違って、相手を傷付け血を流させることにさほど抵抗がない。それでもいわゆる大虐殺をする時には、今のベルみたいに我を忘れていることが多い。本能的な衝動さ、抗えない。そのぶん記憶も朧気だ。けれど、」


 言葉を切り殺し合いを見下ろす。一方は形振り構わずひたすら相手に向かっている。だがもう一方にはまだ理性が残っているように見える。自分の行為を理解し、その上で快楽を得ているような様子さえ伺えた。


「彼は珍しいね。正気のままに殺戮を楽しんでいる」

「じゃあもしアイツが、元に戻ったら」


 アスモデウスは頷いた。


「まあ、戻る保証もないけれど。君が思っている通りだろうね。彼は自分の手が血に濡れた感触を覚えている。相手を殺めた瞬間を覚えている。堕ちたとはいえ元々は天使、果たして耐えられるかな?」


 蒼白となるベルゼブブを尻目、悪魔は笑みを崩さない。惨状を眺めながら、どこか恍惚とした表情で悩ましげな息を吐く。


「なんて素敵なんだろう、可哀想な天使! ああ欲しくて堪らないよ。そうして僕の腕の中で狂えばいいんだ。僕だけに涙を見せればいい」

「……止めねェと」


 うわ言のように呟かれた言葉。


「早く止めねェと、アイツは!」

「無理だね」


 素っ気なく放られる一言。悪魔は一転、冷ややかな金眼で堕天使を見上げた。


「堕天使の……いや、理性が残る君には無理だ。本能には勝てない」


 首を噛み切られても悪魔の動きは衰えない。むしろ一層攻撃が苛烈になってきているようですらあった。服というより布きれに近いそれらに紅以外を見つける方が難しく、地面は乾くことを知らない。

 それなのに、と青ざめるベルゼブブはこれほどおぞましい光景を見たことがなかった。それなのにどうして、彼は笑っている――?

 ルシファーが突き出した手、それはベルフェゴールの脇腹を深々と抉った。


「こ、このままじゃふたり共もたねェ……アイツはベルフェゴールを殺しちまう! また……またオレはアイツを救えねェのかよ……!」


 後悔、悔しさに違いなかった。友の支えとなることが叶わなかった堕天使は拳を握り締め、声を震わせる。

 どうして、こんな。

 命を賭けるという決意に嘘はなかったと思う。だが目の前のこれは一体何だ。こんな不毛な争いのために自分達は堕天しなければならなかったというのか。


「てめえは悪魔だろ。仲間が死にかけてンだぞ……?」


 ふらりと白銀の悪魔の体が揺れる。しゅうしゅうと息を漏らす姿は最初とは違ってきていた。

 その悪魔は怯えていた。全身を紅に染めながら薄く笑んでいる強大な悪魔に。天使から生まれたのだと語る、残忍な化物に。


「てめえが本気になれば、」

「断る」


 悪魔はどこまでも悪魔で。同朋の姿を見下ろす顔には色がない。平坦な美しさがあるのみ。


「僕が本気に? 冗談はよしてよ。いずれにせよ僕はどちらかを……ひょっとしたら両方とも殺してしまうかもしれないし、仮に全員が生き残ったとして、それを誰が止めるんだい?君は血に酔った悪魔を三人、相手にできるのかい?」


 静かで、どこか馬鹿にさえしたような声音だった。自らが犠牲になることも勘定に含まれているのだろう、彼らにとってはわざわざ言葉にするほどのことではないだけで。


「この戦いはきっと、どちらかが死ぬまで終わらないよ。むしろそれで終われば安いものさ。残虐に残虐を重ねて、気の済むまで血を浴びて、それで初めて鎮まるだろう。勝負はまあ、もう決まったようなものだけど」

「こ、の野郎……!」

「勘違いしちゃいけないよ堕天使サン。僕はいざという時ベルを止めるためにここへ来た。助けるためなんかじゃない。彼が地獄の秩序を壊すようなことがあれば、僕が彼を殺すために」


 友よりも規律を選ぶ。同朋と呼び、事実そうであったに違いない悪魔を消し去るために、アスモデウスはそこに居た。そこに居て、ずっと戦いを静観していたのだった。


「……ああ、でもそれじゃあ彼が生き残るとなると、嬉しいけれど厄介だな。ベルより容赦がないんだものねえ、先に僕が死んでしまうかも」


 軽薄な独り言にベルゼブブは言葉を失い天を仰ぐ。低い曇天。これが地獄へ来るということなのかと、今更ながら彼は思う。これが堕ちるということなのかと。


 鈍い打突音がした。何かが潰れたような音も。


「ア……ガ……ッ!」


 ルシファーがベルフェゴールを樹へと叩きつけ、その喉を締め上げていた。片腕で獲物を押さえつけた悪魔の紅眼は爛々と輝いている。痛みなど感じていないかのように。


『惜しいが――もう、飽いた』


 全て遊びに過ぎなかったのだ、この美しい悪魔にとっては。事実、彼は息一つ切らしてはいない。

 対してもがくベルフェゴールの口からは苦しげな呻きが溢れる。捕らえられた敗者に生き残る術はない。胸を目掛け、深紅の凶器が突き出される。


『死ね――!』

「やめろルシフェル!!」


 鋭利な爪が獲物を一突きする、はずだった。

 だがベルゼブブの叫びと同時、悪魔はぴたりと空中で腕を止める。

 その顔はベルゼブブの方を見ようともしない。どうやら彼が気を変えたのには違う理由があるらしかった。


『……起きたか。早いな』


 ひとりごち、手を放す。ベルフェゴールはその場に崩れ落ちた。アスモデウスは動かない。ベルゼブブもまた動けない。

 今の今まで殺そうとしていた相手にはすっかり興味を失くした様子で、悪魔は高らかに笑い声を上げた。とても愉しそうに。とても嬉しそうに。


『良いぞ、流石は光の子! そうでなければ面白くない。だが忘れるなよルシフェル……いずれ必ず、必ず貴様を内から喰らい尽くしてくれる!』


 叫び終えた途端、糸の切れた操り人形の如く血塗れの肢体から力が抜ける。彼はそのまま膝を着き、倒れ伏した。

 それっきり、だった。投げ出されたふたつの体は微動だにせず。


「ルシフェル!」


 先に動いたのはベルゼブブ。友の側に屈み込む。

 次いでアスモデウスが音もなく飛び降りた。堕天使達には目もくれず、細身に似合わない力でベルフェゴールを軽々と抱き上げて。傷ついた悪魔から紅黒いものが滴り、その水音にベルゼブブは顔を上げる。


「安心しなよ、まだ生きてる。ベルも、彼もね」


 見れば横たわった堕天使の胸は、弱々しくはあったが確かに上下している。ベルゼブブが抱えても半身は力ないまま。白衣を汚したのは彼自身の血か相手のものか。


「彼が目を覚ましたら伝えてあげるといい、君は誰も殺していないよって。それと……万魔殿の統治権をあげる、ってね」


 アスモデウスの足元が淡い光を放ち始める。やがて浮かび上がる円形の幾何学模様。


「一応ね、君だけに良いことを教えてあげようか、堕天使サン」

「……ベルゼブブだ」

「フフ、失礼。ベルゼブブ、僕らはそこの彼に万魔殿を治めてもらうだけじゃない。万魔殿の長とすることで彼をここに置いておきたいんだ、暴走されてしまっては困るから。反対する奴なんかいないよ、こんな状態のベルを見たら誰だって認めざるを得ない。もちろん君達堕天使にも協力はしてもらうつもりだけど……僕らでその悪魔を管理させてもらう」

「それは……今回みてェに、何かあればコイツを殺すために、か?」

「地獄にとって彼が脅威となるならば、僕らはこの身が朽ちようと容赦はしないよ。彼の一人勝ちになったのなら、きっとその時が世界の終わりだ」


 堕天使は唇を噛んだ。世界の枠組を守るために堕天した彼らと、動機は何ら変わらない。


「彼は《大罪》の座に就くだろうね。……やっと空席が埋まるって訳か。天使として誕生していただなんてねぇ……皮肉なものだ。レヴィにも教えてあげなくちゃ」


 長い金髪が風に踊る。魔方陣が完全に姿を現した。


「君ら、治療師は居るのかい?」

「心得があるヤツなら、少しは」

「そう。だったらとにかく傷の手当をしてゆっくり休ませてやるといい。肉体も精神もとうに限界を越えているだろうから。天使が居ればましだったろうけどね、仕方ない」


 既に堕ちた彼らに傷を癒す力はない。悪魔も同様に。


「……そっちの、ベルフェゴールは大丈夫なのか」

「心配ありがとう。でも恐らく、大事ない。散々いたぶってくれたみたいだけど見事だね、悉く急所を外してある」


 ベルゼブブは唾を呑み込み、もう一度腕の中の友を見下ろした。

 あの力を見たから分かる。わざと、だ。血の匂いを肉の感触を悲鳴を最大限に堪能して、それから止めを刺すつもりだったに違いない。


「さて、そろそろ行くよ。彼の容態が安定したら報せて欲しい」

「ああ」

「じゃあね、ベルゼブブ♪」


 最後に妖しい笑みを残し、悪魔達は魔方陣ごと消え失せた。

 一瞬の後に取り残された堕天使達だったが、不意にベルゼブブは何かに突き動かされたように立ち上がった。そして躊躇いながらも友を背へと担ぐ。ぬるりと滑る両手に顔をしかめ、だが彼もまたその場を去った。

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