第6話:答えは、「大丈夫」
テーブルの上には茶碗と皿が二人分。台所からはいい匂い。だって、鍋の中には既にスープが出来上がっているんだから。
外は夕暮れ。昼がいくらか長いので、まだ真っ暗にはなっていない。普段ならもう「いただきます」をしている時間だけど、今は待たないと。ルシフェルは絶対に帰ってくるって言ったんだからね。
それにしても、今日の彼の行動にはびっくりさせられっぱなしだ。特に、急に抱き締められたあの瞬間。……幸せだなぁって思ってしまったよ。ほんのちょっとの時間だったけど、なんて言うか、その、すごく安心感のある腕の中だった。変態じみた発言を許してもらえるなら……堕天使長、めっちゃいい香りがしたのです。さすが美形。
なんだろうなぁ、香水や洗剤の匂いとかではないんだけど。ぽかぽか……ほこほこ? うん、ほこほこしてたんだ。彼の手はいつもひんやりと冷たいのだけど、優しさを温度にしたらたぶんあんな感じ。
けれど、今日いちばんの驚きは。
《ドン!!》
「!?」
突如として玄関の方で響いた大きな音。少し部屋が揺れたし、ドアに何かがぶつかったようだけど。
ちょっと怖くて、おっかなびっくり玄関へ。
《ガチャン!》
ノブが動くのにもいちいちびっくり。だ、誰?
と、思っていたら。ドアが開いて、滑るように入ってきた長身のシルエット。なーんだ、ようやく。
「お帰りルシフェル。珍しいね、わざわざ玄関から……」
ふらりと彼が揺れた。
「え――?」
止まるはずの体は傾いたまま。彼はそのままよろめいて、入り口の壁へとぶつかる。その表情は苦しげで。
「く、ぅ……っ」
「ルシフェル!?」
――なんで、こんなに。
「た、だいまっ………」
やっとのことで一歩を踏み出した彼の膝が、がくんと折れる。反射的に飛び出せば肩にのっかる重たい頭部。
片手は戸棚に、そしてもう片方の手と頭はあたしに。支えがなければ立ってさえいられないほどに、彼はぼろぼろだった。
「何があったの?! どうしてこんな、」
「何でも、ない……」
「っ!」
この期に及んで、まだあたしにそうやって嘘を吐くの? こんなに顔色が悪くて、ふらふらで、何でもないはずないじゃない!
堕天使の黒い衣装は――単に汚れが目立たないだけかもしれないが――特別変なところはないように見える。でも気付いてしまった。彼の少しだけ乱れた黒髪に、小さな羽根の一部が付着していることに。誰のものかはわからない、けれど漆黒の羽根。
ゆっくり、ゆっくりとずり落ちるように靴箱へ体をもたせかけながらルシフェルは玄関に座り込み、緩慢な動作でブーツの紐を解き始めた。こんな時まで律儀に……。戸惑いはしたが、手伝おうと手を出す。
「いい、から」
しかし呟くと同時、やんわりと手を退けられ――拒絶された。
「大丈夫」だとか「自分でやる」とか。あたしもたくさん言ってきた言葉ではあるけれど、そういう頑張りが相手を傷つけることがあるんだと初めて知った。時には甘えた方がいいことだってある。人間が「頼って欲しい」なんて言うのは、傲慢だと魔王様は機嫌を悪くするだろうか。
ショックを感じる暇もなく、立ち上がろうとする彼のために自然と体は動き。肩を掴んだ手指に力が入ったかと思うと彼はどうにか立ち直って、口を開く間すらくれずにリビングへ向かってしまう。全くおぼつかない足取りが見ていてひやひやする、けれどまた不要だといわれるのが怖いのかあたしの脚は今度は動いてくれなかった。
「ちょっと――」
「悪いが、後だ……。疲れた……少し寝させてくれ……」
やっとのことで声だけ投げれば、返球はまるで暴投。返事をするより先に、ルシフェルはソファーへと倒れるように身を横たえた。……それきり。それっきりぴくりとも動かなくなった。
弾かれたように駆け寄り慌てて覗くと、良かった、胸がちゃんと上下している。
死んだように眠る青年に、そっと毛布をかけてあげる。自然と手が震える。
ルシフェルが倒れた。あの堕天使長様が。
蒼白と言うには白過ぎる、本当に血の気がない顔。疲れ切った表情。……初めてだ、こんなの。
頭の中はぐちゃぐちゃで、それでも頭は割と冷静に物を考えられるらしい。現金というか、脳は偉大というか。
今日一日のことを思い出す。そして最近のルシフェルの様子。総合した結果、あたしはひとつの仮説を立てた。
彼は何かの病気に罹っていた、あるいは以前から具合が悪かったのではないか。妙に距離が足りないように感じた地獄への転移も、部屋の中に現れずに玄関から帰ってきた理由も、一応は説明がつきそうに思える。多分ひょっとしたら、“飛ばなかった”のではなく“飛べなかった”のじゃないだろうか。堕天使が罹る何らかの病気のせいで、使える能力が限られていた。魔力や体力が減っていたからどこか元気がなく、物思いに沈むことが増えた。そう考えるのも、アリだと思う。
もしこの仮説が当たっているなら、今晩ルシフェルを放って寝るわけにはいかない。何かがあってからでは遅いのだ。
今のところは静かに眠っているだけ。別段何かをする必要はなさそうだ。――というのは言い聞かせているようなもので。
本当は不安で仕方がない。あのルシフェルが倒れるなんて、そんな、もしも重病だったらどうしたらいいのだろう。もしもこのまま目覚めなかったら……あたしは、どうしたらいいのか。嫌な可能性ばかりが思い浮かんでどうしようもない。こんなことでと笑われるかもしれないが、普段が普段なだけに、微かな呼吸を聴いていなければすぐにでも泣き出してしまいそうだった。
助けて、誰でもいい。お願いします、彼がちゃんと元気になりますように。単純に疲れて睡眠をとっているだけでありますように。
あたしは今夜はずっと、寝ずに見守っていようと心に決めたのだった。
***
……でも、結局は。
「あ……」
慌てて時計を見る。数時間分の記憶がない。外はうっすら明るいし……寝ちゃったのか、あたしの馬鹿。
ソファーを見てみると、まだ彼はそこにいた。眠ってるみたい。ひょっとして居なくなってたらどうしようかと思ったけど。
ずっとテーブルに伏せていたせいか、枕にしていた腕がじんじん痺れる。痛む目をちょっと押さえながら、ぼんやりと考えを巡らせて。頭が起動するまでには時間がかかる。
朝食までにはまだ数時間。ルシフェルがそろそろ目を覚ますかもしれないし、今度こそちゃんと傍にいて起きていよう。
……とりあえずうがいをしたい。ということで洗面所へ向かう。寝起きの口の中は、少し気持ち悪い。
さて、ルシフェルが目を覚ましたらどうしようかな。具合が悪いんだとしたら、それなりのことを考えなきゃ。
地獄に連れて行くのが一番いいのだろうか。あそこは悪魔さん達の街だし、もしかして専門の医者みたいな人もひとりくらいはいないかな。それじゃなかったら魔力で治療とかできないのかな。……ああ、ダメだ。地獄にこちら側から行くには患者である彼自身に力を使わせる他ない。それなら、それなら……
あ、しかも今日は平日だ。うん、よし、決めた。今日は学校休む。休むったら休むのだ。真面目で通っている真子さんだけど、仮病でも何でも使ってやるんだ。
ようやく目が覚め始め、でも完全には覚醒しきっていない頭で、仮病は何にしようなんて呑気なことを考える。取り留めもない思考、こんなことを考えるより先にもっと大事なことがあるのに。わかっているのに考えていることがあっちこっちにバラけて、思うように集中できない。それが自分で意図してのことだったら、あたしはとんでもなく薄情な人間だと思う。働け、集中しろあたしの頭。
そうして洗面所を出て、ふと変な音が聞こえてくることに気付く。
何か、こう。すきま風でも吹いているような、ヒューヒューという音。我が家の立て付けはそんなに悪くないはずなんだけど。
ベランダへの窓が開いていた?
リビングに置いてあるソファーに近付くにつれ、音もだんだんと近くなっていく。ソファー……まさか!
「ルシフェル?!」
空気の漏れるような音。その音はそこに横たわる堕天使の喉から聞こえる、彼の呼吸の音だったのだ。
「はぁ……っ!」
苦しげに息を吐くと、ルシフェルは眉をひそめた。汗が、すごい。濡れた漆黒の前髪をかき分けて額に触れ、その異常な熱さに思わず手を引っ込める。
これは、熱……なの?!
ヒューヒューと風を切る音。時には詰まるくらい呼吸が辛そうで。堕天使が体調不良だなんてそれこそ聞いたことがないけれど、彼の症状は風邪に酷似していた。そして間違いなく見た目には悪化していた。
どうしよう、どうしよう、ルシフェルが。……や、いや、
「……お、落ち着け、落ち着け……!」
焦るな慌てるな考えることをやめるな!
ルシフェルは、大丈夫。きっと大丈夫。彼は強いんだもの。
こんなことで慌ててどうする、ここで頑張らないでどうする自分。支える、って決めたじゃないか。今ここにはあたししかいないんだ。あたしが踏ん張らないで誰がやる?!
堕天使だって言っても食事は同じだった。だったら栄養を摂る方法だって、もちろん風邪を治す方法だって、人間と一緒かもしれないじゃないか。そう、見た目は悪化しているけど熱が出るのは体がウイルスと闘ってる証だと聞いたことがある。今ルシフェルの体が一生懸命に悪い物質と闘っているのだとしたら、それをサポートしてやるのが人間のあたしにもできる精一杯。
とにかく台所へ。氷嚢を作って頭にのせる。頭を冷やして体を温めるのがいいんだよね、確か。
それからタオルを持ってきて汗を拭く。顔と首まではできたけど、服はさすがに脱がせられなくて、仕方なく首元だけ弛めておく。
あとは、飲み物と食べ物。だけど軽く揺さ振ってもルシフェルは起きてくれない。苦しそうにうなされているのに。困った挙げ句、スポーツドリンクを半ば無理に流し込んだ。頭を持ち上げて支えて……テレビか何かの見よう見まねだ。
一応、一段落。今日は絶対に学校休もう。それと……
と、ここでやっと最良の策に気が付いた。どうしてすぐに思い至らなかったのだろう。自分の間抜けさに思わず脱力して、床にへたり込んだまま取り出したのは携帯電話。早朝にも早い時間帯だけど緊急だからたぶん、大丈夫。
『……はい?』
案の定、最初に電話を取ってくれたのは、主人ではなく居候さんの方。既にしゃきっと起きた声に、さすがは武人だと感心してしまう。ルシフェルのことを最もよく知っていそうな堕天使さんといえば。ちなみにソファーで眠る彼は、未だに目を覚ます気配もない。
「アシュタロスさん、あの、あたしです、真子です」
『おや、おはようございます。早いのですね。黎香さんはまだ寝ているんですけど――』
「ううんいいの、アシュタロスさんに用事があって、その……アシュタロスさん、あ、あのね、ルシフェルが熱を出しちゃったみたいで、その……」
『な……っ!』
やっぱり保身に走りそうな言い回しで上手く伝えられない、それでもその反応の鋭敏さが事の重大さを示していた。アシュタロスさんがあたしを責めることは絶対にないとわかっている。でもとても申し訳なくなって、一瞬泣きそうになった。
『わ、わかりました。すぐにそちらへ参りますので』
「ありがとう」
電話口の向こうで「黎香も行くー!」という声が聞こえる。アシュタロスさんの居候先の主人……あたしの友達の声。起きたんだ。多分、携帯を奪おうとしているが、身長が足りなくて取り戻せないんだろう。その光景を想像したら、ちょっとだけ気持ちが安らいだ。
電話が切れ、ツー……という音が三回聞こえた時には既に、床の上に淡緑色に光る魔方陣が現れていた。もうすっかり見慣れた特有の幾何学模様。ふわっとトレードマークとも言える銀髪が広がる。黒いローブに包まれた全身が抜け出るや否や、彼はソファーへと駆け寄った。
「ルシフェル様!」
堕天使長のいちばんの忠臣は跪いて主の名を呼ぶ。けれど、その切れ長の瞳は一向に開く兆しを見せない。
「アシュタロスさん……」
うなだれたアシュタロスさんの横顔が本当に悲しそうで。その痛みはきっとあたしよりも大きくて。
「ごめんね……!」
謝らずにはいられなかった。謝ってどうなるものでもないし、誰に何を謝りたいのかもわからなかったけれど。それでも何か言って欲しかったのだ、たぶん。
「真子さん」
再び顔を上げた時、銀髪の堕天使は穏やかに笑んでいた。そこに痛みの欠片は見当たらない。
「貴女のせいじゃない。どうか謝らないでください。真子さんがそんな顔をしていたら、僕らも悲しい。だから、どうか」
「……うん」
アシュタロスさんはひとつうなずいてくれる。救われるような優しさを、向けてくれる。
彼らは大きい。人間のあたしがとても及ばないくらいに。
「見たところ、現段階では命にかかわるほどではないようですから安心してください。処置も、まあこのくらいが妥当でしょう。よく頑張りましたね」
その言葉をきっかけに思わず涙がこぼれてしまう。そんなことない、頑張ったのは、頑張っているのは。
「ごめんなさい、何もできなかった……死んじゃったらどうしようって、怖くて、でも……!」
「大丈夫。大丈夫です」
しっかりと見つめて言われる言葉と、握ってくれた手の温かさに心から安心する。武に秀でている彼の手は、きっと鍛錬によってところどころ硬かったけれど、とても優しかったから。
「本当に、よくひとりで。でももう肩の力を抜いて……そうですね、まず、一体何があったのかお聞かせ願えますか? って、もしや真子さん、今日は学校がある日でしょうか?」
「あ、うん……でも今日は休むことにしたから大丈夫」
「そうですか。良いと思います」
小さく笑ったアシュタロスさんに、あたしは知っている限りのことを話した。
万魔殿の軍馬が逃げ出したこと。ルシフェルが仕事があると言っていたこと。そして戻ってきたら倒れたこと。最近、様子が変だったこと。
彼はただ黙って聴いてくれたから、ついでに自分の仮説も話してみた。浅はかだとは思っても、仮にヒントくらいになれたならと思ったから。病気ではないのかと問うと、
「恐らく、順序が逆だと思います」
と、アシュタロスさんは言った。
「逆?」
「ええ」
彼はずっと真剣な顔で思案していたが、暫くして軽く首を傾げながら口を開く。
「我々は滅多に体調を崩しません。人間とは違いますからね」
「それは……そうだよね」
「こうした事態を引き起こす要因は限られています。つまり、病気になったから力が衰えたのではなく、力が弱まったから熱が出たのだと、」
「――余計なことを言うな、アシュタロス」
擦れた声が聞こえたのはその時だった。
「ルシフェル!」
「ルシフェル様!」
見れば、ルシフェルが上体を起こそうと苦心しているところ。あたしより先に反射の速度で飛び出したアシュタロスさんがそれを手伝う。まだ息苦しそうだし頬も上気しているけれど、紅い双貌はしっかりとこちらを見据えていた。
「あまり喋り過ぎるな。……それは、人間が知る必要のないことだ」
「も、申し訳ありません……」
アシュタロスさんは小声で謝った。でもあたしはその言い方にむっとして。
「余計なことじゃないよ。ルシフェルのことが心配なんだから、あたしにだって知る権利くらい――」
思わず口走ると、彼は口端を僅かに上げた。
「お前がそれを知って、一体どうするというのだ」
「え……?」
まるで、馬鹿にしたような笑み。……変、だ。冷酷だとかそんなことを言うつもりはない。でも何かおかしい。
人間、人間、人間。わかってた。あたし達は結局違う者同士。それでもその壁をこんなにも意識したのは初めてだった。
「真子」
気のせいかと思うほど、嘲笑めいた笑みはすぐに鳴りをひそめてしまった。彼はすっかり水になってしまった氷嚢を下ろし、こちらに差し出す。
「水を、くれないか」
「水?」
「ああ。喉が乾いた」
照れたような微笑。いつもの笑顔。やっぱりさっきのは気のせいか。
「水ね。わかった」
「悪いな」
何か違和感を覚えつつ、でも気付かない振りをして立ち上がった。気付いたら大切なものが壊れてしまいそうな気がして、それよりなら、罅を覆い隠してしまった方がお互いのためなのかもしれなかったから。