Treason―Regalia
唯一無二の【王位の印】。先の王が帰る場所は、もうない。
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《光》もいない、《代理》もいない、《戦神》もいない。少年も紳士も騎士も、予言者も紡ぎ手も。全てが姿を消し、遺されたのは胸騒ぎの種が一粒。芽吹くや否や急速に天を目指し伸びていく種が、一粒。
覇気の欠けたような大天使達の集い。定例の使者の言葉にも彼らはどこか上の空であって、思い思いの方向へと意識の腕を伸ばしていた。
「……ガブリエル、ウリエル、ラファエル」
そんな中で空っぽの上座をぼんやりと見つめながら、ミカエルは静かに口を開いた。全てを見下ろす席が埋まらなくなったのはいつからだったろう。本来なら、空いたその席には彼が座るべき局面。けれど彼は断固として首を縦に振ろうとしなかった。そこに在るはずの天使を待ち続けた。
「誰かを愛するということは、後天的な鎖ではありませんか」
無論、彼らがずっと何もせずに手をこまねいてばかりいたわけではない。調べた、探った、飛ばした……この広い天界、困難ではあれど不可能ではないはずだった。大所帯であろう反乱者達の居場所を特定することは容易いはずだったのだ。
たが向こうには《戦神》がいる、上級天使達がいる。彼らが協力して結界を展開していたならば破ることは非常に難しい。不可視の結界――必要なのは繊細さ、そして経験。組み立て方を誤れば非常に脆く崩れ易い壁ではあるが、しかし逆に技能に特化した者が展開する強固なものは、大天使達の力さえも阻むことが可能だった。そうでなければ“役割”には繋がるまい。
「我々は天使です……ねえ?」
問い掛けというより呟き。或いは、彼が問い掛けたい相手はもうここにいないのかもしれなかった。小さな愛らしい笑い声が虚しく響くが、それを訝る者はない。若き大天使の内にある葛藤、答えを与えられるのは今となってはひとりだけ。
そして、同胞も知らぬ間に答えは出ていたのだった。
「これを」
そう言ってミカエルは円卓の上に一振りの剣をのせた。それは彼が会議の場に珍しくも腰に帯びて現れたもの。緊張が高まりつつある宮殿内で帯剣することを不審に思う者はなかったのだが。
目の前にそれを示され、大天使達は思わず息を呑む。いつもミカエルが扱っていたものではない。どこかで目にしたことのある装飾、記憶になくとも本能的に悟るべき剣の銘。そこに託された想い。唯一無二であったはずの、切り札。
「《神の光》……」
吐息混じりに漏らしたのはラファエル。触れてみたいという好奇心はあった。けれどその憧れを抑えるのは圧倒的な畏怖。
創り主のいわば分身、末端。それを握ることが許されるのは《光》たる審判者のみなのだ。裁く権利の片鱗。特別な剣はひとつの証でもある。
「兄と“同じ”剣です」
それが、
「ザドキエル――いえ、主が、下さいました」
それが意味するのは。
「……ミカエルに?」
わかりきった確認。ガブリエルが願うのはどちらであったろうか。
“選ばれた”天使はうなずく。
沈黙。されど四者の目線を受けた長剣の存在自体が解答であった。
長く彼らが持て余し続け、ともすれば結論を先延ばしにしていた危機。見兼ねたか或いはそもそも決まっていた時機が来たからなのか、やはり言葉は降ってきた。
「……断罪が、主の、」
ウリエルの言葉は続かなかった。無愛想だ、気が強い、と揶揄され続けた彼でさえ語尾を揺らがせる。
悲劇が始まるのだ。
そこに横たわる酷な宣告。《絶対》はかの長から“名”を剥奪した。
先に裏切ったのは果たして。そして長は、あの友は。彼自身の“最愛”に、切り捨てられた――。
「我々の使命は天界の守護」
最も落ち着いていたのは“ふたり目の最愛”。とうに結末など予測できていたのかもしれない。頭で理解していたのかもしれない。ただ一歩を踏み出すことが、怖くて。背中を押したのは目の前の剣であり、皮肉なことに討つべき相手の願いだった。
「我々は楽園を背負っている。道を過つ者あらば、善意と愛で以て、導いてやるのが我々の役目なのです」
説くと同時に己を納得させ、小さな彼はかつての温もりを思う。幸せな日々。願った。いつまでも続きますように、傍にいられますように。喪失を前提とした願望……自分が視た未来の筋書きは、結局変わっていなかったのか?
ミカエルはもう一度、残った仲間を見回した。過去の兄も上座から同じように仲間へと慈愛の眼差しを向けていたのだが、その時ミカエルはまだ広い背を追うばかりだった。今も追い付けた自覚はない。けれど主は、彼に託した。
いつからだろう。いつから、変わってしまったのだろう。
「兄さま」、小さな大天使は再度呟く。「僕が、迎えに行きます」――優し過ぎるその声は他の天使達には聞こえない。
「ガブリエル、ウリエル、ラファエル。私についてきてくれますか?」
「……それは、任命されたのはミカエルなのだから――」
「いえ、それだけではなくて」
静かに金髪を揺らした美しい天使は新たなる天界の長であり、《神軍》の指揮権を持ち、《火》の座を与えられた大天使であり、《光》と呼ばれるに至った強大な実力者であり、
“反乱者”の唯一の弟であった。
「“僕を”信用してくれますか?」
愛した、いちばん近くにいた、誰よりも抱き締めてもらった、何度も口付けを交わした、優しい言葉を囁いた、たったひとりの。
仲間はそれに頭を下げることで応える。若く、経験も浅く、それでも生まれながらにして定められていた御子。彼を新たな長として認めた。
「もちろん、仰せのままに――《光の君》」
「ありがとう……っ」
顔を歪めた天使長は、泣かない。すう、と目を閉じ深呼吸を一つ。
示すべきは微笑みではなく。
箱庭に安寧をもたらす同胞には道標を。
そして、かつての心を喪った哀れな御子には断罪を。
再び蒼眼が開かれる。それまでにない強い光は責を負った長が見せる眼差し。無意識のうちに身体を緊張させた大天使達に向け、彼は小さく、しかしはっきりとした声で、言った。
「《神軍》に戦の用意を。――裏切り者を、裁きます」