Treason―Repentance
【後悔】は振り返らねばできぬものなのだ、だから語り手は大いに弁を振るう。
***
背後を振り向く少年を、更に紳士が振り向いて見る。何度も何度も同じことを繰り返す。
後ろに見えるは自分達が通ってきた小径と、鬱蒼と茂る青暗い木々のみ。大きな“荷物”を抱えた少年は立ち止まりかけては足早に進み、前を行く紳士と並んでは振り返り。
何をそんなに気にしているのか。とうとうメフィストフェレスは足を止めた。かつん、と名残に杖が地を叩く。
「どうしたんだね、ウァラク君?」
咎める風ではない。ひょっこりと少年の背後を爪先立ちで眺める。
はっと顔をあげた金髪の天使はみるみる頬を染め、ばつが悪そうにちょっとはにかんだ。
「ごっ、ごめんなさい! 急がなくてはいけないですね」
強く両腕の中のものを抱く少年は伝令役。言葉も物資も情報も、あらゆるものを繋ぎ、運ぶのが仕事。
彼らはただ今運送中。お仕事ですから、と主張するウァラクに渋々“荷物”を持たせて、紳士メフィストフェレスは護衛役。中身はとても重要なもの――誰にも悟られないように、わざわざ飛行せず歩いて届けるよう命じられるくらいに。
固く巻かれた布を取り去れば、つい先頃鍛えられたばかりの立派な剣が顔を見せるだろう。しかしそれを初めて目にするのは、この山を越えた先に待つ彼らの主君である。
天界一の剣の使い手は、長きを共にした愛剣を別の場所へ置き去りにしてきたのだという。想いの込められたその特別な剣を今の彼が扱おうとするはずもなく、よって新しい剣を用意することになったのだった。そして運送を任されたふたりは、武具の製作に長けた天使の工房から帰るところなのだ。……ちなみにかの《鍛冶屋》は未だ立場を明らかにしておらず、弟子に技術を伝えるまで合流は待って欲しいとのことだった。それも主に言わなければ。
「んー?」
そんな道中でウァラクはしきりに後ろを気にしていたのだから、メフィストフェレスが不思議に思うのは無理もない。
彼らも“選択”した天使達。白亜の宮殿には、帰れなかった。
「何も見えないが……。君のお友達かね?」
お友達。ウァラクという天使は蛇や蜥蜴といった生物と非常に仲が良かった。鳥獣の声を聴く天使は他にもいたが、殊にそれらに関してウァラクの右に出る者はない。
しかしそういえば、とメフィストフェレスは気付く。こんな森の中を歩いていても、少年の友達は一度たりとも姿を見せなかった。普段なら森に帰してやるのが大変なほど寄ってくるというのに。
「いえ……みんなも、逃げちゃいました」
「逃げた?」
寄って来ない友達を心配してのこと、ではないらしい。メフィストフェレスはもう一度背後に目を凝らしたが、獣が逃げるほど危険な気配は感じない。
ウァラクは観念したように、それでもどこか困ったような曖昧な笑みで、足を止めたままの先輩天使を見上げた。
「その、変だと思われるかもしれないんですけど」
「ふむ、言ってご覧」
「……声、が。地面の下から声が聞こえるんです」
ぽつんと。少年はそう言った。
「ふむ……」
髭を撫でるのは、考え事をする時の紳士の癖だった。遊ぶように上向いた髭がくるんと巻く。
不安感は確かにあったのだろう、一度話してしまうと自分だけの中に留めておくのは辛くなったか、いつの間にやら少年は至って真剣な表情に。
「地面が流れて動くような大きな命……気配は蛇さんたちに似ているけど、すごく大きな“何か”がいるんです、下に。この森に入ってからずっとそれが気になって。あの気の強いランツ――あ、仲良しの蜥蜴さんなんですけど、彼でさえ怯えて逃げ出してしまうんです」
「ふうむ、地面か……地震ならばアガレス君が言って寄越しただろうし……。ウァラク君、その声とやらは何と言っているかはわかるのかね?」
「……――に、って」
「む?」
逡巡、そして。
「『ここに、わたしはここに』って、訴えかけてくるんです。呼ぶ、んです……」
呼ばれる。訴えかけられる。下から。地面の下から。天界より下層に位置する世界。獣を怯えさせるような獣が住むのは“地上”ではなく。
ふたり共、何を言うこともできなかった。かの地から呼ばれるということ。その意味を口に出してしまえば、きっと認めてしまうことになるから。
やがて紳士はコツコツと地面を叩きながら数歩進んだ。そこで立ち止まっている少年をくるりと振り向き……その表情には、底が読めぬ明るさ。戸惑うウァラクを慰めるでもなく地下の声を考察するでもなく、メフィストフェレスはおどけたように首を傾けた。
「ウァラク君、善悪とは何だろうね」
あまりの突拍子のなさに、少年は真面目な顔を崩してぽかんと口を開けた。
「善悪……ですか?」
「そう。我が輩、ずっと考えていたのだがねぇ。最近は誰とゆっくり話をする暇もなかったものだから。せっかくの機会だ、ウァラク君、少しおじさんの無駄話に付き合ってはくれんかね?」
一応うなずいておくウァラク。突飛過ぎるとは思ったが、特に断る理由もなかった。
紳士は杖の先を一回転、謎掛けするかのような口調で突如語りだす。
「仮に天界を善とし、地獄を悪としよう。仮定は恐らく正しいがね、《光》の御子達は天界で生まれ、地獄が善であるとされることもないのだから。さて、主が善行を望まれるならばどうして悪が存在するのか……これに関して、我々の思想は間違っていないと思う。“王”の認識は実に理に適っている。平衡を保てなくなるならばそれは必要なのだ」
メフィストフェレスが王、と呼んだ天使。首謀者。彼は“闇の必要性”を仲間に説いた。それは多くの疑念に答えを与え、故に大きな事態を引き寄せようとしている。
――想いは、世界さえも動かす。
「だが何故そのふたつの世界は分かれて存在する? 分かれてしまったら、せっかく半面同士であることの意味がない」
「……」
「まぁ世界全体をひとつの括りとして捉えるのなら、ふたつの反するモノが共存するのはわかる。しかしそうなると我が輩は疑問に感じてしまうのだ。世界はそうしなければ正常に保たれないのに、個人が善悪のある一方のみを目指すのは非常に危ないのではないかと」
《光》と呼ばれる者がいる。闇、或いは《影》……対を成す役割を負う者もいる。《世界》がそれを望むから。
だが選ばれた彼らは“一色”で在り続けることができるだろうか。存在の根源が“純粋”であることに耐えられるのだろうか。“半身”を欲せずに生きていけるだろうか。いつかはきっと……否、ひょっとしたら既に。
「……もう少し早くに気付いてやれれば、良かったのだけどねぇ」
え、と見上げたウァラクだったが、メフィストフェレスはどこか寂しげに笑むばかり。“気付いてやる”。古参の天使が思うのは、かつて指導してきた教え子の中の。
「戦だよ。ウァラク君」
馴染みのない単語。“楽園”に住む者として馴染みがあってはならない単語。
けれど、それが今。
「多くの天使達がこちら側に集っているが、彼らは本当にわかっているのかね。堕天時に地獄で生存する権利は得られるが……」
「天界での権利は全て失う……」
「その通り。手遅れになる前に進んで自覚するのは、非常に難しい」
微笑はどこか物憂げに。紳士も少年も理解してはいる。理解しているが経験が無いから、結局わからない。先にあるものが希望とは言わないまでも明るい何かであると、信じることで同胞は集い剣をとる。如何な優れた天使であれ、確証など誰も持たないのだ。
「我が輩はこの“計画”が最善であるとは思えない」
紳士は、幾分正直である。それは性格のためか、はたまた少年への信頼の現れなのか。それとも……更に向こうに在る主君への信頼なのか。
くるりと背を向け紳士は歩き始める。また、杖が楽しげに円を描いた。
「だからといって、他の手は何も思い浮かばないが。ふふ、これは内緒にしておいてくれたまえよ、ウァラク君。反逆者に反逆だなんて――裏の裏は、表ではないのだねぇ……ん?」
自らに続かない足音をさすがに不審に思ったか、楽天的にうたっていた彼が振り向くと。小さな少年は“荷物”を強く抱き締めたまま、その場を動く気配もない。“声”に気をとられたわけではなかった。現に、瞳は目の前の天使を見据えている。
「貴方は……“味方”なのですか」
反逆に対する反逆。大好きな主君にとって少しでも障害となるならば、それを取り除くのも従者の仕事。たとえ相手が強大な力を持つ上級天使で、優れた指導者であったとしても。少年は密かに大地を踏む両足に力を込めた。
「もし……もし、ルシフェル様を――」
「勘違いはいけない、ウァラク君。我が輩は言った通り彼の思想は支持するし、何より彼のことが大好きなのだよ。《光を嫌う者》であるとしても、ね。これは本当だ。何なら今すぐ愛の誓いをたてたって構わないくらいだ!」
仕草は多少おどけていたが、その表情は真剣そのもの。真剣なほど些か問題が発生する箇所はあるにはあったが、それを抜きにしても、少年とてあまり悪い方向には考えたくない。警戒を解いて少し探るような視線に、それでも紳士は真意を隠し。
「何だか君も彼もまるで子供のようだ、赤子のように純粋だ。それは実に素晴らしいことではある。しかしね、黒か白か、どちらかに決めつけてしまおうとするのはやめた方が良い。世界はひとつの想いだけで満たされてはいないのだから」
「た、確かに僕は小さいですけど……でもっ」
「違う違う。見た目じゃあないんだ。それに純粋であることは決して悪いことではない」
頬を染めた少年を慌てて宥め、メフィストフェレスは苦笑する。一瞬開きかけたふたりの距離は再び縮まるが、しかし。
「だがね、ウァラク君」
紳士はそっと動きを止め、静かに。
「我が輩は君達以上に子供だ。聞き分けのない、どうしようもない子供だ」
「え……」
「……決めたはずなんだ、選んだ、はずなんだよ。それなのに、我が輩はまだ未練がましく白い翼にしがみつこうとしている」
「……」
「他の皆がどう思っているのかはわからない。だが少なくとも我が輩は、後悔しない自信はない」
紳士は、すこぶる正直である。そして子供にしては誠に性格が悪い。少年の心を揺さ振るとわかっていながら、敢えてその言葉を口にした。黙した少年を見て何の声をかけるわけでもなく、ただ再び紳士は背を向け歩きだす。
「全員が同じ方向だけ向いていたら危ないだろう? 少し、思ったままを口にしてみたのだよ」
くるり。杖が踊る。
紳士は足取り軽く歩きだし、そして少年も慌てて後を追う。もう振り返ることはなかった。
――後に。少年は竜さえも従える《爬虫類の支配者》の名を、紳士は《無限道化師》の名をそれぞれ冠することとなるのだが、この時はそんな未来を知る者はまだない。