Warfare (2)
「……アシュタロス」
静かな主君の声は風に掻き消されることなく彼女の耳に届く。自らが巻き上げる土煙に紫苑の目を細めつつ軽く見上げると、すぐ隣で肩を並べるように飛行する大天使の姿がある。
大天使。
もうその責務を完全に取り戻すことはできないだろうに、彼も、彼女の翼も、未だ純白の輝きを帯びていた。己が天使ではないことなど、自身がいちばんよく理解しているというのに。これも《絶対》の御心なのだろうか。
「どうなさいましたか」
衣を風にはためかせ、凄まじい速さで城を目指しながら問う。彼らがいるのは部隊の最前。強大な能力を秘めた《愛されし御子》――彼らこそが突破口を開くための統率者だからだ。
背後から迫る雪崩のような音は、味方の軍勢だとわかってはいても恐ろしい。その覇気、吼え声、羽ばたきまでもが巨大な波となり城へ襲い掛かろうとしている。天界に、牙を剥こうとしている。
対する向こうの天使達は漸く動きだしたところか。宮殿が慌ただしく“揺れている”のが遠目でもわかる。奇襲は成功と言って良いだろう。
あと僅かすればいよいよ激突する……そんな時。軍勢を先導していたはずのルシフェルが速度を落とし、アシュタロスの横につく形で飛びながら彼女に話し掛けてきたのだった。
「そろそろ私は“行く”。言ってある通り、ここからはお前に指揮権を預けるが……良いな?」
アシュタロスは悟られない程度にそっと顔を歪ませた。
その実、個での行動が最も向いているのは彼なのだ。この先は単独行動。だから彼はどの部隊を率いることもしていない。総帥、という立場に在るだけ、その力を以てすればひとりでかなりの戦果を上げられることは確か。
一騎殲滅。彼がそんなことをしないのは承知している、けれども。やはり自分達は不要なのか――少しばかりの懸念が胸の内を掠める。
「……わかりました。どれだけの力をお出しになるのか見当もつきませんが……」
「私の相手はただひとり。それ以外は、眼中にない」
「ええ、それはよく。どうか……どうか、お気を付けて」
「心配は無用だ。お前達も無理をするなよ」
緊張が最高潮へと達する戦場の只中で、彼は何故か穏やかな微笑を彼女に見せた。
止めなければ、と。どうしてだろう、主君の意向に今回は背かねばならない気が彼女にはした。《戦神》は知る。命を懸ける先に笑う者は、全ての執着を殺した者。清廉、からは程遠い。ただひたすらに脆い虚飾で固められた、虚無。
しかし彼女は何も言えなくなってしまう。そんな忠臣の顔から何を読み取ったのか、長は黄金の巨翼を広げ、言った。
「生き延びよ、アシュタロス。次に会うのは祝いの席だ」
土色の大気の中、美しい翼を優雅に羽ばたかせ。彼は忽然と姿を消した。
ご武運を。彼女が呟いた祈りは、反逆者の祈りは届くのだろうか。
「――アシュタロス!」
次に飛んだのは強い声。厳しい響き、けれどそこに信頼を読み取らなければ嘘だ。
首を巡らした先ではベルゼブブが彼女へ視線を送っている。彼もまた指揮が交代したのは見ていたはず。うなずき、《戦神》は背後の同胞へ指示を叫んだ。
「ベルゼブブ様の部隊は左へ進路を! マルコシアス様と私の部隊は正面、陽動後に横へ展開! ベリアル様の部隊は我々の後ろに! メフィストフェレス様、援護を頼みます!」
***
「……さァってと」
予想通りの大混戦、白と茶と銀が入り乱れた戦場を見下ろしてベルゼブブは飛行の速度を緩やかに落とした。少数精鋭を引き連れての離脱……とは言うものの本当に離脱したわけではなく、彼はただ遥か上空からひとりの天使を探していたのだった。
ベルゼブブの背中には身の丈ほどの長い武器の柄が見える。兵士達も防具と剣は装備している。が、未だそれらに手をかけるには至らない。彼らがこれだけ余裕を持っていられるのも下で戦っている仲間のお陰。人数を考えればお粗末な陽動ではあったが贅沢は言っていられない。幸いにも《神軍》の意識はこの小隊には今のところまわっていないらしい。使命は足止めのみだったが……彼としても早く決着をつけ、仲間に加勢したい気でいっぱいだった。
「うん、よし、てめえら」
しかしいくら敵の姿が近くに無いからといって。
「オレァひとりで充分! 下に行ってマルコ達の援護しな」
「えぇ?!」
「は?!」
部下を、貴重な戦力をわざわざ手放す必要がどこにあろうか。居並ぶ十数の天使達の困惑は最もなことと言えよう。
「も、もちろんベルゼブブ様のお力は重々承知しておりますが……!」
「我々も共に戦います!」
対してベルゼブブは微妙な表情で頬を掻く。彼にも部下の気持ちは痛いほどよくわかっていた。それでもひとりにならねばならない理由……それは。
ざわり、と不自然に空気が揺らめく。
その場を支配せんとする圧倒的な力。思わず口をつぐみ硬直した大勢の天使達と、口元を歪め顔を上げたひとりの天使。
ただの気ではない。そこに在る“風”を一瞬で掌握した、《世界》と繋がれた者が纏う気。その気配は《蒼氷》色。
「向こうさんがひとりだからなァ……大勢で攻めたンじゃ、公平じゃねェよな」
上級天使ベルゼブブの不敵な笑みが引きつるのも無理もない。
彼らの更に上空。嫌味なほど澄んだ蒼を背後に、大天使ラファエルがその巨大な翼を広げていた。
「ベルゼブブ……」
ラファエルは自分を見上げてくる天使の名を吐息と共に吐き出した。涼しげな色の眼差しは慈愛より、悲哀。
「《代理》たる気高き天使に問う。そちらの正道は、これか」
目的ではなく、正道。面食らったベルゼブブだったが、肯定するまでに思考の時間はわずかも要さない。
ラファエルは更に声を落とし、静かに天使の一団を見下ろした。
「ならばこれが、ルシフェルの意志なのか」
「……ああ」
「本当に……」
居並ぶ天使達は思わず息を呑む。宙に静かに佇む大天使の顔が、その憂いに満ちた表情が、あまりにも美しくて。彼が握ったことで止んだはずの風が、蒼銀の髪をそっと揺らしていったような気が彼らにはした。
だが大天使は、良心に訴えかけるために出向いたのではない。
「かつての同胞を……仲間の存在を……“抹消”することが、彼の信じる道かっ!」
抹消? ――ラファエルの叫びに、ベルゼブブは内心で訝しんだ。確かに王の能力があればそれは可能なことだ。しかし何より彼自身が無駄な争いは避けるように、“駒”は減らさぬようにとベルゼブブ達に命じたはず。その彼が“消す”、となれば……
「……ミカエルを、か?」
既に悲劇が起きたのか? あり得ないと思いながらもベルゼブブはつい口に出してしまうが。
やはり風が運ぶのか、微かな呟きを耳に入れたラファエルは逆に押し黙る。ただ目を見開き、ベルゼブブをまじまじと見つめた。
「まさか――否、そう、か……知らされていない、と」
ラファエルはひとりうなずく。そして疑問は解消したと言わんばかりに、流れる動作で虚空に手を滑らせた。途端に再び大気が揺らぐ。現れたのは小さな風の渦達。その数、十余り。
風向きという生易しい変化ではない。大気が、ひとりの天使の意志の下に動いている。
「よくわからねェが……オレはオレの役目を全うするだけだ」
そう言ってベルゼブブが背中から引き抜いたのは剣ではなかった。身の丈ほどもある長い筒のような――棒術具。くるりと器用に回して先端をラファエルへ向ける。
「アンタはオレが止める」
「……では、俺は《光》の命を実行することにしよう」
元来、ラファエルは戦闘要員ではない。剣を使うことはなく、故にベルゼブブにも幾らか望みがあると言えるかもしれないが。
「《ヴォルテクス・……》」
しかしラファエルは風を操る。その軌道を読むことは不可能だ。何故なら自然に反して真空を作り出しでもしない限り、そこにいるだけで既に捕らえられたも同然なのだから。
「《……ハール》!」
ラファエルの言に一斉に風の渦が射出される。身構えたベルゼブブには当たらない。狙いはその後ろ。
「なっ――?!」
完全に予測を誤った。頬を掠めた風刄の標的を彼はようやく悟る。
「ツァイっ! ネルドっ! リヒャルトっ!」
叫ぶのは部下の名。竜巻は悲鳴もろとも巻き込み、力無き兵士達を遥か下の地へ叩きつける。ラファエルの狙いははじめから彼らであったのだ。不意討ちを、奇襲した側が咎められるはずもない。しかもこれは完璧な油断が招いた一撃。
と、ここでベルゼブブは致命的な失態を見せた。仲間を助けようと腕を伸ばし……大天使に背を向けてしまったのだ。
「――うあぁっ!」
突如として翼にはしった痛みにベルゼブブは身を反らす。その拍子に棒術具から手が離れた。
「“留める”のは俺だ、ベルゼブブ」
見れば白い翼には白金に輝く糸が絡み付いている。その糸の先は大天使の片手。彼の力加減で巨翼は簡単に切り裂かれるだろう。
「こンの……っ!」
ベルゼブブは歯を食い縛り上半身を捩る。満足に背後の見えぬ状態から無理矢理に光弾を飛ばす。
ばちん、と弾けた音と共に糸が切れる。
勘にしては正確。これもひとつの才能か、一発で糸を断ち切り瞬時に離脱した敵を、ラファエルは深追いすることもなく空中に佇みながら見つめていた。
「くっそ……!」
忌々しげに翼を一振りしたベルゼブブは、何より己にいちばん腹を立てていた。ラファエルが攻撃を止めなければ一瞬で決着していたことも充分に考えられる。大して使う気がなかったにしろ武器を手放すなどあり得ない失敗であるし……と眼下を見やり、たかが一本の剣を見つけようとするのさえ馬鹿馬鹿しいほどの混戦に息を呑んだ。
ふと彼は気が付く。――どうしてこの大天使は止めを刺しに行かない?
「アンタ、なんで……そっちはオレらをどう見てンだ……?」
「見逃されるとでも思うか、ベルゼブブ? 俺は生憎と剣は不得手だが、放っておいたとしても下の彼らが断じてくれるだろう。今ここでの俺の任務は、恐らく君と同じだ」
《絶対》の意志、新たな“長”の決断。《神軍》天使が行うのは戦ではない、主の御許で為された最大の不敬に罰を与えるために剣をとった。
「君はここで止める。《癒す者》ラファエルの名に誓って」
ラファエルの巨翼が薄蒼の光を帯びる。
天界にたった四名の大天使。それがわざわざ出向き、ひとり相手をすると言っているのだ。不足どころか贅沢過ぎる一戦、ベルゼブブは指揮権を握ったあの兄弟にむしろ感謝せずにはいられなかった。
感謝。当人は認めないだろう、気付かないだろう。天使でありながら戦闘に歓びを見出だしているなどとは。
「オレも“証”を立てなきゃならねェ」
銃形にした指を蒼の天使に突き付ける。へへ、と天使らしからぬ笑いを洩らしつつ狙いを定める。
その指先に力が収束するのを見、ラファエルも無言で再び竜巻を周囲に展開した。大天使は静謐な表情の奥に何を思うのか。その目はひたと反乱者を見据え、そして見返す愚者は狂気に笑う。
「いざ、尋常に勝負!!」