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Intention

 何とも奇妙な空気であった。

 勝った、それは間違いない。何せ敵兵が“居なくなった”のだ。反乱者達は数多の味方と同様、徐々に徐々に行方知れずとなっていったようだ。《神軍》兵士らにとっては不可解な出来事であったが、敵勢力が減少するのはむしろ好都合。残された僅かな敵兵達がとうとう降参し、ついに《神軍》は勝利の雄叫びを上げるに至った。

 楽園を守り抜いたのだという達成感、沸き上がる喜び。後始末を終えて宮殿へと帰ってきた天使達の顔にも、少しずつだが笑みが戻ってきていた。

 だが当然、手放しで喜んでなどいられないことも事実。薄くまとわり付くような重苦しい空気は、身体的な疲労に由来するばかりではない。

 喪失したものはあまりに大きかった。大天使一名を含む多くの味方、消失した反乱者達、そして、彼らを率いていた天使の長。彼らは二度とこの天界に戻らないだろう……戻れないだろう。

 

 さて、宮殿の前。ミカエルは未だ戻らず、ガブリエルは行方不明、ラファエルは治療中。となると、瓦礫の片付けや安否確認で駆け回る天使らに、中心となって指示を出していたのはウリエルであった。ガシャガシャと鎧や剣が擦れる音が辺りに満ちている。

 

「ラジエル、お前達はそこが終わったら宮殿内部の確認へ。ああ、そうだ、ザドキエルは無事だそうだから、天使の居室を順番に頼む。アザゼル達は救護の手伝いを」

 

 一通りの指示を出し終えると、彼は静かに嘆息した。宮殿をはじめ、思っていたほど破壊されたわけではない。恐らく、とこめかみを押さえる。恐らく、彼らの目的は違うところにあったのだ――。

 直接ルシフェルと剣を交えたウリエルの認識は、他の者とは少し違っていた。敵味方の区別なく気でも狂ったように全てを消失させていた天使。彼は何を言うでもなくただ、怒りに任せて飛び掛かるウリエルを圧倒した。

 あの場で明確な答えを聞いたわけではなかったが、かの“反逆者”がまだ何か重大なことを隠しているはずだという確信はある。彼は多分、主に対して反逆したのではない。何故なら、最後の最後に一つだけウリエルの質問に答えたから。

 

「シェムハザ、ちょっと地下の様子を見てきてくれ」

 

 ウリエルは元天使長の意図を想像しようと試みながら、駆けていく数名の背を見送った。

 最後まで残っていた反乱軍の天使達は、捕虜として宮殿の地下室に捕らえてある。地下室といっても、ウリエルが力を使って切り崩しただけの即席の空間だったが。その捕虜達にももちろん目的は何かと尋ねてはみたものの、黙秘。余程その忠誠心は揺るぎないものらしい。

 もし今一度ルシフェルに会えるなら、それがいちばん確実に決まっている。元とはいっても大天使長、易々とやられるはずもない。せめて行方さえわかるものなら……と、視線を向けた先。

 

「……?」

 

 ひとりの天使がとぼとぼと歩いてくるのが見えて、ウリエルは鋭い黒耀の目を細めた。

 柔らかく輝く金色の髪、大きな剣を携えた小さな天使。

 

「ミカエル!!」

 

 ウリエルの声に、周りで作業していた天使は一斉に顔を上げた。何しろ《神軍》統率者、指揮官が帰ってきたのだ。英雄の帰還を祝う歓声を上げるべく、彼らは騒めきながらも二名の大天使を見守る。

 どんなにか激闘だったのだろう。防具の上に纏った白衣や翼が赤黒く染まっているのを目にした誰もがそう思った。しかし間近にいたウリエルには、それ以上に暗い彼の表情が気になった。

 

「ミカエル、大丈夫なのか? 怪我は!」

 

 かぶりを振る。全身を濡らした血は、自分のものではないのだと。

 

「……に、さま、が……」

「兄様? ルシフェルがどうかしたのか」

 

 わなわなと震える唇に、ウリエルは少し声を和らげた。

 俯いていた顔がウリエルを見上げる。泣き腫らしたというより顔全体を悲しみで洗ったような。擦れた声は泣き叫んだせいなのだと悟る。

 はっと息を呑んだウリエルが無意識に身を退いた時、その両肩は剣を手放した血塗れの手に握りしめられていて。

 

「にいさまが、しに、ました」

「は……?」

「ぼくが、ころしました」

「ばっ――馬鹿なッ!」

 

 逆に掴みかかったウリエルの大声に、周りの天使から悲鳴が上がる。大天使らの他に誰も動く者はなかった。

 

「そんなはずは――あいつは約束したんだぞ!」

 

 一対一で剣を向け合い、呆気なく倒されたあの時。何故あんなことを言ったのか、ウリエル自身にもよくわからなかった。最高傑作たる天使にまだ良心があると信じたかったのかもしれないし、或いは、目の前で消されてしまった彼女への未練を吐き出してしまったのかもしれない。それでも気が付くと彼は、用済みとばかり剣を収めて立ち去ろうとする天使に叫んでいた。「彼女を泣かせたら許さない。お前は全てを守れるのか」と。

 何を聞いても僅かたりとも口を開かなかった反逆者は、最後の問い掛けにだけはしっかりとうなずいてみせた。あの時彼は確かに「絶対に」と言ったのだ、誓ったのだ。

 為す術なく揺さ振られるだけのミカエルは、弱々しく「見たから」と呟くばかり。

 

「そんな、ルシフェルがそう簡単に――!」

「やめないか、ウリエル!」

 

 背後から飛んだ凛とした一声に皆が振り返る。蒼の髪を靡かせる麗人の姿に、ラファエル様、とあちこちから小さな声が零れた。

 

「ラファエル?! お前治療は、」

「大方」

 

 傷を負っていた素振りなど少しも見せずに天使達の間を早足で寄ってくると、片目を包帯で覆った《治癒》の大天使はそっとミカエルを解放した。

 

「怪我人にそう手荒な真似をするな、ウリエル」

「しかし!」

 

 周りの天使に聞かれてはまずかろう。また怒鳴りかけたウリエルは、どうにか深呼吸して声をひそめる。

 

「……これが興奮せずにいられるか!」

「一体どうしたというんだ?」

「ミカエルが言うには、ルシフェルが死んだのだと」

「な――」

 

 ラファエルは瞠目し、次いで先程からずっと立ち尽くしているミカエルを見た。その表情は虚ろで痛々しい。

 

「……ミカエル」

 

 どこかで鳥の声がする。

 ラファエルが跪いて覗き込んでも、小さな天使に反応はほとんど見られない。

 

「君は本当に、ルシフェルが死ぬところを見たのか」

「にいさま、ひかりに、なって……きえ、た、から……」

 

 ウリエルとラファエルは顔を見合せる。途方に暮れたと言ってもいい。詳しい話を聞こうにも、ミカエルにそれをさせるのは酷なことだと思われた。

 

「……血ではなく光ならば、」

「……ああ」

 

 やがてウリエルが重々しく口を開けば、ラファエルも顔を曇らせうなずく。

 

「消滅、ということか……」

「なんという……」

 

 霊体としての面が強い彼ら天使は、肉体が傷つけば血が流れるが、それ以上――存在そのものが欠ける場合には血ではなく光を零す。聖なる光は彼らの構成要素なのだ。

 そういった根源的な傷を与えられるのは、例えば祝福を施した《神軍》の武器であったり、ミカエルの足元に転がるような特別な剣であったり。そこには必ず“絶対”の意志が働く。

 

「つまり主はそこまでお怒りだったと」

「ウリエル、その言い方だと君はまるで彼を罰したくないように聞こえる」

「お前だって怪訝そうな顔をして」

 

 無論、かの大天使は重大な罪を犯した。主の御許たるこの楽園に無用な争いを引き起こし、あろうことか主に刄を向けたのだから、それは罰せられて然るべきだ。主を、友を、愛する者を裏切った代償は小さくはないだろう。

 しかしながら、こうもあっさりと彼という存在は無に帰せられるものなのか。取り戻せぬ過ちだと、もう微塵の愛情も注ぐ価値はないと、主はそう断じたというのか。

 

「俺は、彼が何を考えていたのか知りたかった」

 

 ぽつりと漏らしたのはラファエル。知識の探求云々ではなく、ただ純粋に、仲間が遠いところへ行ってしまうに至った理由を聞きたかった。

 

「俺もだ、ラファエル」

 

 力なく笑い、ウリエルも両目を強く擦る。これは彼の予知を遥かに上回る事態。

 

「もう一度、ザドキエルに会う必要がありそうだな。奴は先には何も言っていなかった」

「ああ。だが、不思議なものだな。望んだ通り戦には勝ったというのに」

「甘いと言うべきなのだろうかな。俺はそうは思いたくないが……。とにかく他の者達が不安がっている。ミカエルはお前に任せていいか? 俺は復旧作業を進めるから」

「ああ、わかった。一応は救護、の……?」


 どこからか鳥の鳴き声がする。


「ラファエル?」

 

 小川のせせらぎのように可憐に透き通った音色は、静かな宮殿の前に響き渡り、惚けたように空を見上げるラファエルの耳にも、同様の方向を見て口を開けたウリエルの耳にも、もちろん他の天使にも届いていた。

 頭上を旋回する、大きな白い鳥。

 

「嘘、だろう……?!」

 

 呆然とするウリエルの呟きを解する者は多くない。彼女は滅多にその力を見せなかった。

 ほとんどの天使はただ歌声に聞き惚れていたが、大天使達の反応は驚愕と――歓喜。

 

「ミカエル、ご覧!」

 

 ラファエルに促され、というか半ば無理矢理に反転させられ彼が見たのは、純白の鳥が荒れた草地へと優雅に降り立つところ。しゅるり、と衣擦れの音がして、羽根が吹雪のように舞う。

 

「まだ、嘆くのは早いわ」

 

 ミカエルはみるみる蒼眼を見開いた。

 

「ねえ、ミカエル?」

 

 気付けばそこには四大元素天使エレメンツが揃っていた。ひとりも欠けることなく。

 《慈愛》の大天使は花のような笑みを浮かべる。

 

「……ガビィ……?」

 

 よろよろと。背後の天使の大騒ぎも、隣の大天使が絶句しているのも、全てを彼方に。両腕を広げた彼女の胸に、ミカエルは思い切り飛び込んだのだった。

 

「ガビィ……っ! よかっ、たっ、無事で……!!」

 

 枯れていないのは嬉し涙。えぐえぐと嗚咽を漏らす天使を抱き締めたまま、ガブリエルはその場にいる天使達に深く頭を下げる。

 

「心配をかけてしまってごめんなさい」

 

 彼女の姿は居なくなる前とまるで変わらない。白く長い衣にも、肩に纏う薄布にも、汚れや損傷は見受けられなかった。

 

「ガブリエル、お前ルシフェルに消されたんじゃなかったのか?!」

「ルシフェルには会ったわ。でも彼は私達を消そうとしたわけじゃない」

 

 そう言うと、詰め寄るウリエルを制した片手で中空に円を描くガブリエル。すると大きな雫が彼らの目の前に留まる。即席の“水鏡”、これも彼女の力のひとつ。

 ゆらゆら揺れる水面に映し出されたのはたくさんの影。よくよく見れば、それらは皆、天使の形をしている。

 

「これは……?!」

「行方不明の天使達は全員無事よ。今こちらに向かってる。私は一足早く、知らせに飛んだのだけど」

 

 大天使二名が説明を求めるより先に、ガブリエルは腕の中で泣いている天使の名前を呼ぶ。

 

「ミカエル、伝言を預かっているの」

「伝、言?」

「そう。ルシフェルから」

 

 その名が出た途端に強ばった体を、慈母は優しく撫でてやる。

 

「彼に何があったのか、詳しくは見えなかったからわからないわ。でもね、ミカエル。彼は大好きな弟を独りになんてしない」

「でも……でも、兄さまは僕が」

「それに彼にはやるべきことが残っているのだもの、途中で投げ出すはずないわ。……ねえ、ミカエル。ルシフェルはミカエルにお別れを言った?」

 

 うなずきかけて、はたとミカエルは思い出す。屁理屈かもしれない、また彼の優しさだったのかもしれない。それでも。

 

「……いいえ。“また、いつか”……兄さまは、そう言っていました」

 

 彼女はにこりと笑んで。

 

「ね?」

 

 と。「ルシフェルの部屋に行ってご覧なさい」と。

 戸惑いながら宮殿へ向かうミカエルを見やり、ガブリエルは自信すら覗かせながら、言った。

 

「もし彼のためにうたいたいのなら、きっと鎮魂歌より讃美歌であるべきだわ」

 


 

***

 


 

 随分と久し振りな気がする扉の前。いつも番をするように立っていた彼の従者達はもういない。

 言われた通りにルシフェルの執務室へやって来たものの、ミカエルは長い間その場で逡巡していた。

 目を閉じればくっきりと蘇る紅の世界、彼の最期。柔らかな微笑み、擦れた言葉。

 

「兄さま……」

 

 自分がどれだけ愛していても、絶対の決定には抗えなかった。彼を赦すまじと思ったのは自分自身だったのか、運命だったのか――。

 やめよう。ミカエルは小さく呟く。それに彼女も言っていた、《光の子》には希望があると。


 扉の鍵に意識を集中する。

 

 ――逆巻け。

 

 念じれば、カチ、と音がして。鍵の時間は巻き戻り、そして扉が開く。

 足を踏み入れてすぐ、全身を包むような懐かしい匂いに唇を噛み。相変わらずこざっぱりした部屋の中、ミカエルは容易にその意図に気付いた。いつもルシフェルが書き物をしていた机の上。

 

「これ、は……」

 

 そこには流麗な文字が敷き詰められた書類ではなく、折り畳まれた真っ白な衣。広げてみて、声を上げる。――金刺繍。

 拍子にかさりと何かが現れた。それは一通の封書。震える手で、重なった幾枚もの便箋を丁寧に開く。折り目は几帳面なあの天使らしく真一文字、けれど字は彼にしては、ざっと見てわかるくらいに歪んでいる。

 怖い。

 だがミカエルが自覚するより先に、蒼い瞳は、その黒い軌跡を追っていた。


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