Warfare (5)
突如その場に飛び込んできた大天使。金色の光を纏った彼はラファエルのもとへと駆け寄る。
ここでミカエルが現れたことを喜ぶべきか?――空中で油断なく手を構えながら、ベルゼブブは唾を呑み込んだ。大天使が力を喪うなど信じられないこと。しかし確かに力の揺らぎを彼は見たのだ。だが向こうには絶対の母が居るだろう。その御前で悲劇は起きまい――とそこまで考え、反乱者は自嘲する。傷つけておきながら無事を願う、馬鹿な話だ。
「もういいッ!!」
悲鳴と呼ぶに相応しい叫びに、ベルゼブブは思わずはっと顔を上げる。三名の大天使の姿を見たと思えば、一瞬だけ全ての感覚が麻痺したような不思議な時間があって。そして次の瞬間には既に、三名の大天使達の姿は消えていた。
ミカエル。兄に劣らぬ素質を持つ彼の能力は、時を操ること。ベルゼブブは何が起きたのかたちまち理解する。
残されているのは赤い火柱と、茫然とする兵士達。
「マルコっ!」
ウリエルがいなくとも攻撃の効果は持続するらしい。ベルゼブブは慌てて救出を試みるが、燃え盛る絶対の炎壁はあらゆる介入を拒む牢獄。
「くそっ……!」
このまま見ているしかないのか? その時。
焔が激しく燃える。
燃える?
違う。焔の中から炎が生まれているのだ。
「あ゛あぁぁあ――!!」
ベルゼブブは無意識のうちに一歩退がる。その咆哮はかの剣士の声で、しかし聞いたことのない響きを伴っていた。
やがてウリエルの焔が内側から――“弾け飛んだ”。
「何……?!」
熱波を弾いたのは同じく赤い炎。出所は地に突き立てられている赤い剣。否――剣自体が“溶けている”。固体として武器の形を保ちながらも、どろりとした液状の炎が大地を舐めるようにうねり、蛇のように渦を巻き、剣士の体にまとわりつきながら踊る。
その剣士は。突き立てた剣に縋る姿勢で片膝を着き、雄叫びを上げながら渾身の力を剣へと込めている。
ベルゼブブはすぐに異変に気付いた。――“彼は、正気ではない”。
「マルコシアスっ!」
逃げ惑う兵士達の喧騒に負けじと、彼が狂気に食われるのを防ぐために呼び掛けるが、剣士はまるでベルゼブブの方を見ない。
命の危機、使命感、防衛本能……間違いなく箍が外れたのだ。限界を越えた体が痙攣しているにもかかわらず、暴れる赤い炎の勢いは衰えない。
見たこともない剣の特性や剣士の能力にたじろぐものの、それより仲間を救おうとする意識の方が勝った。“攻め”に特化した彼であれ、朋の命は守ることができるという証明。
「痛ェかもだが許せよ、マルコ……っ!」
先にはラファエルへと向けていた銃口を剣士へ向ける。鋭い目を更に細め、狙いを定める。その頃には邪魔となる兵達は撤退してしまった後。垂れる汗は熱波のせいか、それとも緊張のせいなのか――。
「《発射》!!」
反動で自身が後退してしまうほどの衝撃波。光の弾丸は微塵の狂いなく、炎渦中の剣士を弾き飛ばした。
光の粒子と黒煙が漂う中、ベルゼブブは地面に横たわった同胞へ急いで駆け寄る。焦げ臭さに視界が霞む。
「マルコ!!」
かの剣士はまさしく満身創痍だった。襤褸と化した衣、その隙間から覗く赤く爛れたように見える部分は火傷だろう。
それでもやはり霊体としての素質は少しは残っていたのか。主の慈悲と考えるにしては彼らは道を逸れ過ぎてしまったけれども、大天使の焔に捕えられても尚マルコシアスには微かながら息があった。不規則に跳ねるような痙攣。
一刻も早く治療師達に診てもらった方が良い、そう即断した彼は瀕死の剣士を背負い上げた。もちろんベルゼブブとて多少の処置の心得はあるが、乾き淀んだ戦場の真ん中で行うことでもあるまい。翼を広げる。彼には生憎と時間や空間や存在を操作する能力は無かったから、ここから全力を使って飛ぶのだ。ラファエルとの戦闘で既に消耗はしていたものの、仲間の窮地に力を振り絞らずして、いつ死力を尽くすというのか。
「もってくれよ……!」
《代理》の名は飾りではない。《王》に匹敵する速度で、彼等もまた退却の道を飛行することとなった。
***
宮殿へ戻った大天使一行を待ち受けていたのは、またしても上級天使の一角が“消された”という報せと、まるで放心状態となってしまったその兄だった。
ともかくラファエルを休養させ、報告とも呼べぬうわごとのようなメタトロンの話をどうにか解釈し。気が触れてしまった彼の面倒を見ておくよう部下に言いつけ、ようやくミカエルはその身を椅子へ落ち着けた。命を待ち受ける天使達は、一様に不安げな表情で長を見つめている。勝利を疑うのではない、正義を訝しむのではない。彼らはただ、慕う長の心身を純粋に案じているのだ。
本来ならば悠長にしている暇はなかった。だが、幼い大天使の身体は動くことを拒否していた。
また、天使がひとり消えたという事実。
懇意にしていた、自分よりも幼い愛らしい兄弟達。弟を消された兄の心境は如何程だろうか。それを思うだけで泣けてきそうだった。自身の兄が裏切り者になった事実は認めざるを得なかったけれども、まだ彼は“存在”していること、その有難みは幸福であるが故に不幸で。
いっそ、何もかも放り出してしまいたい。
そんなこと、出来るものか。
矛盾を抱えた天秤は、“役割”の重みによって跳ね上がる。ぎりぎりと、これ以上ないほどの怒りを滾らせている《地》の大天使が傍らに居るから、尚のこと。
「このままでは埒が明かない」
無言の長に代わり、ウリエルは腕組みをしたまま苛々とつま先を床へ打ち付ける。
「何故、仲間を消した相手を見過ごせる。もはや奴がどんな天使であったかなど関係のないこと」
乱暴な物言いに、ぴくりとミカエルの肩が動く。これはウリエルだけが思っていることではないのだろう。消されていく仲間達を愛していたのは、何も自分ばかりではない。信頼してくれる部下達の目を思い、初めてミカエルは長が背負う残酷さに気付いた。きっと彼も――兄も、ずっとこの重みと闘ってきたのだ。
脳裏によみがえるのは、完璧な天使が一度だけ慟哭していた姿。存在しないことになっている歴史の一幕。それなのに、彼はまた、背負う道を選んだ。
何事か、ウリエルが言っている。
理解してほしい、けれど、されたくない――彼の自尊心は、推測であれ己と同じ立場に立たれることを厭うていたのだろう。皮肉にも本当に同じ場所に座ったミカエルには、その気持ちを糾弾すべくもないように思われるのだ。彼が本当に優れていたのは、そして自分を痛めつけるに至った要因は、自ら手を伸ばさなかったこと。差し出された手には首を振り、自分からは決して弱さを見せることがなかった。
もちろん、ミカエルとは生まれ育った環境が違いすぎる。周りの助力を、持てる全てを与え育てよと、目一杯の愛情を受けて育った大天使。劣っているとは言わない。だが、そのために絶対に兄には成りきれないのもまた事実。悔しかった。
「至急、ルシフェルを捜すんだ! 見つけ次第、報告しろ。手を下手に出すと――」
「指揮を執るのは私ですッ!」
控えた天使達が息を呑む。
反逆者を庇ったわけではなかった。これ以上、囲われたままでいてはならないと思った。ウリエル以上にミカエルは焦っていたのだ。ただでさえ多くの仲間が傷ついている。その上でやらねばならないこととは何だ、自分にしかできないこととは一体……。それを考えると、彼はもはや、愛し子であってはならないのであった。
吐気がした。どうあっても逃れられない道だというなら、なんと残酷なことか。
「……すまない、出過ぎた真似をした。お許しを、光の君」
当然のことながら、平静を幾分か取り戻したウリエルは、やや恥じ入ったように頭を下げた。対してミカエルがやっとのことで首を振ると、苛烈な《地》の大天使は、険しい表情を一瞬さらに昏くさせる。
「……少し気になることがある。ちょっと、出てくる」
その顔を見て、天使らは一様に銀髪の天使を思い出したのだが、予想は的中することとなる。