Quid pro quo
彼は仄暗い木立の中にいた。
ぼんやりと辺りを見回す。背の高い暗緑の木々、立ち込めた霧、そして天界とは異なる匂い。感覚が、蘇っていく。
――ああ、ここは地獄なのだ。
漸く朧気ながらも思い出す。
――己は、堕ちたのだ。
目の前には一本の細い道がのびていた。森の中にあるにしては不自然な、造られたように真っ直ぐな道。その先は霧へと吸い込まれるように見えなくなっていたが、彼はやがてゆっくりと足を踏み出した。
行かねばならぬと本能が叫ぶ。本当は、道の先に何があるのかわかっていたのかもしれない。気配を感じる。仲間の……共に堕天という選択をした仲間の気配を。
早く合流しなければ。
片手にした剣を引き摺って彼は進む。たかが――平時の彼を思えばたかが剣一振り、持ち上げる力すら残っていなかった。せっかく新たに造ってもらった鞘は、戦場かどこかで失くしたらしい。
堕ちることは、まだ始まりに過ぎなかった。とにかく早く仲間と合流し、それから本来の目的を果たさねばならない。まずは地獄に我々堕天使が存在できる場所をつくる必要がある。そのためには悪魔に認めさせなければならない。地獄式のやり方で――実力で以て。
目的。
彼は次第に思い出しつつあった。堕天の理由、自らの傲慢さ、世界の理、主の御言葉、過去の栄光、その全てを。
――全て?
内心、首を傾げた。何かが引っ掛かる気がしたが、彼はそのまま歩を進める。
なんとしても彼は生き延びねばならなかった。生きて、生きて、最後まで責任を果たす必要があった。だからこそ彼は生を強く望み、そしてその願いは受け入れられた。
――誰に?
そっと眉根を寄せる。吸い込んだ霧が頭の中まで満たしていくように、記憶の片隅が不明瞭であることに彼は気付く。辿れども辿れども答えに行き着かない。それどころかますます霧が広がっていく錯覚に陥り、思わず彼は身を震わせた。
堕ちる以前のことは思い出せる、はずだ。主に愛されていた自分、何もかもを手にしていた、《光》と呼ばれていた。そこにはもうひとつ、大切な幸福が在ったような。大切な天使。誰よりも愛しい……
ふと金色の影を見た、気がした。
しかしただそれだけ。あれほど愛していたはずなのに、傷つけ後悔したことも覚えているのに、肝心の光の正体が思い出せない……。
――思イ出シタクナイ。
――ああ、弟だ、確か。自分には弟がいた。
しかし果たしてあの天使は、“何という名だったろう”――?
重たい足をゆっくりと運ぶ。
遠くに感じる仲間の気配。何故か今はそれだけで良いような気がした。それで彼はあっさり追憶を諦める。早く、早く行かなければ。気持ちとは裏腹に足はなかなか言うことを聞かない。
待ち受ける仲間の気配。あの戦のせいだ、彼らはそこで命を削った。
だのに己は、生き延びてしまった。
なんとしてでも生きなければならなかった、だが。最も罪深い己が“無傷で”生き延びたという事実。体が重たいのは怪我や疲労のためだけではなかった。のしかかってくるのは、幾つもの尊い焔の重さだ。
厭な予感がしていた。ずるずると剣と両の足を引き摺りながら彼は思う。彼らは平穏を失うことを自らの意志で望んでいたろうか。あまりに多くの血が流れてしまったから。
――血。
紅い記憶はやはり判然としない。銀光が煌めいた、紅の川ができた。
――斬った?
――斬ラレタ?
覚えているのに、わからない。
唐突に、視界が開ける。
足を止める。静寂。懐かしい顔、顔、顔。一様に静止した驚愕の表情が彼を迎えた。そして。
「ルシフェルっ!」
「ルシフェル様!!」
「よくぞご無事で……!!」
悲鳴、雄叫び――歓声。
彼は戸惑う。歓迎される理由がわからなかった。なじられ責められるものだと覚悟していたのに。彼らの涙は歓喜ゆえの涙なのか。
駆け寄ってくる者達の姿をぼんやりと眺める。その先頭、銀髪の天使、否、堕天使の名を覚えていたことに彼は何となく安堵する。確実な記憶の拠り所が少なからず在ったことに息を吐く。
「ルシフェル様、早く手当てを!」
彼の思う通り、やはり戦で傷ついた者は多かった。彼らはその荒野に集い身を寄せ合いながら、仲間達の治療を行っていたのだ。
天使に備わる治癒能力は失われていた。もはや霊体としての性質をほとんど失ってしまった彼らには、物理的、現実的な療法しか効果がない。混乱の中、元上級天使が指揮を執り、どうにか団体としての行動が保たれていた。
そして彼らは何より、長を待っていた。最も強大な力を持つ大天使と戦い、最も酷い傷を負ったはずの長は生きているのだと信じて。
生きていた。偉大なる“王”は確かに生きていた。
ところが。堕天使達の駆け寄る速度がふと遅くなり、とうとう足が止まる。喜びに濡れていた顔に浮かぶのは今や、恐れ、怯え、不安。怪訝そうに見つめてくる臣下に、彼はただ黙って虚ろな表情を向けるばかり。
「その傷を……一体どうやって……」
震える仲間に指差され、初めて彼は自身の体を見下ろした。
袈裟に切り裂かれた衣は見るも無惨な布切れの如く。元の色を探すのが困難なほど、彼の白衣は血で黒々と染まっていた。本来なら死に至ってもおかしくないほどの重傷――のはずだった。
――そうだ、斬られた、確かに。
彼は浮かび上がった記憶の断片に納得し、黙って腹に触れる。傷を、なぞる。おびただしい量の血痕ではあったが、だからこそ見ている側は彼が立っていること自体を訝しく思わざるを得ない。
誰も、彼本人ですら分からぬまま。
自ら治癒する力を失ったはずの堕天使のそこは、既に塞がっていたのだ。
***
主君は何の感情も示さない。呆然と、己の手をまじまじと見下ろしているのを見るにつけ、真っ先に彼へと駆け寄ったのはアシュタロスだった。
「ルシフェル様っ!」
ゆっくりと。傷ついて尚も美しさを失わぬ紅の双眸が、土埃に塗れた銀髪の忠臣へと漸く焦点を合わせる。彼はふと瞳を揺らがせ、そして何かを思い出したかのようにアシュタロスに向き直った。
「アシュタロス……無事か」
「はい。こちらに転移した後、ベリアル様に事情をお聞きした上で誘導して頂きましたので。あの、我が身を案じて下さってのこととは知らず、ご無礼を……」
「ああ、いや」
彼女が言っているのは“消される”瞬間の言葉。ルシフェルが独断で行ったこととはいえ、一度信じた主君を疑ってしまったことを彼女はずっと恥じていた。
それよりも、とアシュタロスは慌てたように声を大きくする。
「お怪我を治療しなければ。医薬の知識のある者達が向こうで治療を行っています。歩けますか? 早くそちらに――」
「いや、いい。時間がない」
軽く手で制されアシュタロスは瞠目する。いくら本人が何事もなかったかのように動いていても、この出血量に異常に蒼白な肌。近くで見上げた彼女にはわかったのだが、彼の薄い唇は微かにわなないている。どう見ても無事とは言い難かった。しかし。
「私に構うな。大事ない」
ルシフェルが戻ったことを知り、早くも同胞達が集まり始めた。だがそれさえ意に介することなく、彼はただ真っ直ぐにアシュタロスを視線で射抜く。硬く――冷たく。
「報告を」
王者の威厳、と表現するのは生温いだろうか。抗うことは許さない、黙すことは許さない。疲弊をものともせず言外に全身で語る彼の姿に、僅かの間は何か抗議しようと試みていたアシュタロスも、最後には言葉を飲み込む。
逆らえないのだ、それが例え彼の身を案じるが故の行動であっても。
「……ここは万魔殿の郊外にある森の側のようです。少し見回った限りでは他の生命の類は見当たりませんでした。都市らしき灯りも確認できませんでしたが……」
「物資は? 最初にベリアルに持たせてやったはずだが」
「あ、はい。天幕等は確かに。治療道具も不足があるという知らせはまだ。今は安否確認が行われていますが、時間がかかると思われます」
「……今のところ、死者は」
ルシフェルの問いにアシュタロスの顔も曇る。
「確認していません。しかしベルゼブブ様、マルコシアス様、他数名が重傷を。やはり我々の治癒能力は失われたようです。治療師らには最優先であたってもらっていますが、後は当人の身体的な丈夫さにかかっているかと……。その他の者は軽傷で済みました。すぐにでも動くことができます」
「そうか……。治療師は足りているのか?」
「贅沢を言えばもっと欲しいところではありますが……知識のない者が手出しするわけには」
ルシフェルはそっと目を伏せる。彼はそのまま暫し思案している素振りを見せたが、やがて不意に片腕を挙げたかと思うと、華奢な指先で大気に文字を刻んだ。同時、口の中で小さく呟く。
「ルシフェル様?」
「出来るだけ、治療師達にもきちんと交代で休憩をとらせた方がいい。他の者も可能な限り休むように」
「は、はい」
「大方の事が済んだら、上級天使を一ヶ所に集めておいてくれ」
「かしこまりました。ルシフェル様は」
「私は少し出てくる。いま不可視の結界を張ったから、この付近を離れることは避けて欲しい」
「!」
アシュタロスは息を呑む。あんな戦いの後、おまけに数え切れない敵と味方を転移させておきながら、一体どれだけの力がこの王には残っているのだろうという、純粋な驚き。そして、またしても彼にやらせてしまったという自責の念。
「申し訳ありません……!」
「何故?」
「我々の力が及ばないばかりに、また」
泣きそうに顔を歪めたアシュタロスの言葉に、きょとんと小首を傾げたルシフェルだったが。言わんとしている気持ちは伝わったのだろう、微かに声音と表情を和らげる。
「私こそ、至らぬ長だ。しかし計画は概ね成功している。泣くな、アシュタロス。反省は後だ」
言い置き、踵を返す。何事かと集まる視線には一瞥もくれず、自然と割れる同胞の波間を悠然と歩いて行く。
「日没前には戻る――」
「ル、ルシフェル様!」
後ろへ投げられた言葉、背にぶつけられた呼び掛け。まだ何か、と振り返るルシフェルの視線の先、アシュタロスが思い切ったように顔を上げた。汚れてくすんだ頬はほんの少しだけ赤い。
「その、一応、お召し物を……」
血に塗れ、ぼろぼろに切り裂かれた衣裳。誰が見ても悲鳴を上げること必至だろう。
さすがに彼自身もこれは趣味ではない。小さく唸り、眉根を寄せた。
「そうだな……着替えは、あるか?」