第5話:決別
【Side-Girl】
応接室のような部屋で一人で暫く待っていると、複数の足音が近づいてきた。静かだったからすぐにわかる。
「ここで良い。控えていろ」
「はっ!」
低い声、レムレースさんとの応酬。よかった、誰か知らない人だったらどうしようかと少しだけ緊張していたんだ。そして開けられたドア。
「ルシフェル!」
ひょっこり覗いた端正な顔がふと緩む。
「ただいま」
駆け寄ると、ルシフェルは静かに笑ってそう言った。見たところ、どこも怪我はないみたいだ。
「お帰り。良かった、無事で」
「当然だ。私は堕天使長だぞ」
変わらない台詞に思わず笑う。得意気に軽く胸まで張って、なんだか子供っぽいところも微笑ましい。颯爽と軍馬に飛び乗って駆けていった人物と同一であるとはとても思えない。
「逃げた馬って、大丈夫?」
「ああ。今レムレース達が現場へ向かっている。幸い、アスモデウスが足止めしてくれていてな。これといった被害はなかった」
アスモデウスさん……ああ、あのルシフェルのことが大好きな、金髪金眼の悪魔さん。ちゃんと仕事してるんだ、と失礼ながら感心してしまった。あの妖しい美青年についてはデートに全身全霊を懸けていた印象が強烈すぎる。あと浮気性なイメージと。とはいえ彼も幹部の一人だそうだから、やっぱりやる時はやるんだろう。
大したことがなかったと聞いて安心したあたしだったが、堕天使長はちょっと困ったように頬を掻く。
「だが少し用事ができてしまって」
「用事?」
「そう。私も働かなければ」
ということだから、と続けて。
「真子は先に戻っていてくれ。いつ片付くかわからない」
え、先に? 初めてじゃないかな、こんなこと。まあ、でも別に。
「いいよ」
あたしに言わないだけで、本当は大変な事態だったんだろうか。ルシフェルまで居残りして事後処理にあたらないといけないなんて。……いやいや、最高責任者なんだからこれが普通か。どうにも放蕩魔王様に慣れてしまっているものだから、つい。
「夕飯までには戻る」
「うん、待ってる」
すぐに転移させるのかと思って待っていたら、何故か彼はちょっとの間、無言であたしを見つめ。どうしたのかなと突っ立っていると、不意にあたしの方へと両腕を伸ばす。
怖くなかったと言えば嘘になる。またこの間の出来事のように奇妙なことを言い出して、あたしを力尽くでどうにかしようとするのかと思ってしまったから。
「……?!」
でも、その予想は外れた。
気が付けば、ルシフェルの腕の中。締め付けることもなく、いっそ弱々しいと評してもいいくらいの強さで彼はあたしを包み込んでくれた。
「な、なにひて、」
……「何してるの」と言いたかったのだ。もごもごと、黒衣のせいで籠った声で問いかける。
いや、顔が彼の肩に当たって口元が布に塞がれそうだったからだけではなく、単純に恥ずかしくて舌が上手く回らない。これは抱き締められてると言っていいのでしょうか。ルシフェルさん、本当に何をしてくれているのでしょうか。
しばらくそうした後(実際にはそれほどの時間ではなかったのかもしれないが)、最初よりもゆっくりと腕が解かれる。
「……すまない。なんだか無性にお前を抱き締めたくなったんだ」
「はッ?!」
あっさりとあたしを解放し、彼は何のてらいもなく言った。て、照れるでしょうがっ!
ひたすら何も言えずにいるこちらとは対照的に、張本人は余裕顔でふっと笑って手を挙げた。
反応を見て楽しんでいるのかと思いきや、どうやらそういうわけでもないらしい。ただ、優しい表情をしていた。気合なんていうものを優雅なる堕天使様に求めはしないけれど、気力がないような、どこか諦念漂うこの笑みもいまいち見たくはない。
嬉し恥ずかしではあるものの、ちょっと変な態度に違和感と不安。いきなり抱いたりとか、この前の部屋での出来事もそうだけど、何を考えているのかまるで読めない。好いてくれているのだと能天気な解釈はできないくらいに彼の様子はどこか不自然だったし、行動の理由を推測するためには彼自身のことを知らなさ過ぎる。
「ではな、真子……」
「あ、あのさっ!」
「ん?」
指を鳴らしかけて、やめる。不思議そうに首を傾げる様子は、いつもと同じ。だけど。
「帰ってくるよね?」
帰る。彼の家は人間の世界にあると、確信したような言い方に自分で苦笑い。それでもあたしはちゃんとした言葉が聞きたかった。ただ自己満足で安心したいだけなのかもしれないけど、どうしても我慢できなかったから。
「ああ、帰るさ。絶対に」
“絶対”。そう言った。ならとりあえず安心だ。この堕天使様は約束を破らない。
あたしが納得したのを見たのだろう、今度こそルシフェルは指を鳴らす。
「後でな」
「うん。気を付けて」
周囲が白くなっていく中で、返事が届いたかどうかはわからない。
***
【Side-Boy...?】
「…………」
行ったか。
彼女が地上に戻ったことを確認した私は踵を返し、部屋を出た。
……しかし変な気も起きたものだ。あんな感情は久々に抱く。まして無意識の衝動など……以前も彼女の家で先走った己に動揺し嫌悪感まで抱いたというのに。この手は、体は、如何に安息を求めているというのだろう。
「殿下、どちらへ」
「少し出かけてくる。ベルフェゴールに伝えておいてくれ。そして真子の面倒を見てくれて感謝する、ともな」
「承知致しました」
宮殿を出て、ひとり、街の中を歩く。
こうしてひとりで都を廻るのはいつ以来か。特に最近はずっと隣に彼女がいた。いつも隣で笑い、私の心配をしてくれる少女。
最初は、偶然だった。偶然地上へ行き、偶然彼女を見つけた。今でも言葉にすることが出来ないあの感じ、初めて彼女を見つけた時の奇妙な……いわば、興奮。別に見逃しても良かったのだ。人間ひとりがどんな運命を背負っていようが、私には関係のないこと。
では地上に留まろうとしたのは何故?
同情? 違う。
興味? それだけではない。
料理? ……それも、あるけれど。
違う、もっと、根本的な何かが。私の過去が、彼女の未来が。
――これも定められていたことなのですか、主よ。
貴女が未だ箱庭を見捨てておられないのならば、子に救いの手を差し伸べてくださるのならば。堕ちた者を、まだ愛してくださるのならば。……願わくは、小さき者にお答えを。
そんなことを祈らずにはおれないあたり、私にはやはり、過去への未練があるのだろう。
わかっている。現状を打破するのに最も手っ取り早いのは彼女との縁を断ち切ってしまうことだ。だが一度交わった運命をなかったことにすることはできない。いくら歴史を書き換えようと事実はそこに存在し、変えることは不可能なのだから。
まして、短時間に言葉を交わしただけで、姿を目にしただけで。あっさりと覆る私の決意など、一体何の役に立つというのだろう。
実際、彼女を見るまでは私はアスモデウスの言に従うつもりでいたのだ。少女がひとり消えることで安寧が得られるのなら、どれほど私自身が悲しい思いをしようと構うまいと思っていた。
しかしそれはもう叶わないことがわかった。やはり、駄目だった。大義のために小さな個を見捨てる……それは昔の過ちに通じるところがある。同じ轍を踏むなど、最高傑作にあるまじき失敗ではないか。そして何より……彼女を救いたいと、私の心が叫ぶのだ。
もう二度と、大事なものをなくしてたまるものか。
何とかして彼女を生かしたい、そう願ったのはいいが。不幸にして、我々には出会った時から猶予が残されていなかった。
どうしたら、どうしたらうまくいくのだろう――。厄介なのは私にも彼女にも、それぞれの事情に別々の悪魔が絡んでいるという点。下級悪魔なら脅しつければどうにかなったかもしれないが、そうはいかない。彼女を縛る悪魔と争うには、そして勝つためには、こちら側もそれなりの覚悟が必要になる。なんといっても私が存在を掌握できない、最悪の相手であるから。
そう、真子をあの最悪なる堕天使から解放できさえすればいいのだけれど。
或いは彼女の“器”を破壊して魂だけ地獄で練り直せば、きっと共にいられるが……果たしてこれは万魔殿の禁則事項だったか? ずっと昔にあのベルフェゴールが、惚れた娘にやろうとしていたくらいだから平気か。否、あれもなかなか直情的な面があるからな。
まあいい、この都市の規則に過ぎないなら私の一存でどうにでもなる。世界の“決まり”でないのなら、取るに足りぬ。
しかしこちら側、地獄に彼女を連れてきたとして、だ。彼女を縛るあの悪魔の追撃は避けられるか? ……ああ、彼らの契約内容には相違ないからいいのか。間違いなく契約書に記された内容――“彼女が死ぬこと”に反してはいない。
問題は、あの悪魔が死をどう定義して契約したかだが……。否、待てよ。そもそもが“魂を繋ぎ止めること”への力の貸与だったのだから、肉体と精神が切り離された段階で奴と彼女の関わりはなくなるはず。とすれば、この方法はやはり間違ってはいない。
何度もなぞった思考は、いつだって答えに辿り着けずに終わる。
だが今回は新たな要素、証拠がある。万魔殿の壊れていた結界、脱走した軍馬。あれに手を出したのは間違いない、彼女を縛る堕天使だ。
だが、ならば尚更、奴は私と……殺し合いを望んでいるということになる。
時が来て契約が果たされれば彼女は死ぬし、その前に私が地獄へ連れ込んでも生を終える。契約の早期達成を嫌がるわけもなし、対価を奴は得たのだから黙って引き下がることに不利益はないはずだ。私と奴が契約を争わずとも奴の契約書の内容は果たされる――むしろ私は手助けする方向に動こうとしている――というのに、あの堕天使、わざわざこちらを挑発するような真似をしてきたということはつまり、そういうことなのだろう。
届くはずもないとわかっていながら、心の中で奴に語り掛ける。私はお前に“門”を任せたこと、後悔はしないつもりなのだが、なぁ。お前はいつも少しやり過ぎるのだ。
ため息を吐き出す。懸念は、そればかりではなかった。
刹那の生を辿る者が、何を幸福とするのかが私にはわからなかった。彼女はどうしたい? わからない。社会との繋がりを保つこと、友と共に過ごすこと、――親の願いに応えること。一体どれと釣り合うんだ、彼ら人間の生への願望は? 己の命のためにどれなら捨てられる? 何かひとつでも彼女が悲しむ要素があるのなら、彼女を“殺して生かす”ことは正解ではないのではないか? 本人に伝えられれば正解は得られるのかもしれない。だが……よもや、これほど惨い事実を本人に言えるものか。
怖い。
この私が、踏み切ることができない。二度も過ちを犯すわけにはいかないのは勿論……ただ……彼女の幸福に私がどこまで踏み込めるのか、それが気になっていた。地獄に連れてきた彼女を、私が永劫縛ることになるのだとしたら、彼女はそれをどこまで望むだろう? とおい未来にもしも彼女が「疲れた」と言ったなら――我々でさえ厭わしい時があるのだ、悠久の生は――その時、私は彼女をまた手にかけることができるのだろうか? ……迷っている時点で答えは明確だが。
これはきっと私の我が儘。と、ほんの少しの……義理、のような?
生かしたい、けれど、彼女の望む幸福の形がわからない。ひょっとすると手を引くべきは私の方か? 彼女が自分の生を手に入れた暁には、我々のことを忘却してしまった方があるいは幸せなのかもしれない。日常を返してやるべきなのかもしれない。それは私にとって痛みを伴う決断ではあるが、救われるのなら、致し方のないこと。
とはいえ。いずれにせよ、この都市に手を出された以上は黙っているわけにはいかない。それとこれとは話が別。私には彼女以外にも守るべきものがあるのだから。
街を抜け、森へ分け入る。木立を背に、整備された道を再び踏む。
幾つもの命。幾つもの灯。
これが、私の守るべき世界。この場所を失うわけにはいかない。
最後に戻ってきた宮殿。その庭の外れにひっそりと佇む、石造りの小さな塔。見た目はまるで廃墟だが。この塔が万魔殿の最重要機関であるなど誰が思うだろう。
――これで私の罪が軽くなるのなら。
全てを終わらせる時が来た。私は全てを終わらせ、全ての灯を守るのだ。彼女を含めたこの世界を守ったなら、必ずや完全への一歩となるはず。
――お前は、また泣くだろうか。
一瞬よぎった金色の影を頭を振ってやり過ごし、ゆっくりと塔の入り口に手をかけた。