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Warfare (1)

 彼は《慈母》の護衛だった。

 他の主従と同様、彼も仕える天使のことが大好きだった。憧れにして永遠の――大天使に対してそんな感情を抱いて良いのならば――恋慕の対象。叶わないからこそ形となって収まっている想いは、これがひとつの幸福の有り様だった。

 

 ――“ひとりにしてくれないかしら?”

 

 寂しそうに微笑んで彼女はそう言った。

 その憂いの理由など、痛いほどに承知している。

 平和な日々は何処へいってしまったのか。ひとつ、またひとつと光が消えていく。異様な緊張が高まる中でもたらされた報せは、信じ続けた彼らに甚大な苦痛を与えた。

 あの偉大なる《光》は潰えたのだ。

 ならば今の己にできることは。彼は自問する。愛する《慈母》の傍で、どうかその支えに。

 

 《カタン――》

 

 彼は彼女に想いを馳せる。薄い扉を一枚隔てた向こうから、何か硬いものがぶつかる音が聞こえてきた。

 何をしているのだろう?

 静か過ぎる宮殿の廊下、部屋の前にひとり控えた彼は耳を澄ます。

 次の瞬間。悲鳴が、響いた。

 

「っ! ガブリエル様っ?!」

 

 把手に手をかける。鍵が。叩く。思い切り。

 

「ガブリエル様っ! どうなさったのです?!」

 

 返事はない。何度目の挑戦か、とうとう彼は扉を破る。

 

「ガブリエル様っ――」

 

 別段、何かが侵入した痕跡も事件が起きた形跡もない。窓は閉まったままだし、物の配置は微塵もずれてなどいない。

 けれどもその代わりに。

 

「あ、あ……!」

 

 彼女も、消えていた。

 

 何者に悟られることもなく訪れることができる“天使”を彼はひとりだけ知っていた。何故なら以前よくその天使は彼らのもとへ唐突に現れては、ガブリエルに怒られて苦笑していたから。

 

 ――“もうっ、びっくりするじゃないの!”

 ――“ふふ、すまない”

 

 あの明るい日々。思い出すのは美しい天使の、甘やかな香り。そう、今この場にある残り香に似た――

 

 彼は叫ぶ。憧れた彼女の消失がもたらした痛み……瀬戸際で正気を保った彼を大天使達のところへと走らせたのは本能と、絶望。

 確信はあった。そんな事実は知りたくもなかったのに。

 最後に聞いた彼女の悲鳴。彼女は確かにその名を叫んでいたのだから。

 “やめて、ルシフェル!”、と――。

 


 

***

 


 

 絶句とはこういうことを言うのだ。

 ミカエルは脱力した身体を椅子に収め、震えた。頭は熱いのに手足は信じられないくらい冷たい。こんな状況で、伝令を運んできた天使にきちんと休息の指示を出すことができたのは奇跡に近かった。

 あのガブリエルの従者。彼はミカエルに言の葉を伝えると、唐突に絶叫し、暴れ、そして卒倒した。控えていたミカエルの従者が暴れる彼を即座に床へ押さえつけ、気絶した後は治療師のところへ連れていったのは良いものの。

 

「兄さま…………」

 

 呻き、ミカエルは天井を仰いだ。込み上げる吐き気を必死に飲み込む。

 

「兄さま……!」


 ガブリエルが、消えた。

 消えた。何の罪もないのに。否……罪があったとしても消滅は、あまりに。

 しかも。為したのは主ではなく、ただ一天使に過ぎぬ、彼。

 権利は必ずしも行使する義務はない。暗黙の了解は了解ではなかった? ――陳腐な思考。ミカエルは唇を噛む。憎しみではなく、現実が儘ならないことからくる怒りだった。

 どうして、どうして、どうして。問うべき相手はもういない。「ずっと愛している」――その言葉を残して消えた彼は帰って来ない。

 きっと何か考えがあってのことなんだ……これでそんな言い聞かせもできなくなってしまった。現に、大好きな仲間が消されたのだから。

 時を戻せば、いいのだろうか? 戻って、彼女を護れば?

 ――無理だ。

 ミカエルは大きく息を吐いて蹲った。体を抱き締めても震えが止まらないのは、それが彼の腕ではないから? 時間を止めて、歴史を変えて。そんなものは解決でも何でもない、その場しのぎにさえならないかもしれない。彼の心は、変えられない。

 また、間に合わなかった。事が起きるまで、追い詰められた彼が後戻りできない場所へ行ってしまうまで。

 できることならとっくに現実(いま)を見捨てている。どこまで戻せばいい、いつから変わってしまったのか。いくら考えてもわからなかった。わからない以上、不用意な行動を決断することもできなかった。

 

 乱暴に扉が叩き開けられ、ミカエルは初めて顔を上げた。息を切らして戸口に立つのは、見たこともないほど歪んだ表情をしたウリエルだった。

 

「許されるはずがない」

 

 ウリエルは言った。

 

「俺は、許さない」

 

 今この場にひとりであったなら、やるべきことが何もなかったなら、ミカエルは大声をあげて泣きたかった。

 儘ならぬ運命を、どうしようもないと理解していたとしても、呪いたかった。

 吼えるウリエルの唇の動きをぼんやりと眺め、やがて肩を叩かれて身を強ばらせたミカエルが見たのは、蒼い天使。いつの間にか、ラファエルも駆けつけていたのだ。

 

「ミカエル」

 

 呼ばれた名に込められた意志。ミカエルは思い出す。自分は、弟であるが、同時に。

 残された道。最善なのかはわからないけれど、それでもやらねばならないことがある。

 

「ミカエル。俺も剣を取ろう」

 

 強大な力を持ちながらも武闘派ではなかったラファエルでさえ剣を取った。

 問われているのだ、決意を。

 甘かった。今更ながら、本当に今更ながらミカエルは思う。信じてくれと、ついてきてくれと言っておきながら、とうとう最後まで覚悟を決められていないのは自分ではないか、と。“この反乱は戯れではない”のだ。彼女が消えた責任はこちらにもある。向こうが叩きつけてきた決別の証、悲劇が現実になってからようやく気付かされて。

 怒りに身を任せるのは愚行だと彼は充分に理解していた。だからこそ指示は冷静に出すことができる。思いは全て、握りしめた両手へと詰め込んだ。

 

「……作戦を変更します。至急、会議を。上級天使達を召集してください。私はその間に《天意の間》にて祈りを捧げます。《神軍》に配給する武器に“祝福”を施して頂きましょう」

 

 それはただ知識として存在すれど、実現してはならなかった制度。認識上の“禁忌”。目的は同胞を突き放すため、“特別”をその手で刈り取るため。

 

「……では、向こうの天使達を」

 

 大切な我が子を失った母なる主は、《楽園》を守る剣にきっと力を授けてくださるだろう。その剣は一撃一撃が天使という霊体を傷つける絶対の武器となる。

 片や敵のうちでその力を持つのはひとりだけ。つまり。

 

「彼らは許されざる罪を犯しました。私だってこの剣を持っている。……正義は、我らの側にあります」

 

 新たな天使長は勝利へと自ら踏み出したのだ。負けない、のではなく、打ち勝つ。完全なる攻めの一手。――最愛が引き起こした悲劇に自ら終止符を打つ決心。

 

 言葉とは裏腹、深く沈み込んだ長の姿に、ウリエルとラファエルは顔を見合せる。気の猛りも青い怒りの炎もこの時ばかりは鳴りを潜めた。確かに判断は間違っていない、けれども正しいと自信を持つには何かが引っ掛かる……そんな違和感に大天使は口をつぐむ。いずれも、語るべき言葉がわからなかったのだ。

 情に先行する制度――“役割”。

 果たしてこれで良いのか。そこにはミカエルが授けられた剣が絶対的な証として存在する。にもかかわらず僅かに、ほんの僅かに疑問を感じてしまっていることに、自分達自身がひどく戸惑っていたのも紛れもない事実。

 しかし奔り出した刻は止まらない、止められない。

 

 渦巻く様々な思いを内に秘め、それでも唇を引き結び、彼らは各々の役目を果たすためにその場を後にした。

 《神軍》が迎撃を開始する、数刻前の出来事である。


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