Betrayer (1)
光の届かぬ闇の中。磔にされ、ただ独り。
呪う彼には誰も応えず。それでも憎み、呪咀を吐く。
――出セ
痛みに耐えかね暴れれば、黙れと締まる戒めの鎖。されど弱気に震える鋼鉄、もうじき彼は放たれる。
――望メ
いくつ理由を並べたところで、結局事実は変わらない。いくら歴史を取り繕っても、犯した罪は取り消せない。
何故私だけが許されない? そんな話があって堪るか!
ああもうこの際、誰でもいい。この苦しさから解放してくれ。受け止めてくれ。
押し込め昂ぶる破壊の衝動。叫んだ瞬間、硝子は割れる。刹那の邂逅、騙る相棒。
――力を
――対価ヲ
擦れ違いざまに小さく笑う。
――絶望スルガ良イ、枷ヨ!
振り向く先には誰もいない。眠れる彼は、暫しの身代わり。
***
今日この日に至るまで、空は一度も蒼色にならなかった。薄暗い天井を擦るように木々が風に鳴く。だのに鳥一羽さえ見当たらないのは元からいないだけなのか、それとも満ちる殺気に逃げ出したのか。
少しの距離を行けば幾億の住民のいる都市があるとは思えないくらい、その広大な土地は静寂に包まれていた。ここならいくら暴れようとも、周りに被害が出ることはそうあるまい。
「あの時はまさか貴様らが堕ちるなどとは、夢にも思わなかったが」
二名の悪魔のうち、片方は堕天使も見知った顔――何度か天界を訪れたこともある、万魔殿の最高責任者・ベルフェゴール。ゆったりとした長衣の上からでも、鍛え上げられた体つきは見て取れる。
その隣には妖艶な笑みを浮かべた金髪金眼の悪魔。同じく黒衣に身を包み、しかし華奢な体躯は、その長身のせいかベルフェゴールと並んでも不思議と見劣りしない。
「ふぅん、君達が、ねえ。僕はアスモデウス。はじめましてってことになるけど……」
舐めるような視線が堕天使達の上を滑る。嫌悪感にベルゼブブが顔をしかめると、悪魔は楽しげに目を細めた。
「実に美しい! 気に入ったよ。特にそっちの黒髪……ルシフェル? 好きだねぇ」
一層笑みを深くしてアスモデウスは唇を舌でなぞった。慈愛からは程遠いその眼差しに、指名された堕天使は柳眉を僅かに動かしただけで何も言わない。
「まっ、ベルゼブブだっけ? 君もなかなか可愛い顔してるけど――」
「「黙ってろ」」
敵と味方、両方の“ベル”に突っ込まれた悪魔は肩をすくめ、それ以上は口を開かなかった。彼の上司は、咳払いをひとつ。
「雑談するために来たわけではない」
灰白の瞳が寒々しい光を帯びる。淡々と、しかし場を掌握してしまうような存在感。語らずともわかる力。
「そっちの話はわかった。貴様らが堕ちた理由も理解した。そのためにこの都市……万魔殿の統治権が必要なことも。だが生憎、ここの制度は情だけでは動かない。欲しいならば自らの力で奪い取ってみせろ」
地獄は実力社会なのだと万魔殿を治める悪魔は言う。数刻の後には自分が存在しないかもしれないというのに、命を懸けることに何の気負いもなさそうに。
否が応でも緊張せざるを得ないふたりの堕天使はうなずき、その長はやっと静かな声を発した。
「覚悟はできている。悪魔のひとりやふたりに勝てないで、世界を背負えるとは思っていないからな」
「言ってくれる」
小さな嘲笑。ベルフェゴールにとっても堕天使達は決して歓迎すべき客人ではなかった。堕天の理由を鑑みれば、彼は力不足と言われているに等しいのだから。世界を守りたいなどと崇高な思想は持たずとも、代わりにやるから寄越せと言われて素直に従うほど、誇りというものを忘れた覚えはない。
「僕はどうしようか、ベル?」
「好きにすればいい。貴様の勝敗は関係ない」
「つれないなぁ。元天使に敗けたら恥だけど、さ」
悪魔の言葉に青筋を立てかけた相方を、堕天使の長はそっと制する。冷静にならねば気付けない……何故アスモデウスはここにいるのか。
悪魔は考える暇も与えてはくれない。張り詰めた糸を断つように、ベルフェゴールは魔力を編み始め、ルシフェルは腰から剣を抜く。
「……頼むぞ」
その一言はどちらの長のものだったか。瞬きの間に、遠く離れた場所で蒼い光が炸裂した。
***
(本当は、もうわかっている)
振るわれた剣を避けながらベルフェゴールは思う。覚悟? そんなもの、彼らがこの地獄にいること自体が証明している。世界を背負うと、そう言って彼らは天を捨てたのだ。故郷も存在意義も仕えるべき主も、全てを失ってまで意志を貫いた。本当はもう充分だった。
(だが!)
氷柱が次々と地面から突き出す。堕天使の長はそれらを器用に躱して飛んだ。元は純白だったろう一対の巨翼、今は漆黒のその罪の証。
(見せてもらわねばならない)
再び、ここで。堕ちた者を縛るのは万魔殿の規則。天界で彼がどう統治していたのか……などということは悪魔が知る由もないが、少なくとも躊躇いなく他者を斬って捨てられるくらいの非情さがなければ、この都市で覇者として君臨することなど出来はしないのだ。現に彼とてこの地位に就くまでに、多くを力でねじ伏せ黙らせてきた。それがここの常識で、敗者は己を呪いこそすれ、理不尽を嘆くことはない。見方を変えれば機会均等、昨日の臣下が今日の王者になる可能性は充分にある。
天使だった……しかも最も光に近かった者に、そんな冷酷さがあるとは悪魔には思えなかった。現実と理屈は違う。力のない者はこの都市ではすぐに“喰われる”。
「絶対零度……《アブソリュート・サイファ》!」
令を発すれば、ベルフェゴールの手から冷気の塊が飛ぶ。ルシフェルの背後は林、逃げ場はない……と。
「?!」
確実に当たるはずだった一撃は大木を凍らせただけ。目の前にいたはずの堕天使は既にいなくなっていた。
「消えた、だと……?!」
いくら素早く移動しようと集中していれば気配でわかるもの。しかし先程の瞬間、まさしく堕天使は“消えた”のだ。気配が完全に消失したことに、悪魔は随分と久し振りに狼狽えた。
だが気を抜けばやられる。ふと騒めいた気配。振り向き様に氷塊を放つ。
「そこか!」
「……っ」
気付かれるとは思っていなかったのだろう、ルシフェルは少し目を見開きつつも、剣で攻撃を捌く。悪魔は舌打ちして白皙を睨み付けた。
攻撃が当たらない、能力の種類すらわからない……それも苛立ちの原因ではあったが。
「何故貴様はそんな顔をしていられる」
青年は美しい仮面で全てを隠し。どこか覇気に欠けた無表情でベルフェゴールを見下ろしていた。まるで彼が本気を出さないことを知っているかのように。ところが、
「実のところ、私は不安なんだ」
不安。戦いにおいて弱味を見せることが如何に不利となるか、わからないはずもないだろうに。ベルフェゴールは怒りも忘れて呆気にとられる。
「自分の力がどの程度なのか、力を出したらどうなるのか。わからない……わからないから怖い」
「は……?」
「しかし私はもう天使ではない。これは贖罪だ。お前達を道連れにする必要もないのだろうが、他に思い至らないんだ。そう、何もかも、どうだって良い」
何を言っているのか。問うより先に堕天使は呟いた。
「私はもう、光にはなれない」
***
鋭利な氷柱が友を狙う様子を、ベルゼブブは内心とても緊張しながら見ていた。そう易々とやられるはずもないとはわかっていたが。何しろ彼は最高傑作なのだから。
「!」
と、ベルゼブブは思考を中断させてその場から跳び退る。
破裂音。一拍遅れて焦げ臭い匂いが漂う。
「僕と遊んでようか、可愛い堕天使サン?」
「抜かせッ!」
放たれた雷撃を魔力の弾丸で迎え撃つ。爆煙が晴れれば艶やかな黒翼をひろげた堕天使と、微動だにしない悪魔の姿。息苦しくなるほどの殺気を込めた一撃を放っておきながら、アスモデウスは劇を観る客かのように呑気に手を叩いた。
「反応速度もまずまず。戦場慣れしてるね。君、戦うことが好きだろう」
「…………」
「堕天して良かったんじゃない?」
言葉より先にベルゼブブの手のひらから火の玉が飛び出す。頬を掠め、腰丈の金髪を揺らし。悪魔はほんの少し笑みを引っ込めた。
「……当てないの?」
アスモデウスは避けようとしなかった。この距離、あの速さ。直撃することは充分に考えられた。それなのに。
ベルゼブブはふいと顔を逸らす。そこに浮かぶのは苦さ。
「当てたところでどうなる。てめえは本気を出さない。オレ達を殺さない」
「だからわざとずらしたって言うのかい? 当てなかったんじゃなく、“当てられなかった”……そう見えたけどね」
「この……っ!」
甘い。言外に悪魔はそう言っているのだ。唇を噛むベルゼブブに対して悪魔は「まぁ……」と息を吐いた。
「君は正しいよ。せっかく役立ちそうな相手を傷つけるほど、お互い頭は悪くないってことだね。お察しの通り、僕らはただ確かめにきただけだ。君達の気持ちを、そして力量を。この都市と世界を背負うに足るのかどうかをね」
先のルシフェルの言は尤もだった。堕天という決意は認めよう。だが、悪魔にとってはどうだって良い話。地獄という戦場で育ったも同然の彼らは実力を測る力に優れている……少なくとも、天使よりは。いわば試験で命を落とすなら、そこまでというだけのことだ。
唐突にアスモデウスは手を打つ。
「そうだ! 時にこれは単に僕の興味なのだけどね」
朗らかな声に潜む狂気的な響き。はっと向き直ったベルゼブブが見たのは肉食獣の金眼。雷撃を放ってきた時より余程情感の籠った……取るに足りない堕天使を葬ろうとした先刻と、まるで別人のような。くるりと回る光が紅に輝いたのは気のせいか。
「ラファエル、という天使は堕ちたかい?」
堕天したばかりで因縁を知るはずもなく。だからベルゼブブは単に、主の矢が大天使を貫いた瞬間を思い息を詰めた。
「……いいや。アイツは《神軍》を率いるひとりだった」
「なるほど、つまり君達の敵だったということだね。あれは“また”独善的に盲目的に馬鹿げた断罪をしている訳か」
「知り合い、なのか?」
「あはは! そうだねえ……ひとまず、あれが身内にならなくて良かったとだけ言っておくよ」
軽薄に笑い、アスモデウスは再び余所に視線を移す。気付けば向こうの戦いも静止しているようだった。不気味な静けさの中、ベルゼブブは自分の運命を決めた日のことを思い出していた。
――『このままでは世界は崩壊するかもしれない。それを止められるのは私達だ』
居並ぶ同胞に語った主君は今、悪魔に向かって何を話しているのだろう。アスモデウスはああ言っているが、ベルフェゴールがそれほどやさしいことをするとは思われない。生き残りたい、そのためには勝つしかない……天界にいた時にはあり得ない思考。
途端、不安に襲われる。
何だかんだと剣を携えて戦を引き起こしたものの、主君は、優し過ぎるのだ。ずっと傍にいたベルゼブブにはわかる。それに引き換え悪魔というものは……、彼は苦々しい思いで相手を見る目を細めた。先刻の一撃、手加減というよりも賭けに近い。つまりアスモデウスは、ベルゼブブが回避することを前提に、殺すつもりの一撃を放ってきていたのだから。悪魔がそういう生き物だとしたら――現にベルフェゴールはアスモデウスよりも上位にある。目の前で優美に微笑んでいる悪魔がわざと玉座を望んでいない可能性もあるのだが――、ルシフェルが確実に勝てる保証はない。
そんな思考が届いたのか、どうか。
「ベルゼブブ!」
美しき長は対峙する悪魔から距離をとり、丁度もう一組がその表情を伺える辺りで、部下の名を呼んだ。
その手は。首飾りを握りしめている。
「ルシフェル?」
鎖に繋がれた小さな銀色の塊。彼が片時も離さずに身に付けていたもの。
ベルゼブブはかつて、それは何かと尋ねたことがあった。
『私の誕生の起源がここにある。主から頂いた、大切なものなんだ』
これ以上ないほど幸せそうに微笑んだのをよく覚えている。誰よりも深く主を敬愛していた天使にとって、その贈り物は紛れもなく宝であるに違いない。それを彼は今。
「頼みがある。全て済んだら、」
思い詰めた顔のまま仲間を見ることもなく。
彼は鎖を――引きちぎった。
「私を殺してくれ」