Treason―Prophecy
【予言】する者は世界を見通すかなどという愚問を。
***
部屋の中から若き大天使の悲痛な声が耳に届き、ラファエルは扉を叩こうとした姿勢のまま思わず動きを止めた。
「――早く探しなさい! 私のことなど構いません!」
「ですが」
「これは命令ですクーダ!」
「ッ!」
足音、そして扉が開かれる。出てきたひとりの天使はラファエルの姿を見て心底驚いていたが、それでも一礼の後に慌ただしく廊下を駆けていった。ラファエルは無言でその方向をちらと見遣り、やがて開け放たれたままの扉から静かに足を踏み入れる。
「ミカエル……」
「ラ、ラフィ……っ」
興奮と気恥ずかしさに頬を上気させ、金髪の天使が戸口を振り向く。先の剣幕が嘘のようにミカエルは弱々しく笑んだ。
「失礼、しました。見苦しいところを」
ほうっとため息。癒しの天使はミカエルに歩み寄り、その肩にそっと片手を置いた。宥めるように、幼子を落ち着かせるように。
「そう熱くなるな。まだ数日しか――」
だが途端にミカエルは顔色を変える。何かを堪えるように顔を奇妙に歪め、ぱん、と肩の手を振り払う。
「ラフィも、そういうこと、言うんだね……っ」
「ミカエル、俺は」
「みんな、何もわかっちゃいないんだ。兄さまのこと知らないくせに“また”勝手に決めつけて!」
彼が翡翠の瞳に見たものは呆れか諦めか。ともかくミカエルと周りの認識は違い過ぎた。知る者と知らない者の落差、数で隠される誤差。
それは他の大天使も同様。“何故なら彼らも歴史を知らないから”。口を開きかけたラファエルをキッと睨みながら、一歩後退したミカエルは震える声を絞りだす。
「出てってラフィ……!」
深い蒼の瞳を潤ませながらも、その強い眼差しは彼の兄が時折見せる鋭さと同種のもの。ラファエルは行方知れずの天使長よりも、目の前の弟の方が余程心配だった。どうやら依存していたのはお互い様のようだから。
拒絶されようともラファエルは引き下がらなかった。彼には伝えねばならないことがある。
「ミカエル、少し話を」
「聞きたくない!」
「ミカエル!」
と、
『――お取り込み中失礼いたします、大天使様』
割り込んだ新たな声にミカエルはびくっと肩を震わせる。眉をひそめたラファエルの方は既知らしく、少しばかり不機嫌そうに戸口を見た。扉の脇に立つ天使を。
「おい」
「無礼は承知ですが、この方が話は早いかと思いまして」
咎めるようなラファエルの声にも動じず、軽やかな足取りで部屋に入ってきたひとりの天使。慇懃無礼、とはよく言ったもの。白衣の丈は長いというのにミカエルに至っては初対面であり、どこか不思議な天使だった。何せ大天使ふたりの前にもかかわらず鍔広の帽子を目深に被り、その上には一羽の鳥をのせているくらいだから。
あまりにも、場違い。呆気にとられる二名の前に堂々と立ち、鳶色の髪の天使は優雅に腰を折ってみせる。脱がなかった帽子の上で、鳥が、器用にバランスをとった。
「《光の君》ミカエル様、《癒しの蒼氷》ラファエル様。御機嫌麗しゅう」
ふと笑んだ口元。しかし目は前髪に隠れたまま。
「私、メフィストフェレス様の下で働いております、アガレスと申します」
「アガレス……はじめまして、ですよね?」
「ええ。私はあまり表に出ておりませんでしたから」
「えっ?」
困惑したミカエルの視線に答えたのはラファエル。彼もまた肩をすくめて。
「俺もさっき初めて会ったんだ。ミカエルに会いたいと言うから、紹介しようと。まあ結局こんな流れになってしまったが」
「そう、でしたか」
ごめんなさい、と小さく呟く声にラファエルはゆるりと首を振る。彼にとってもアガレスがこの間で出てきたことは想定外だった。話をつけるまで待機させたはずだが、と内心で苦々しく思っていると、乱入した張本人はまるで何事もなかったかのように楽しげに首を傾げる。
「私の目的は大天使様方に、予言を。よろしければ聞いていただきたく」
「予言だって?」
これはラファエルも初耳だった。思わず問えば、相変わらず反応は道化の如く。
「予言は真実とは異なるもの。参考までに一つの方向性を。それが私の“役割”です」
顔を見合せる大天使ふたり。怪しいと言うのは失礼だけれども、唐突な展開は決して安らぎをもたらすものではない。だが話を聞くだけならば……どちらからともなくふたりがうなずいたのを確認し、アガレスは咳払いを、一つ。
「“往く者の存在。花は起点。決断は道を分かち、光は対の色には染まらない。流れ去るのは想いの記憶、全ては意のまま、暫しの眠り”」
ほんの少しの沈黙。予言した本人だけが楽しそうに口端を上げている。
「……これが?」
怪訝そうな表情を隠しもせずにミカエルが、どうにかといった様子で一言問うた。ラファエルは何も言わずに黙している。
「はい、大天使様。これが今“見える”全て。役目は、お仕舞いです」
「お仕舞い、って……」
「あとは“仕事”を。――ルシフェル様からも伝言を預かって参りました」
「兄上からっ?!」
突然の大声に機嫌を損ねたか、鳥が苛立たしそうに数回羽ばたいた。
「落ち着きなさい、“ヴァサゴ”」
低い叱咤の声が飛ぶ。ヴァサゴ――鳥の名か。首を軽く傾けたラファエル。そんな大天使の様子に気付き、アガレスはラファエルにだけ聞こえるよう小声でそっと囁いてみせた。もっとも、興奮状態にあるミカエルの耳には元より入る心配もなかったろうが。
「……これは、哀しき私の名前なのですよ。“役割”は唯一無二とは限らない」
そしてラファエルが思考をまとめるより先に、アガレスは白衣の懐から一枚の書状を取出し示す。四つの瞳が集まったことを確認し。
「……『いきなり留守にしてすまない。実は天界に“反乱分子”の存在を確認した。私は戦が起きる前に彼らを制圧するべく遠くの地にいるが、無事であるから心配は無用だ。すぐには戻れないから有事に備え、少々権利の移動を決めた。ミカエルに“軍事の全権を委任する”。正式な書はアガレスに託すからよろしく』と」
「なん――!」
ふたりは目を剥くものの、しかし言葉が続かない。アガレスが持つ書状こそが絶対の証。そこには天使長の署名と唯一の承認印。何より文章を連ねたその流麗な筆跡を疑いようもなかった。
軍事の全権。かつて、たった今この瞬間まで、それを握っていたのは天使長本人だった。弟に委譲された権利、託された肩書きは《神軍統率者》。
「それでは私の役目は本当にお仕舞いですので、これにて」
書状をミカエルに押し付けると呼び止める間もなく、いや、意図的に与えようとせずにアガレスは長衣を翻し部屋を出て行った。最後まで微笑を浮かべて。彼が場に登場したのは僅かな時間だけ。だがあまりに重大な問題を予言者は残していった。
先に立ち直ったのはラファエル。紙を手にぼうっと立ちすくむミカエルの肩を再び叩く。
「ミカエル」
対する幼い大天使は、不自然に角張った動きで首を巡らせると、泣きそうな顔で先輩の天使を見上げる。いくら兄と似ている部分があるとはいえ、彼はまだ大天使としての経験は浅い方。縋る視線にラファエルは小さく息を吐くと、優しく金髪を撫でた。――誰が親愛の情を示そうと、それを不満げに見る天使はこの場にいない。
「泣いてはいけない。今は考えるべきだ」
「はい……っ」
唇を噛むミカエルは紙を大事そうに押し抱く。大好きな天使から送られてきた、たったひとつの繋がりの証を。
正直なところラファエルも心中全く穏やかではなかった。
反乱。戦。軍事。
「……おかしい」
やっと漏れた感想は至極当然のもの。予言はこの際置いておくとして、事実として伝えられた言葉に不穏な語が並び過ぎている。奇妙な作為を感じているのはラファエルだけではないようで、ミカエルの方も難しい顔で同意した。
けれども彼はアガレスの言葉について深く探ることにあまり気乗りしてはいなかった。彼も、もちろんラファエルも気付いている。素直に疑えないその理由。何故ならいちばん不可解な行動をとっているのは。
「ルシフェルは、何をしているんだ」
「……な、何って。反乱分子の制圧でしょう? すごいですよね、兄上。誰よりも早くそんな不届き者に気付いてしまうんですから。まあ兄上はこの天界の守護者で――」
「ミカエル、冷静に」
「…………」
「妙だとは思わないか」
冷静に。それがどれほど酷な結果を招くか、本能的な心の騒めきを感じるのは互いに同じ。
しかし蒼の天使は“探求者”である。そしてふたりは何より大天使……“天界の守護者”である。責務は、存在理由へと直結する。
「でも兄上が僕らの不利になる事態を引き起こすとは思えません、ラフィ。もしも天界が楽園でなくなるようなことがあれば、彼は真っ先に止めると思いませんか? 伝言を疑う理由はありません」
「ならば何故誰にも何も告げなかったんだ? せめて俺達には一言教えてくれても良かったのではないだろうか。それにそんなに時間がかかるのに、どうして《神軍》を動かさない。それどころか権利自体をミカエルに譲ってしまうなんて」
「それは……ウリィ……ウリィは? 《神軍》の権利に関することなら彼の許可も必要なはず」
「いや、ウリエルは特に何も……。最近少し元気がなかったからな。部下と喧嘩をして飛び出されたとか何とか……――」
はっとラファエルは口をつぐむ。慌てて見れば、ミカエルも同様に目を見開いていて。
「兄上の居場所、僕らは知らないのにアガレスは伝言を……」
「少なくとも彼はルシフェルと一緒に……?!」
なんて単純なこと。唐突な展開それ自体に意識を持っていかれていたのだ。急いで廊下に出るも、鳶色の髪の天使の姿は既にない。
金髪を乱して振り向く天使。その瞳は真っ直ぐに蒼の天使を見る。
「ラフィ、メフィ先生を探して! 僕は他にも行方不明の天使がいないか確認します!」
「わかった」
鋭く言ったミカエルに対し、ラファエルは咄嗟にうなずいてからふと硬直する。幼い大天使は今間違いなくラファエルに向かって“命令”したのだ。兄がするのとまるで同じように。その事実は彼を少しばかり狼狽えさせた。
ミカエル。特別な御子だとは言われていたが、まさか本当に――。
「ラフィ?」
「ああ、いや」
口籠もった理由は己の行動に戸惑ったからだけではない。ラファエルはアガレスの言――予言者の“呼び掛け”を思い出し動けなくなったのだ。ミカエルは小首を傾げながらも廊下へ飛び出していく。
「光の――」
呆然と、呟く。小さな背中に大きな責。その後ろ姿を神妙な顔で見送り、続けてラファエルも部屋を後にした。