Warfare (6)
見慣れた――ついこの間までは傍にあるのが当たり前と思っていた銀髪を見た時、ウリエルの心中を去来した想いは果たして、本人ですらなんと言ってよいものかわからなかった。
それでどうしても苦みを噛んだような顔になり、大剣を鞘から抜いたところで、ようやく《戦神》は彼の方を向いた。
もっとも会いたくなかった相手の気配。黒曜石の瞳は鋭く、構えずとも立ち姿は雄々しく。しかしアシュタロスが泣きそうになった理由は恐怖からでは決してなかった。
「ウリエル様……」
何十もの天使が居並ぶ戦場。もはや敵か味方かもわからないそれらは、疾風の如く駆ける大天使を見て慌てて道を開けた。だがウリエルの眼には入らない。彼が見つめるのは、この凄惨なる灰色の大地においても変わらない。
「――アシュタロス――ッ!!」
いくら武術に秀でていようとも、彼女が厭う言い方を借りるならば、肉体では不利となることもあろう。まして無尽蔵の気力があるはずもない。
だが彼女はよくやった方だ。何せ、攻撃になり得ないというのにあれだけの数の天使を足止めしていたのだから。
両の手を重ね、光の壁を展開する。
結界へ剣が叩き付けられると同時、凄まじい閃光と爆風が大地を舐めた。
師弟か、同志か。今となっては形容しがたいが、紛れもなく彼らは生きての再会を望んだはずだ。それが未だ決着のつかぬこの場で実現しようとは。
「くっ……!」
彼女の能力は攻撃にはなり得ない。わかっていた、だからこそ彼女は、如何なる剣よりも強い楯となることを望んだのだ。
誰を護る楯か。
今この場でウリエルに背を向けられない以上、選択は明白だというのに。彼が剣を振るう度に、胸が張り裂けるような痛みを感じる資格もないというのに。手加減を望むべくもない。自分達は、道を違えたのだから。
重たい斬撃は恐ろしいほどに容赦がない。唇を引き結び、まったく反撃の隙を与えぬウリエルの攻撃に結界ごと弾き飛ばされ、とうとうアシュタロスも剣を握りしめた。敵う相手ではないかもしれない、それでも彼女は“自分の”身を護るだけではいけなかった。
ウリエルは攻めない。構えを解かぬままアシュタロスを睨む。
「どういう、ことなんだ」
「……」
「お前達の長は一体何をしている」
怒りだ。だが同時に困惑の色を声音に感じ、アシュタロスもまた戸惑ったように剣を握り直す。
気付かぬはずはないだろう。疲弊ではない。それによって戦いが収束へ向かっているとは思えない。現に局所的な戦況はますます過激になってきている。
だというのに全体の勢いは不自然に低下している。ましてや反乱軍の要職であり、《戦神》だ。わからないとは、言わせない。
「何故天使の数が減っている。こちらも、そちらも」
「……」
「お前達の長は何をしている!」
「ルシフェル様のことを悪く言わないでください! 彼はきっと、きっと……!」
はじかれたように顔をあげたアシュタロスに向かって、ウリエルは冷酷に告げた。
「ガブリエルとサンダルフォンが消された。メタトロンは、ルシフェルと遭遇したそうだ」
「!」
一瞬の迷い。目がふせられかけたのを、ウリエルは見逃さなかった。
そこへ再び攻め込む。――と。
さすがというべきか、それとも彼だからこそだろうか。些細な違和を感じ、急遽攻撃の手を止めて踏みとどまるウリエル。予知は、正しかった。
鋼鉄の悲鳴が響く。ウリエルの剣は第三者に阻まれて相手へ届くことはなかった。
“彼”は攻撃を受け止めた腕で、唖然とする大天使を勢いのままに圧しきる。途中で留まりかけていたとはいえ渾身の一撃を片腕だけで、である。そして持っていた剣を何の未練もなく地へ捨てた。
ただ在るだけで場を圧倒する力。黒き髪の奥で鈍く光る紅の宝玉。ややくすんだ白磁の肌にも長衣の中に着けた防具にも、目立った傷痕はない。その天使に傷を負わせられる者が、天界に一体どれだけいるというのだ。紛れもない大天使長が――反逆の烙印を押された主の愛し子が、そこに立っていた。
「ルシフェル……!」
ウリエルは唸る。アシュタロスを庇うように立ち、容赦ない一太刀を振りぬいたのは紛れもなく戦犯――“裏切り者”であった。
躊躇ない急襲。少しでも退避の判断が遅れていれば、大天使とて無傷では済まなかったろう。
「ルシフェル様……」
よくぞ御無事で、とは何故か続けられなかった。男にしては相変わらず華奢な背を見つめる。ウリエルからすれば彼女の眼差しは憧憬ととれたかもわからない。しかし長年慕ってきたからこそアシュタロスにはわかる。――なんと暴力的な剣筋であったか。
先程ウリエルに言われた言葉が頭をよぎる。
「貴様。ガブリエルを“消した”な?」
もはやアシュタロスのことなど眼中にない。ウリエルはひたすらにルシフェルを睨みつけたまま、怒りに震える切っ先は、違わず反逆者の急所を狙う構え。
対する黒髪の天使は、何も話さなかった。ウリエルを視界に捉えたまま、無言で片腕を上げる。
いよいよアシュタロスは慌てた。何故、否定しない? 彼のこの動作は自分へ向けられている?
「ねえ、ルシフェル様……嘘、ですよね……?」
懇願するように問いかけたアシュタロスを見ることはなかった。
「話が違うじゃありませんか。彼らは敵かもしれないけれど、貴方の目的は、違ったじゃありませんか……」
ただ、片手を挙げた。
「ああ……!」
“捕らわれた”ことのないウリエルには、アシュタロスが呻いた理由がわからない。彼女が絶望したことなど、知らない。
アシュタロスは初めてルシフェルと出会った時に同じ感覚を味わったことがある。かつて彼女は体の自由を奪われた。少しばかりの悪戯心だったのだろう、穏かな微笑みを向けて彼女を認めてくれた当時の彼の。
ルシフェル。彼の能力は――《存在干渉》。
あの時、彼は自分を認めてくれた。そう、思ったのに。
「やはり貴方には、僕らは必要なかったのですね」
昏い深紅の瞳が《戦神》の涙を見ることはとうとう最後までなかった。
「……消した、のか……?」
信じ難い。
能力で自由を奪われたわけでもないというのに、ウリエルはそこから動くことができなかった。
耳にこびりついた、指を鳴らす音。彼女の耳には届いていたか? 喧騒できこえるはずもなかろう、と願いたい。それはあまりに残酷な仕打ちだ。たった一度、目の前の天使が指を鳴らしただけで――嗚呼、彼女は、ずっと“裏切り者”を愛していた天使はこの世界から消失した!
それに留まらず。傍観し、あるいは慄いていた周囲の兵士達へ向けて腕を一振り。中空を水平にただ撫でるだけの行為は、それまでアシュタロスが苦難し足止めしていた何百もの天使を一瞬で消し去った。
呆気ない。あまりにも。
腕を振りぬいた瞬間に訪れた静寂。たったの一振りで、たったあれだけの時間で。上級天使を含めた幾百もの兵士が消失した。あまりの結果に、その力の差に、ウリエルは息をすることさえ忘れて戦犯を凝視する。彼は味方をも消したのだ。全く、一切の躊躇もなく。彼をあれほど慕っていた、銀髪の天使でさえも。
「きっ、さまは――ッ」
理由を考えるより先に口が動いていた。止めなければならない。単に怒りだけではない、むしろ混乱していたといった方が正しいか。
「貴様は!!」
罰さねばならない、この、もはや天の使いと呼べぬ裏切り者を!
大剣と共に獣の如く飛び掛かる。熱波を発するそれをちらりと見やった瞳には、まるで色がなかった。生気の失せた昏い紅。漸く己の剣を抜く。彼はひどく疲れているように見えた。
それが証拠に、彼は回避ではなくウリエルの剣を力任せに受け止めるという得策でない判断をした。細腕のどこにそんな怪力があるのか、幅の全く異なる剣は交わり、ふたりの身を弾く。
立て直しはルシフェルの方がわずかに速い。地を蹴れば消える。ウリエルの目指す軌道をあっさりと遮り叩き込まれる鉄の塊。鎧が凹むほどの衝撃に、武に秀でていたはずの天使は、だからこそ勝ち目のないことを悟る。どの能力においても、黒髪の大天使は愛され過ぎていた。本能に任せて斬りかかったことを悔やむ。
「?!」
だが、それは無駄ではなかった。
大天使であった彼の、その泥に汚れた頬。ウリエルは気づく。そこにはまだ新しい一筋の痕があったことに。
――まさか、この“裏切り者”は。
戸惑いは長くは続かない。
逡巡の視線の先。用済みとばかりに剣を収めるや否や、如何なる時も先導者であり最高の愛し子であった気高い天使の体が、ふっと沈み込んだのだ。咄嗟に膝をつく。肩で息を繰り返す姿をウリエルは呆気にとられて見つめると同時、納得していた。
もしも自分の仮説が確かならば、彼はその存在を保っていることすら奇跡に近い。
なんと馬鹿馬鹿しく、それでいて愛しく、壮大な喜劇であろうか。憎しみも忘れ、戦場に似つかわしくない畏敬と情愛の念が一瞬にして沸き上がるのを、彼は止める術を持たなかった。
違和の正体がこれであるならば、主はどんなにか惨いのだ。
ウリエルも剣を収める。そうであるならこの戦に終止符を打つのは、自分の役割ではない。
それを碌に見ることもなく、ルシフェルはゆらり立ち上がり背を向けた。膝をつくという行為自体が見間違いかと錯覚するほどに毅然とした姿で。何も語らぬ美しい天使にウリエルは――託すことを決めた。
「……彼女を泣かせたら許さない。本当にお前は、全てを守ることはできるのか」
「……それだけは、絶対に」
戦いの最中ひとことも発しなかった大天使は、ただ一つ確りと応じる。そうか、と呟いた《地》の天使は己の無力を噛み締める。二度選ばれぬともなるとさすがに堪えるかもしれない。
「これが……いや。お前が思っている以上に、あの子は逞しい」
ルシフェルは目を瞠り……次いで大地へ視線を落として呟く。
「そうでなければ困る」
その独白は風に攫われて誰の耳にも届かない。
待ち受ける結末が怖くはないのか。細い背を見つめるウリエルは疑問に思えど、“底”へ向けて自ら突き進んできたこの天使はきっと何もかも覚悟できていたに違いない。そうでなければこれほどの事を起こすものか。
彼の主への、天界への、弟への愛は、こんなにも深い。
この時ばかりは予知の力を厭わしく思った。そう……まだ、確証があるわけではない。だからウリエルは言わずにただ彼が消えるのを見送った。言ってしまったら現実となってしまう気がしたから。
――これが、永劫の別れとならないことを願おう。ルシフェル。