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Limbo

 彼が再び目を開けた時、そこは地獄でも、まして天界でもなかった。

 ただの暗い空間。天地も左右もわからない。浮いているような、何かに寝そべっているような。


 まだ、生きているのだろうか。

 彼はそっと指を動かしてみた。そこに“存在”はしているらしいが、全身がひどく重たくて腕一本を持ち上げることさえ面倒だった。


 ミカエルに斬られ、一旦は消失を覚悟した。予定調和、むしろ全てがルシフェルの思い通りに進んでいたが、消えゆくあの瞬間、また道を誤ったのかと絶望しかけたことも事実。主が望んだ筋書と違ったのかと。

 だが彼はまだ存在している。この暗闇がどこかは知らないが、少なくとも見放されたわけではなさそうだ。少し寒い気もするが、苦しくないのは救いだった。


 愛する天使を突き放し、狂気を示すのがどれだけ辛かったことか。

 いや、と笑おうとした頬は持ち上がらなかったけれど、心の中で彼は訂正する。

 正直怖かったのだ。演じていたはずの冷酷な自分が、真の自分に取って代わることが。よくもあれだけ冷たい声が出るものだと我ながら感心したし、傲岸不遜な振る舞いは、気を抜けば快い解放感に繋がりそうだった。

 しかし不思議なもので、ミカエルに斬られてからは全くそんな思いが無くなってしまった。ふわふわと、己の何かが欠けてしまったような、ただただ慈愛の気持ちしか溢れてこない奇妙な感覚。《光》とはこうあるべきなのだろうか、と善良なる思いのみにもかかわらず、疑いを抱いてしまうような。あれも、あの剣の力だったのだろうか……


 取り留めのない思考を巡らしつつ、全身の力を抜き手足を投げ出したまま、ルシフェルはぼんやりとしていた。彼はもう天使ではない。天界を統括する責を捨て、愛する者に別れを告げ、手元に残ったのは《堕天使》という称号のみ。光と称えられた尊い身は、裏切り者として名を刻んだのだ。

 早く、と唐突に彼は思い出し、焦った。弟に身を斬らせることができたのも、全ては仲間に対する己の責任を思えばこそ。そうだ、早く行かなければ。皆が待っている。


『――無様だな』


 不意に聞こえた低い声。誰かいたのかと、ルシフェルはやっとの思いで首だけを横へ向け、そして初めて表情を動かし目を見開いた。

 何故ならそこに立っていたのは自分にそっくりな――否、“自分そのもの”だったのだから。


「……おまえは」

『私は、貴様自身だ。貴様の中のもうひとりの人格』

「私、の?」


 彼が発した声は擦れているというのに、もうひとりの彼の返事は、いやにはっきりとしていた。

 どことなく懐かしい気がするのは何故だろう。その男から溢れてくるのは敵意。悲哀色混じりの、憎悪。


『言わば影、裏。《光の子》、貴様の光は強すぎた。光がまばゆいほどに、影は濃さを増すもの』


 裏だと名乗った彼はゆっくりと歩み、横たわる堕天使を見下ろした。射るような視線はそのままに、僅かな憐憫を含む表情を向ける。


『貴様は哀れだ』

「……」

『そして誰よりも愚かだ』


 見つめ返す堕天使の瞳。同じ紅色なのにその瞳から徐々に光が失せていく。

 確かに、そこは牢獄ではないかもしれない。しかし彼の生命の源はとうに枯渇しているに違いなかった。あれだけ戦場を飛び回り力を行使し、且つ大天使達と刄を交えたのだ。《光の子》が特別であったにせよ、弟との交戦は厳しいものだったと言わざるを得ない。その上に故意とはいえ敗北を喫し、絶対の力の前に膝を着いた。彼が形を留めていられること自体、やはり不可思議なことだった。


『《光の子》。貴様は私の存在に気付いていたか』

「いや……」


 堕天使ルシフェルは意味もなく数度、瞬きを繰り返した。視界が霞むのは血を流し過ぎたせいなのか、それとも。


『私は、悪魔だ』


 呻いて目を閉じた堕天使。その頬を涙が伝う。泣き叫ぶことさえできなかった。

 空虚な気持ちで彼は事実を噛みしめる。自分は天使でありながら悪魔を飼っていたのか。だからあの剣を扱えなくなったし、新たな焔を呪ってしまった。


 悪魔が無事であるのは恐らく、ミカエルに斬らせたあの時、既に内側にはいなかったからだろう。想像し難い事象も、当時の精神状態を考えれば納得できないこともない。

 では、と。では、いま自分が物足りなさを感じるのだとしたら、それは“悪魔”の面がない自分は自分ではないと感じているのと同義なのだろうか。恐ろしい考えを彼は無理矢理に振り払う。まさか、この大天使たる我が身が? あり得ない。


「……他の、者は」


 目を閉じたまま、彼が漸く発したのは仲間を思う問い掛け。

 誰の命も失われぬようにと片っ端から地獄へと避難させていたが、彼が力を行使する段階で重傷を負っていた者もいる。天界とは異なる世界で堕天使達が安全を確保できたのか、彼には知る手立てがなかった。


「私と共に戦った者達は、無事か」

『死んだ者はない。怪我に多少の程度差はあれど、計画はほぼ完璧だった。しかし貴様はこのザマだ。貴様の傷が最も深く、この“狭間”へ迷い込んだのもひとりだけ』

「“狭間”……?」

『ここは天界でも地獄でもない。強いて言うなら、貴様の精神世界に近い場所』

 

 こんな闇色が? 愕然とする堕天使に、悪魔はそっと囁いた。

 

『神の光は天使の命を削る。このままだと貴様は消えるぞ』

「…そうか」


 堕天使は静かに呟いた。悪魔は、ただ見下ろすだけ。

 《光》になれないことが、彼には悲しくて悲しくて仕方なかった。今になって言ったところで、どうなるものでもなかったけれど。それが余計に腹立たしく、悔しい。

 

「……私は」

 

 しばらくして堕天使がまた問う。


「私は、間違っていたんだろうか」

『悪魔にそれを訊ねるか』

「ふ……。それも、そうだな」


 そう言って笑い声にも成り切らない微かな呼気を漏らした彼は、気付いているのだろうか。既にほとんど目が見えなくなっていることに。周りの闇が段々と濃くなっていることに。


『《光の子》、』


 闇の中から、悪魔はただ言う。堕天使は目を凝らそうと努めたが、もうあの歪んだ笑みを張りつけた自分の姿が見えることはなかった。

 されど伝わってくる感情の波。怒りと悲しみと愛しさと愉悦と。様々な矛盾する感情が一緒くたに混ざり合ったそれは果たしてどちらのものなのか、それとも両者のものなのか。


『私と取り引きしないか』

「取り引き……だと?」

『そう。私に肉体を貸せ。そうしたら代わりに貴様の生を灯してやる』

「私を生かすというのか。悪魔のくせに、妙なことを」

『勝算のない勝負はしない。一つの肉体を共有しようと言っているのだ。いずれ貴様という人格が死んだ時、私がこの肉体を貰う。それまでは貴様の言うことも、少しは聞いてやろうじゃないか』


 堕天使は考えた。消えかけの灯火を燃やし、もはやまともに見えぬ目を閉じる。

 最初に、愛しい弟を思った。ここで自分が消えてしまったら、あの子にもっと重たいものを背負わせてしまう。あの子は優し過ぎるから、何もかもを他者のせいにすることなんてできないだろう。仮に相手が反逆者であったとしても。

 次に、同じ道を選んだ仲間を思った。彼らはきっと自分を信じて待っている。酷な選択をさせた挙げ句に、庇うためとはいえ黙っていきなり地獄に転移させた、こんな自分を。絶対に放っておくわけにはいかない。

 それから、天界を思った。楽園を荒らしてしまったこの罪を、主や友が赦す可能性は僅かでもあるだろうか。ここで生きることから逃げたら、二度と顔向けできないに決まっている。

 最後に、突然現れた悪魔について考えた。よくはわからないが、機会を与えてくれるなら、その手をとるのもまた運命。悪魔を内包すること自体は――認めるのは不本意ながら――どうやら以前にもしていたことらしい。勝てばいいのだ、要は。人格を支配するというのなら、その前にこちらが打ち克てば良いだけの話。

 一度失敗したからといって、それがどうしたと言うのだ。取り返し得るものなら、やり直せる時点から再び正せば良い。

 一度恥辱に塗れたからといって、それが何だと言うのだ。まだ全てが終わったわけではない!

 

「……おもしろい、な」

 

 目蓋を持ち上げる。堕天使は弱々しく、それでもせいぜい不敵に見えるような笑みを口元にのせて。


「おもしろい。乗ってやる」

『ククッ、さすがだ。我が愛しき愚か者よ』


 暗闇の中で悪魔も笑う。口端を吊り上げて彼は膝を着き、しなやかな体躯を曲げて堕天使の体へと顔を近付けた。首元に歯をたて、ふつっと噛み切る。


「っ……!」

『――《契約成立》だ』


 声もなく跳ねた“器”を悪魔は嗤い、そして深紅の液体をペロリと舐めた。

 

『血と記憶を対価に貰う』

「記憶、っだと?」

『そう』

「肉体を差し出すのは、対価に、入ら、ないのか」

『それも』

 

 血を啜るのに忙しいのか、悪魔は短い返事しか寄越さない。自分を名乗る輩にそんな行為をされていることがそもそも苛立たしかったが、さすがに怒りが伝わったのか、やがて悪魔は顔を上げて口を拭った。ぴちゃ、と濡れた音。堕天使は体に力が少しずつ生まれているのを感じていた。

 

『貴様にとっても悪い話ではあるまい。過去の甘美なる栄光を憶えていたとて、地獄で生きる決心をした者には邪魔にしかならないだろう? 愛する者との記憶を貰う、そして貴様が最も厭うであろう時に返してやる。そうやって貴様が弱った時に、私が体を貰う!』

 

 悪魔の高らかな哄笑に、滑らかな交渉に、堕天使は忌々しげに舌打ちを一つ。

 

「卑怯者め」

『何とでも言え! その言葉は貴様に(かえ)る』

 

 悪魔が言うことは正しい。だがまさか互いが同一の存在だとは堕天使も悪魔も本気で思ってはいない。ただ論理の盾に使っているに過ぎない。

 

『どうする?』

 

 悪魔は再度妖しく囁いた。

 光を取り戻し始めた瞳で悪魔を睨み付け、堕天使は暫し唸っていたが。実質、選択肢など彼らには無いに等しい。

 

「記憶を失うことは不都合ではないのか。私にとっても、お前にとっても」

『全てを奪いはしないし、すぐさま忘却するようなものでもない。貴様が思い出したくないと願えば失われるだけの話。何、誰しもそうだろう? 時間が経てば忘れることはある、過去は都合よく作り直される……それを少しばかり作為的にやるだけ』

「まったく、どうしてお前はそう遠回しに言うのだ」

『論理的と言って欲しいものだな、“枷”よ』

「枷?」

『貴様は暫く私を封じるだろう。故に私は貴様を枷と呼ぶ』

 

 堕天使は大きなため息を吐いた。悪魔の言うことを理解できないわけではなかったが、どうにも予想外の出来事が多過ぎる。これから先のことも考えねばならない上に、計画だって全く進んでいないのだ。

 生命力と共に、疲労感まで戻ってきていたのも事実。動け、考えろ。思いはするものの脱力感と眠気が酷い。これも計算のうちなら余程小賢しい、などと歯噛みしつつ。

 当分は己に不利なことはないだろう。むしろ……むしろ、思い出さない方が苦しまずに済むかもしれない。罪の記憶だけ背負い、甘やかな思い出など捨て去った方が躊躇わずに済むかもしれないではないか。

 

「私が望んだ通りになるのなら」

『無論、貴様の願うままに』

 

 真実かどうかはいずれわかること。今は早く力を取り戻して同胞のところへ行かなければ。

 伸ばされた手を、まるで同じ手が掴む。“契約相手”がたてる水音を聞きながら、彼は静かに眠りに就いた。


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