Genuflect
史書の中の記述は、実はそう遠くない出来事。語られるものも語られないものも、今を生きている。
誰もが同じことをしていたわけではない。記された出来事が全てではない。
少年も語られない内のひとり。
彼は歌うことは決して嫌いではなかったけれども、それよりも、天界に生を受けた幸福な獣達と戯れて過ごす方が好きだった。毎日毎日森に足を踏み入れては、小さな友達と話をした。
鳥や獣にはたくさんの言葉は要らない。耳を澄まし、触れる。それだけで彼は彼らを理解できたし、彼らも少年に親しんだ。
他の天使らにとって、鳥の囀りは彼が感じるほどの“歌”ではなかった。それさえわからなくなるほど、彼は長い時間を森で過ごした。
ある日、ひとりの天使が森を訪れる。
その天使は何かを探しているようだった。探し物が自分に見つけられるとも思わなかったが、頻りに話しかけてくる美しい天使。その青年のことを獣達は気に入って懐いていたから、彼も見知らぬ男に少しずつ興味が湧いてきた。
傍で色々な話を聞かせて欲しいと美しい天使は言った。少年は、森のことしか知らないと答えた。それでいいのだと青年は言う。それは少年にしか語れない話だろう、と。
だから少年はうなずいた。深く考えたのでもなかったが、無邪気な笑顔で礼を言われたその時、既に彼は自分の選択の正しさを確信し始めていた。
***
アルベルトという天使がいる。天界を去ったのだから堕天使と言うべきか。
彼は白亜の宮殿に入ることを許されていた者。そして、同胞の内でも少しばかり有名人。
天使の中では比較的ありふれた、金の髪に碧の眼という容姿。少年と青年の狭間のような、一見して目立つところのない若者。だが暫く話をしてみれば、彼の態度に違和感を覚える者もあるかもしれない。
無駄を嫌い、返答は的確、仕事は抜かり無く、常に礼儀正しく、果ては冗句を口にする時さえ無表情……。アルベルトという男は笑えないのではないか? 冗談半分、本気半分でそんな噂まで出てくる始末。悪い奴ではないのだが付き合いにくいと、敬遠する者もいた。
それでも周りと上手くやれていたのは、ひとえに彼の真面目さのおかげ。単にこの愚直な若者は不器用なだけなのだ。
ところで、これだけならば個性の一言で済む。しかし彼がちょっとした有名人である理由は別にある。それはアルベルト自身が何より誇ること、かの天使長、すなわち今の堕天使長に最も昔から仕えてきたということ。アルベルトは天使長となって間もない頃のルシフェルを知る、数少ないひとりだ。
実は生きてきた年月はアルベルトの方がルシフェルよりもほんの僅かに長い、ということを知る者は少ない。それだけの長い間近くに従いながら、彼の忠誠心は些かも揺らがなかった。それどころか。
尊敬というより陶酔、否、崇拝。
何より主君を慕うあの天使は、命じられれば間違いなく全てを投げ出すだろう、天使長の決断への最後の一押しは実はあの従者によるものではないか、等と。そんな話がまことしやかに囁かれているのは、当の主従以外の誰もが知るところである。……ちなみに、冷めていると評判の無表情な彼が、慕う主君から貰ったという胸飾りを布に包んで肌身離さず持ち歩いている、なんて事実を知る者はほとんどない。
現在。彼はアシュタロスに頼まれて主を探していた。鍛練の約束をしたがなかなか姿を見せないので、ということらしい。
厳密には頼まれてというより、アルベルトが自ら請け負ったのだが。上の役職に就く彼女のために動くのは当然だったし、更に言えば一刻も早く主の無事な姿を見たかったのが本音。
本当は前日のうちに真っ先に馳せ参じるつもりだったが、仕事に奔走していたために会えなかったのだ。負傷者も多い状況で、私情による行動はできなかった。彼自身も額に包帯を巻いてはいるけれども。
先にアルベルトがたまたま通り掛かった際アシュタロスは、探しに行こうにもルシフェルの居場所がわからなくて下手に動けないのだと、おどけた風に苦笑していた。しかし冷静に使いを申し出た彼は、忠臣且つ目付け役として名高い彼女よりも、主とは長い付き合いである。彼にはその居場所はすぐに想像がついた。
夜が明けるまでに、悲しい報せをいくつか耳にした。
だから恐らくは、と。見渡す一帯に設置されている天幕の、救護所としての一画を目指す。治療師達に会釈をしながらそこを抜ける。外れにぽつんと立てられた屋の周囲には、打って変わって誰も居ない。まるで他と隔てられたかのように、その周辺には異様な静寂が満ちている。
「失礼致します。アルベルト、入室許可を頂きたく」
中に誰がいるかもわからないのに、そもそも誰かいるとも限らないのに、淀みなく礼に則った挨拶を口にする。アルベルトはもはや勘ではなく確信を抱いてここへ来ていた。
返事はない。が、彼は慌てることなく、入り口の布を僅かにずらして覗く。
果たして、彼の主君はそこにいた。地面に胡坐をかき、もうひとり――横たわる同胞の片腕を持ち上げ、包むように組んだ両手で握り。そうして、祈るように頭を垂れていた。
アルベルトはもう一度「失礼します」と断ってから中へ入る。本当は再会が嬉しくて仕方がなかったが、どうにか落ち着いた足取りを心掛ける。
無言で祈る主君に近寄り片膝を着いた時。さすがの彼も訪問者の存在に気付いて顔を上げた。
「無礼をご容赦下さい。ご無事で何よりです、ルシフェル様。早速なのですが――」
「アル……?」
少し見ない間に頬がこけたのではないか。アルベルトがそんなことを思いながら話し出せば、分かり切ったことを確認してくるルシフェル。
「アル、なんだな……?!」
「はい。私はアルベルトに相違ありませんが」
首を傾げたアルベルトの目の前で、握っていた手をそっと下ろしたかと思うと。
「――アル、無事で良かった……!」
「っ?!」
さしもの有能な従者も、主がいきなり抱きついてくることは完全に想定外だったろう。まして主は相当疲れて気が立っているようだとも耳にしていたのだから、突然の意外な行動にアルベルトは珍しく混乱していた。
しかし顔には自然と喜びが滲み出てしまう。それとわからぬ程度に綻ぶ口端とは対照的に、主君に似た白磁の肌は常の彼からは想像もつかない赤さに染まっていた。美貌の君に抱きつかれて嫌がる者はそうない上に、格別な憧憬と思慕の念があれば、照れてしまうのは致し方ないというもの。
「ルシフェル様、あまり激しい動きをなさってはお体に障ります」
アシュタロスから話を聞いたアルベルトも、当然ながら玉座争奪戦には反対だった。だが止めても主は聞かないだろうし、やらねばならないことならば期待をかけられることを彼が望んでいるのも知っていたから、敢えてそれを言葉にすることもなかった。それでも心配なものは心配なのだと言うアルベルトに、ルシフェルは数度かぶりを振る。
「私は大丈夫だよ。ただお前、戦場で頭を怪我していたろう? だからずっと気になっていたんだ」
主君にとっても、アルベルトという従者は特別な仲間であるようだ。
アルベルトは爆発しそうな思いを抱え、真っ赤な顔で碧の目を逸らした。彼が頬をほんの少しだけ弛めるのは、ごく親しい友の前でもあるにはあるが、これほどまでにわかりやすい反応を示すのは主に対してだけ。
「ありがとう、ございます」
内心では嬉しくて堪らないのに、口から出るのは抑揚に乏しい静かな声。口下手な自覚はあった。言葉にしないでも伝わらないものかと悩む――杞憂か?
感情表現が苦手な自分にもどかしさを感じつつ、アルベルトはおずおずと主の背に腕を回してみる。安心感を覚える温もりに、恐る恐る少しだけ甘えてみる。
甘えることにも、アルベルトはどちらかというと慣れてはいなかった。この生真面目な性格はそのせいでもある。けれど、ルシフェルは別だった。もし自分にこんな兄弟がいたのならいいのにと想像してしまうくらい。
言うまでもなく、ルシフェルが弟を溺愛していたことは知っている。だからアルベルトは主従として傍に居られるだけで満足だった。麗しの君は、詞を忘れた少年を森から連れ出してくれたのだから。
やがて、自分の仲間の存在を確かめるような長く短い抱擁を解き、ルシフェルは泣きそうな笑顔を見せた。
「良かった……お前は、生きていて……」
込められた思いに、アルベルトの視線は横たわるもうひとりの仲間へと向けられる。布の上に眠る元天使はアルベルトの知らない顔。けれど彼は気付く。敷かれている布は、凹凸のある地面にもかかわらず一枚のみ。患者には優しくない……救護所では必ず幾重も重ねていたのに。
「……報せは本当だったのですね」
眠っているような天使。暗い空気の中で浮いて見えるようなきれいな白の衣に包まれ、はだけた袂からは胸部を覆った包帯が覗く。多分こちらも汚れのないようにと、血が流れなくなってから取り替えるか何かしたのだろう。不自然に思えるくらいに白かった。
アルベルトが思わず零すと静かなうなずきが返される。ルシフェルは、目を閉じた青年の蒼白な面に手を添えた。
「すまないことをした」
ぽつりと、消え入りそうな声で。
「本当に……」
目を閉じて天を仰ぐ長。
いちばん無念であるのは散っていった当人だとわかっているから、彼は悔しいとは言えないのだった。そして悲しいと言う資格もないのだと信じていた。
「私は誰も救えない」。彼がその言葉を発するよりも早く何か言わなければ、とアルベルトは必死で考えた。どんな言葉を必要としているのか、何を言ったらこの天使は背負うことをやめるのか。迷いに迷って漸く、
「ラケル達も、無事です。ヨハンもフィオンも皆」
それだけを言った。貴方のお陰で皆助かったのだ、そう言ったところで主は慰めさせた己を更に恥じるかもしれない。かといってそのまま黙っていることも、目の前で悔しげに唇を噛む“天使長”を見てしまってはできなかった。それでアルベルトは事実のみを声に乗せる。どうしても、素っ気ない言い方になってしまう。
ルシフェルはそんな部下の心まで見透かしたように、「ありがとうな」と少し笑って金色の頭を軽く撫でた。
「なあ、アル」
「はい」
「死んでも、肉体は遺るのだな」
脱け殻は光に還らない。
もう、天使ではないのだ。
ルシフェルは天使の手を再び取って、両手で額に近付けた。堕天したことなど今はどうだっていい。祈りは届く、届かなければならない。
“死”が、目の前にある。
初めて目にするそれにどう接したら良いのかがわからず、アルベルトはただ黙して主を見つめていた。すると視線に気付いたのか、紅の瞳がふとアルベルトの方を見る。
「お前も別れの挨拶を」
「……はい」
ルシフェルに促され、横たわる仲間の手をそうっと握る。力が入っていないはずなのに、伝わる重さはどこか足りない気がして。
触れているのに何も聞こえない。
命の鼓動が失われた冷たい手を取りながら、気が付くとアルベルトは涙を流していた。
「この天使の、名は、」
「テナ、と。治療師達が教えてくれたよ」
言葉を交わしたこともない同胞。だというのに込み上げてくる悲しみに、とうとうアルベルトは嗚咽を漏らし始める。死を目の前にした彼らの内に、初めて“死を悼む”気持ちが芽生えたのだった。それは天界にいた頃の慈愛の心と似ているようで少し違う、自分の身を切られるような痛みを伴う気持ち。
「土に埋めてやりたいんだ」
嗚咽がすすり泣きに落ち着いた頃、アルベルトに向かってルシフェルは言った。
「炎から生まれた私達だから、完結した生を再び燃やす方が道理に適っているのかもしれないが……我々の目的のため礎となった者達を、世界の土台に還したいと思う」
アルベルトは「良いと思います」と涙声をひとつ呑み込んでから、しっかりとルシフェルを見上げた。多少悲しみの名残はあったものの、そこにはいつもの冷静沈着な従者がいた。
その様子を見て小さくうなずきルシフェルは切り出す。
「正直私もここの地形には詳しくない。だが可能なら辺境の寂れた地ではなく、彼らが安らかに眠ることができるような場所に埋葬したいと思っている」
「はい」
「悪魔がそういった話に応じるとは思えないし、玉座を得てからでは遅くなる。そこでお前の“友人”達に、相応しい場所がないか聞いてみてもらいたい」
主君に重用された彼の才能は“鳥獣の心を解すること”。様々な生物に関する知識の豊富さはルシフェルでさえ舌を巻くくらいだったし、彼らの言葉を理解することにおいては他の追随を許さない。
天界にいた頃の友人は置いてきてしまったから、新たにこの地に生きる者と心を通じて欲しいと、そういうことなのだろう。
「他の生き物を確認していないという話だったが、こんなにも草木が生い茂っているからには、鳥や獣もいると思わないか?」
「恐らくは。この辺りに生えている木は初めて目にしますが、どれも天界に在ったものと少しずつ似ています。ですからきちんと調べれば、何かしら遭遇する可能性は高いかと」
「頼めるか? 無論ひとりで行く必要はない。手の空いた者と手分けして、この周辺を調査してみて欲しい」
「不可視の結界はどうすれば良いでしょう。抜けても?」
「ああ。少人数の力なら感知されることもあるまい」
「御意、お任せを」
深々と頭を下げるアルベルト。役目を与えられることは信頼の証、至上の幸福……従う側はそう思う。
「そういえば、ウァラクが妙なことを言っていたな。何でも“呼ぶ声”がすると言って怯えていた」
「呼ぶ声……ですか?」
「いや、まあ。あれも獣と仲が良かったからな、こちらについても気づいたことがあれば教えてほしい。……ところで今更なのだが」
「はい」
「誰からだ?」
「失礼しました。アシュタロス様です。昨日の場所でお待ちしています、と」
主の反応はまさしく、忘れていた者のそれだった。だがこの程度は予想の範囲内。「やや時間がかかりますので、とはお伝えしていますが」と付け足せば、軽く漏れるのは安堵のため息。
「あいつに怒られるのは御免だが……。もう少ししたら行くと伝えてくれ」
「御意」
最後に入り口でもう一礼して退出する。ルシフェルはまだ眠る天使を見つめていた。
報せでは、失われた命は全部で二十七。治療師の言によればこれ以上増えることはないだろう。あれだけの規模の戦であったことを考えると奇跡的な数字ではある。
けれど王はきっと自分自身を許さないだろう。天幕の前で少し立ち止まったアルベルトは唇を引き結び、一先ず踵を返すと銀髪の武人のもとへ足早に向かった。