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Dual...

「傷の具合はどうです、ルシフェル?」

 

 久々に取れた友の敬称は、どこか束の間の休息を実感させてくれる気がする。アシュタロスに手渡された布で首筋の汗を拭き取りながら、ルシフェルはひとつうなずいた。

 

「何ともないな、少し体が怠い気はするが。お前は大丈夫だったか?」

 

 火照る腕を軽く拭き、丁寧に畳んで返す。未使用の面が上になったそれでアシュタロスも額の汗を拭った。

 

「問題ありませんよ。このくらい、いつもの鍛練に比べたらどうってことないです」

「ふふ、そうか」

 

 濡れた銀髪を掻き上げながらの頼もしい答えに、ルシフェルも小さく笑みを見せる。

 ふたりは今、天幕が張られている場所からは少し離れた草原に座っていた。陽差しを遮るような背の高い木々が無いとはいえ、辺りには陰鬱な空気が漂っているかのよう。地面に座ったままでルシフェルは空を見上げた――空が、もともと暗いのか。

 薄暗いその広場にはふたり以外誰もいない。が、不可視の結界の範囲内ではある。アシュタロスが魔力を行使するためだ。

 手合わせ、と言ってもアシュタロスが相手の場合は少し特殊である。挑む側は全力で攻めるのみ、一方の彼女は防ぐのみ。打撃の全てに応じて素早く結界を展開する彼女の隙を突き、一度でも体に触れることができたら稽古は終了する。

 

「どこか本調子ではないように思われましたねぇ。いつもなら十に一つは当たるのに」

「む……確かにな」

 

 自覚はあったのだろう、端正な顔をしかめてルシフェルは唸る。彼女から武術に関しての助言を受け入れるのは“最高傑作”にも抵抗はない。

 

「拳を突き出す瞬間に躊躇いましたね、何度か。やはり傷に響いているのではと思っていましたけど」

 

 アシュタロスの紫苑の視線は、目の前で寛いだように地べたに座る彼の腹部へ。白い衣で覆われたそこには大きな大きな傷痕があるはずだった。肩から脇腹に至る、致命傷。

 

「本当に、どうして治ったのでしょうね?」

 

 思わず零れる呟き。治療することもなく塞がっていた傷について、ルシフェルは如何なる質問にも答えようとしなかった。何があったのかと尋ねても、ひたすら黙秘を貫き通す。

 今もまた。語尾を上げて伺い見るように顔を覗いた彼女からふいっと目を逸らし、何度も結界に弾かれて赤くなった指の甲を擦るばかり。

 そんな長の様子に静かなため息を吐くと、アシュタロスも自分の衣の袖を捲り上げた。いくつもの痣と切り傷。黒耀の瞳を持つ大天使の前で“証”なのだと泣いた傷、そして戦での新しい傷。天使であった時より治りは遅い。自身の選んだ道を思い、何の感情からか彼女は二度目のため息を吐いた。

 

「せめて、水の流れているところを見つけられれば良いのですが。そうしたら治療師達も楽になるでしょうに」

 

 清潔な水が無いというのは思いの外痛かった。飲料水は暫く不要であるにしても、消毒等を行うには、ルシフェルが最初に転移させておいた酒や水だけでは不便なことも多い。

 湯浴みをしたいと思うのは贅沢だろうな等とアシュタロスがぼんやり考えていると、いつの間にかルシフェルは顔を上げて彼女の腕を見ていた。

 

「……痛むのか?」

「いえ、いえ。ただ少し気になって」

「あまり強がらなくていいんだぞ」

 

 言うや否や彼は身を乗り出してアシュタロスの腕を慈しむように触れた。思わず硬直する彼女を尻目に、傷痕に手をのせる。それはまるで天使だった頃の名残、治癒のために光の手をかざしているような動き。

 

「痛いなら痛いと言ってくれ。でないと私はお前に無理をさせてしまう」

 

 陰る紅眼を隠すまつ毛は微かに震え、やっときれいな色を取り戻した唇は一々魅惑的に言葉を紡ぐ。艶めいた声に滲む優しい感情が背を撫で上げるような感覚に、彼女は小さく身震いして顔を微かに染めた。

 全てを捧げるのだと誓いはしたが、どうしても捨てきれない心。彼は女のものである彼女の体を、いつも過剰なまでに心配してくれた。止めて欲しいと思いながらも、その気遣いを心地よく感じてしまう自分に、アシュタロスはそっと苦笑する。彼はそんな思いから行動しているわけではないのに。主君に甘えるなんて、それこそ自分が甘ったれているのだとわかっているのに。

 

「何を仰いますか。だって僕は貴方の……」


「おーおー。やってンな、おふたりさん」

 

 臣下ですから、と。彼女に最後まで言わせてくれなかったのは。

 

「ヒャハハ。オレ、復活ー!」

 

 杖をつき歩いてくるひとりの堕天使、病床に伏せっているはずの部隊長のひとり。

 上機嫌な声の方を振り向いたルシフェルとアシュタロスは揃ってぽかんと口を開け、一拍置いた後に驚愕の声で彼の名を呼んだ。

 

「ベルゼブブ?!」

「ベルゼブブ様! ど、どうして」

「どうしてって、ンなモン治ったからに決まってンだろ」

 

 よっこいせー、という声と共にふたりの傍に座るベルゼブブ。一瞬だけ脚を庇うように動きを止めかけたが、人懐こい笑顔は見慣れたものと同じだった。

 

「それとも何か? オレは邪魔だったか?」

「いえ全然」

 

 ほとんど反射に等しいアシュタロスの回答に首を傾げるルシフェル。ベルゼブブは楽しそうに続けた。

 

「ああ、そうそう。マルコシアスも目ェ覚ましたらしいぜ」

「本当か?!」

「おうよ。もう動こうとして治療師に止められてたモンな。『己の剣を知らぬのは剣士の恥だ!』とか何とか、叫び声がオレの寝てた場所まで聞こえてきたっつーの」

 

 そう言って、からからと笑うベルゼブブ。残りのふたりも安堵混じりの苦笑で顔を見合せた。

 大天使ウリエルとの闘いで全身のあちこちに火傷を負っただけでなく、力の枯渇という意味でもマルコシアスは相当な無茶をした。彼が所有する剣“炎の氷柱”。あの剣の能力を引き出したのか、持ち主の方が生命の危機に瀕して覚醒したのか。いずれにしろ見たこともない芸当――力を注がれた刄が炎と化すという事態は、本人でさえ想像できる範囲を越えていた。

 

「初めて見たっつっても、単に使う機会がなかっただけだろうにな。マルコシアスのヤツ、すげェ悔しがってたらしいぜ?」

「まあ、マルコらしいといえばそうなんだがな……」

「熱心な方ですからね……」

 

 無造作に束ねたベルゼブブの茶髪の毛先は、その炎のせいでか、戦場で焼けたために縮れ気味だった。小さなところにまで痕跡を見つけてしまい、ルシフェルは気付かないままに視線を地面に向ける。

 

「いやァ、しかし参った参った。でもキレーな姉ちゃん達やら可愛いチビ共が皆して心配してくれンだモンよォ。癒されたわー」

 

 わざとふざけた口調を心掛けていることは、他の二名にもすぐに伝わる。ずっと治療師達と居た彼の耳に悲報が入っていないはずはないのだから。同胞を元気づけようという、彼なりの配慮なのだろう。

 

「それだけ気に入ったなら、もっとお休みになっていれば良かったじゃありませんか」

「バッカ、お前! どんだけオレが痛ェ思いしたかわかるか? 主に治療でだけどな!」

「キレーなお嬢さん方、にやってもらったんですからいいでしょう? ま、そんなに元気があるなら大丈夫そうですね」

 

 ベルゼブブが軽口を叩けばアシュタロスが笑顔で毒を吐く。何かと気が合う彼ら三名のいつものやり取り。ただ、それを見守るルシフェルの顔は晴れない。

 ベルゼブブが小さく悪態を吐いた時、ルシフェルは思い切ったように口を開いた。

 

「すまない、ベルゼブブ。私がもっとしっかりしていれば、お前にこんな怪我をさせることはなかった」

「謝ンなって。そーいうのは無し! お互い様だ」

 

 ラファエルとの一騎打ちにベルゼブブを向かわせたのはルシフェルだった。けれど、そこで数々の傷を負った当のベルゼブブは何も気にしてはいない。当たり前だろう。傷つかずに戦をするなど無理な話、命が助かっただけ素晴らしいではないか。

 ベルゼブブは声も穏やかに友を慰める。

 

「だって助けてくれたのはてめえだろ? ありがとな」

 

 ああ、と返事はしたものの、納得していないことは表情を見れば明らかだった。

 そんな彼の様子にどうしたものかとベルゼブブは思案し。そうだ、と明るい調子で話題を変えた。

 

「オレも復帰したことだし、玉座争奪戦? には連れてけよな」

 

 ……話題自体は明るいものではなかったが。

 案の定ルシフェルの顔色は一変した。隣でアシュタロスもどこか呆れ顔。それはそうだ。杖をつかねば歩けない怪我人が、どうして戦闘に参加できるというのか。

 

「嘆かわしい。頭まで打ってしまいましたか」

「おおーい! てめえら信じてねェな?! オレ本気だぞっ」

 

 びしっ、と指を突き付けるベルゼブブに、「本気だから困るんですよ」と肩をすくめて嘆息するアシュタロス。

 ルシフェルも呆れて声も無いのかと思いきや、「本気」の言葉に何か考え込んでいるらしく。指で唇をなぞるのは思案する時の彼の癖。やがて呼び掛けられたふたりが言い合いを止めると、真剣な長の目が静かに細められた。

 

「冗談抜きで。もしも可能だと言うなら、私はお前に手伝って欲しい、ベルゼブブ」

「ち、ちょっとルシフェル様、それは」

「わかっている。だから確認したい。――ベルゼブブ、何があっても後悔しないか」

 

 ふざけていた彼も僅かに姿勢を正し。鋭いと言われるその目で長を見返した。経験と自信。彼とて、数多の堕天使を導く責任は感じている。

 

「……しねェさ」

 

 アシュタロスは引き留めかけて、やめた。今更な話なのかもしれない。命を踏み台にする、なる覚悟は戦の時に決めたはず。救われた命だからといって揺らぐようでは意味がない。納得は、しないものの。

 

「……考えておこう。五日後だ。五日後……当日、治療師と相談して問題がないようなら連れて行く」

「じゃァそれまでに治しゃいいンだな?」

「できるものならな。だが、あくまでもお前は私の補佐」

 

 二対二なら、万魔殿側からはベルフェゴールとあとひとりが来る。普通に考えて幹部の一員と予想はされるが、わざわざ二名と設定した向こうの意図がわからなかった。しかし実力主義である彼らの場合、最高権力者であるベルフェゴールが最も強いということに変わりはないはずだが。

 

「ベルフェゴールの相手をするのはもちろん私。二名共が戦闘に参加するとしても、主に私が両者を相手にする。お前は援護だけでいい」

「なっ、オレだって戦える! 力になりてェンだよ、なあ!」

「駄目なものは駄目だ」

「けどそれじゃまるで……!?」

 

 尚も反論を試みようとしたベルゼブブは、突如として訪れた異変に息を詰める。

 言うなれば空気が唐突に重さを増してのしかかってきたような。驚いたことに指の先まで動かない――動かせない。

 

「私なら悪魔を相手にできる。『お前達とは違うんだ』」

 

 誰が言ったのかと、ベルゼブブやアシュタロスは汗を垂らしながら耳を一瞬疑った。憎々しげに、呪咀の如く。吐き捨てたのはこの状況下で平然としているただひとり。この圧力の源。

 

「良いな」

 

 睨んでいるのではない、ただ見ているだけ。脅しているのではない、ただ“当然の”返答を求めているだけ。

 王者の威厳は確かに以前から有った。刄の如き鋭い空気を放つことも。だが何かが違う。今の彼は何か、天界にいた時と明らかに違うような――。

 

「あ……ああ」

 

 ベルゼブブの口からどうにか漏れた擦れ声。同時に、身体を押さえつけていたような感覚が消失する。気付くと、喉が乾いていた。

 

「不安は残るが、お前が来てくれるなら助かるな。ベリアルは少し扱いにくいというか、あれだし。メフィストフェレスも《空間調節》だけではどうにもな。まあ彼は彼で『新しい予感がする~!』だの言って、煉獄に行こうとしていたが」

 

 何事もなかったかのように平然と語るルシフェルの姿に、ベルゼブブ達ふたりは呆気にとられ曖昧に相槌を打つ。今の出来事は夢だったのではないかと思わされるくらいの変わり様だった。

 さすがと言うべきか、気のせいにすることにしたのか。先に立ち直りを見せたのはアシュタロスの方。あの、と控えめに挙手。

 

「ん? なんだ、アシュタロス」

「前々から疑問に思っていたんですけど。ルシフェルって、ベリアル様のこと、苦手ですか? まあ気持ちはわかりますが」

「おいおい」

 

 アシュタロスとベリアルはあまり相性がよくない。こと主君が絡むと、ベリアルの態度は彼女の癪に障るらしい。

 同志で仲違いはするなと宥めるルシフェルだったが、彼自身も「うーん」と苦笑しながら悩んでいる。

 

「嫌い、とかでは決してないんだが……」

 

 やがて彼はおもむろに腕を組むと、意を決したように口を開く。

 

「戦が始まってすぐ、私は彼を真っ先にここへ飛ばしたんだが」

「ああ、そうらしいな。オレは飛ばされてすぐ気ィ失っちまったから知らねェけど」

 

 ルシフェルの力で転移させられた反乱軍の天使達。混乱するままに初めて降り立った地獄で、待ち受けていた美しい堕天使に“種明かし”をされたのだという。

 

「あれな、最初はメフィストフェレスとベリアル、どちらに任せようか迷っていたんだ。ほら、アシュタロスには指揮があるし、ウァラクなんかはまだ経験が少ないから」

「では何故ベリアル様に?」

「……お前達は、奴が《神軍》と味方、両方を手にかけようとしていたと言ったら……信じるか?」

 

 アシュタロスとベルゼブブは絶句した。思わず長の顔を伺う。微苦笑を浮かべてはいるが、とても冗談を言っている様子には見えない。

 

「つ、つまりそれって」

「いや、もちろん脅しであったのだろうとは思う。あれは変な奴だが、私の命令に背くことはないから。ただ何かの拍子に万が一ということもあるし……その躊躇いの無さに少し胸騒ぎがしたんだ」

 

 ルシフェルが見たのは。影に捕らえられて身動きの取れない大勢の天使と、己が得物を広域に展開したまま優雅に微笑むひとりの天使の姿だった。

 ――「やあ、ルシフェル」

 味方までもが影に呑まれようとしているその状況に混乱するルシフェルを見上げ、苦悶の呻きと悲鳴が入り乱れる中、平素と変わらぬ気安さで彼は挨拶をしてきたのだ。

 

「だから、苦手というか、何を考えているのか読めない。私はベリアルのことは好きだ――能力も含めて、な。しかし今回の場合、背中を預けるにはベルゼブブの方がいいと思って」

「おお、やったぜ誉められた。けどそれってオレがわかりやすいってことか?!」

 

 肩を揺らすルシフェル。

 と、ここでアシュタロスは思い出したことがあった。長は確か、戦が始まる前からベリアルに言っていなかったか。まるで彼が何かするという確信があったかのように、「やり過ぎるな」と。それに今の話はどこか返事になっていない。

 

「でも以前から……ですよね? ルシフェル様がベリアル様を、その、あまり……」

「あ、そういやそうだよな、てめえにしちゃ珍しく。もっと前に何かあったンじゃねェの?」

 

 友に言われ、ルシフェルはもう一度考えてみる。言われてみれば確かにそんな気もしたから。

 

「それは……」

 

 何か嫌な出来事があったのか? あった、ような。奴が大切なものを傷つけようとして、それで、と。思い出そうとした、のだが。

 

「……わからない。考えられない」

 

 力なく首を振る姿にアシュタロス達は黙って顔を見合せる。ふたりには不自然な返答に聞こえたが、ルシフェル自身にとってはこれ以上の表現もない。“考えられなかった”のだ、過去が。

 そしてルシフェルはそれを悪いこととも思わない。――今思い出したなら、困ったことになる。

 

「ルシフェル? 具合でも悪いのですか?」

「いや。過去は過去、もういいじゃないか。それに仲間を悪く言うものではない」

「そりゃそうだけどよ」

 

 釈然としない顔のベルゼブブとは対照的に、ルシフェルは穏やかな表情のまま。

 

「それより、お前も上半身くらいは動かしておいた方がいいのではないか?」

「あ、では僕と組み手しましょうか」

「いやいやいや、オレ一応は怪我人だかンなッ?! いじめかよアシュタロス!」

 

 陰鬱たる野原に流れる一時の緩やかな時間。僅か踏み出せば命の危険に遭遇する平穏。

 危うい均衡を保った空気の中、笑顔の再会を望みながらもそれをわざわざ言葉にする者は、彼らの内に誰ひとりとしてなかったのだ。


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