Treason―Encroach
【侵入】者の運ぶ報せ……長はまた、首を振るのだろうか。
***
暗い暗い倉庫の中を蠢く影がひとつ。ぼんやりと浮かび上がる白衣の丈は長い。足音もたてず息も殺し、その上級天使はぱちん、と指を鳴らす。立てた指先に灯った炎が照らし出すのは、ずらりと棚に収められた剣や盾、弓矢に鎧。
《神軍》武具庫の最奥、訓練や模擬戦用ではない武器――傷を“積極的に負わせる”ための武器が集められたこの部屋に立ち入ることができる者は限られている。しかし誰にせよ、こんな夜中に忍び込むこと、或いは今の“彼”のように持参した袋に武器を詰め込む許可は与えられていないはずだ。規律に触れる行為――罪。それでも彼は黙々と袋の中へと剣を放り込んでいく。
指先の小さな灯りでは照らせる範囲など限られたもの。だから唐突に光が彼の鋭い瞳に入ったということは、つまり。
「何者!!」
扉が開け放たれ、彼は盛大に舌打ちをして背後を振り返った。外から差し込んだ灯りは彼の姿のみを顕にする。戸口で光を背負った天使は驚愕の声をあげた。
「ベルゼブブ様……!」
その声で侵入者――ベルゼブブも気付いたのだろう。密かに攻撃可能な体勢を整えると、最も見つかりたくなかった相手の名を呟く。
「マルコシアス……っ」
名を呼ばれる語尾に重ね、清き戦士はふと片手で虚空を撫でる動作。すると倉庫内がぼんやりと明るくなり、全ての状況を照らし出す。戸惑いつつ立ちすくむ天使と、射るような視線を向ける天使と、袋に詰め込まれた武器と。
「何故」
あらゆる疑問をひとつの語に込め、武具庫を管理する天使は問う。彼と同じように《神軍》の指導的立場にあったはずの天使はしかし、質問には答えることなく、敵意も剥き出しに片手を相手に向けて構えた。
ベルゼブブが何をやろうとしていたかは明らかだ。故に、正々堂々を信条とする戦士マルコシアスは、今のベルゼブブにとっては最大の敵。
答える気がないと見て取るや、マルコシアスはそのまま中へと入ってきた。腰に剣はあるものの手をかける様子はなく、まるで臆することなく間合いを詰める。
「……来ンじゃねェ、マルコ」
眼光は鋭いままだったが、やっと口を開いたベルゼブブは僅かに一歩下がる。彼とて上級天使であり目の前の天使も仲間だったのだ、いくら敵対する状況であっても好んで諍いは起こしたくはなかった。
そんな迷いを見抜いているかのように、正義の代弁者はとうとう罪人の前に立つ。背筋を伸ばし、堂々と。
「ここの鍵を盗んだのも貴方ですね。いくらベルゼブブ様とはいえ、見逃すわけには参りません」
「……」
撃とうと思えばベルゼブブは撃てた。マルコシアスが抜剣するより先に倉庫自体を爆破し、行方を眩ましてしまうことも容易だった。
だが彼は動かない。後ろ暗いことがあるというのはやはり天使にとっては枷となる。本来の力も発揮することを許されぬまま、ベルゼブブはただマルコシアスを睨み付けるしかない。
「ベルゼブブ様」
失望と苦悩が滲む声。マルコシアスは哀しそうに嘆息し、そして。
「……ルシフェル様に頼まれましたか」
「っ!」
目を見開くベルゼブブ。咄嗟に袋を鷲掴み、なりふり構わず脱却せんと試みる。マルコシアスの口から彼の名を聞くとは全く予想外だったのだ。あの天使の長の名はこの場で出てはならなかった、悟られてはならなかった。最悪だ……歯軋りし指を鳴らそうとした、刹那。
「私も全て知っています、ベルゼブブ様!」
叫び声に動きを止め、まじまじとその主を見る。青年は苦しそうに顔を歪めてはいたが、同時に皮肉めいた笑みを浮かべようとしていた。正義の天使には似合わない、“共犯者”が浮かべるような笑みを。
「てめえも……?!」
驚いたのはベルゼブブだ。まさかあの“計画”をマルコシアスに話した奴がいたとは――ベルゼブブに話を持ってきたのはアシュタロスだったが――とそれも信じがたく、また咎められる気配を感じないことが、彼も“同じ側”に移った天使であることを証明していた。
ベルゼブブは一気に体の力を抜き、構えを解いてマルコシアスをまじまじと眺めた。
「びっくりだな。まさかてめえまで……」
「あまり好ましい方法でないことは確かです。しかし私が信じる正義はこちらにある、それだけですよ」
誰にとっての正義なのか。信条か信頼か。ともすれば天界一の実直さを誇る天使の天秤は、なかなか傾かなかったに違いない。苦い顔をするマルコシアス。それを見つめるベルゼブブもまた何とも複雑な表情を浮かべる。
「荷物を纏めねばなりませんね」
小さく笑うマルコシアスはそっと耳元に口を寄せた。
「……あまり多くを持ち出さない方がいいでしょう。武器は、刀鍛冶がいるのなら彼らに任せて生産させるべきです。四大元素天使の方々も薄々こちらの動きに感付いておられますから」
低く囁かれた言葉。ぎょっとするベルゼブブは青い瞳を見た。細められた切れ長の双眸。マルコシアスは剣技にかけてルシフェルと渡り合えるほどであったが、戦術においても堅実・確実な策を錬る。
自分自身も戦士でありながら同時に優れた軍師でもある天使は、“反乱者”へと速やかに言の葉を伝える。
「幸い、私の立場が何れであるかは悟られておりません。時間を稼ぎます。ベルゼブブ様は早くルシフェル様のところへ。こちら側にはサブナック殿もおられると聞きました。錬成に長けた方々の力をお借りすれば、武器の数が足りなくなることはないと思います」
証拠を隠滅してやるとその天使は言っているのだ。忌み嫌う行為に名乗りを上げるとは、マルコシアスの性格を承知するベルゼブブにとっては本当に驚くべきことだった。
事の重大さを改めて認識させられ、ベルゼブブは口を引き結んでうなずくと大きな袋を信じられない力で担ぎ扉へ向かう。彼はこれから仲間のもとへ行くのだ。彼が選んだ“主”のもとへ。
「ベルゼブブ様」
振り返るまいと思っていた天使を呼び止めたのは他ならぬマルコシアス。顔だけを後ろに向ければ、武具庫の管理者はにっと白い歯を見せて。
「くれぐれも慎重に行動なさってくださいね。――あれだけ派手に鍵を繋ぐ鎖が壊されていては、いくら私でも隠しおおせる自信はありませんよ」
最初からマルコシアスにはわかっていたのだ。倉庫への侵入者が誰であり、何を目的としているのか。だから彼は“剣を抜かなかった”。
数度瞬くベルゼブブ。が、すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻すと、足を踏み出しつつ背へと翼を出現させる。上級天使たる彼の純白の翼は、外の闇夜をも払う輝きを帯びていた。それらをゆっくりと広げ
「任せとけ」
一言投げると、彼はマルコシアスの前からふっと姿を消したのだった。