Treason―Clairvoyance
彼の【予知能力】は告げる――愛する彼女はもう、同じ側を向いて立ってはくれないのだと。
***
「遅かったな」
「すみません、少々《神軍》別働隊の訓練内容の変更を……」
ウリエルはふと顔を書類から上げ、己の執務室へと入ってきたアシュタロスを見た。仕事上の主従関係にあるふたり。彼女が部屋に報告書の類を運んでくるのはいつものこと。しかし彼は黒耀の瞳で彼女を見据えたまま。
「どう……なさいました?」
銀髪を揺らし首を傾げたアシュタロス。
「いや」
だが言葉とは裏腹に彼は彼女を見つめ続ける。探るような視線は、ただ相手を不安にさせるばかり。
優れた洞察力を有する大天使ウリエル。彼の前では虚構など無意味。
「……そういえば、ルシフェルはまだ帰っていないようだな」
静かに、言う。確かに天使の長は数日前に出かけたきり音沙汰もない。また何か特別な任務かと思うと、取り立てて騒ぐことはなかった。……ひとり、彼の弟を除けば。
「確かあいつが出かけたのは、俺がお前を説得に向かわせた直後だったよな」
「ええ」
「そしてお前は何も変わった様子はなかったと報告した」
「そうです」
と、手にしていた筆記具を机上に置き、ウリエルがゆっくりと立ち上がった。不思議そうにしているアシュタロスの目の前、彼女を見下ろして、ついでにすっと目を細めて彼は問う。
「お前、何を隠している」
それは有無を言わせぬ詰問。問いかけの形ではあれど、命令と同義の静かな威圧。
しかしアシュタロスはクスクスと肩を揺らし。主人の不審を買っているとはとても思えぬ落ち着いた口調で、同じように紫苑の瞳を冷やし応える。
「隠す? 僕が自分の体以外で何を隠す必要があるって言うんです。貴方はもう知っているではありませんか、僕のこの体が“女性のものである”事実を」
《地》を背負う大天使と、若輩の上級天使。彼らは単なる上司と部下の関係ではない、何より彼ら自身がそう信じていた。親しむべき仲間であった。少なくともアシュタロスが自らを“僕”と指しても咎められないほどには。
沈黙の内、腹を読み取らんとする攻防が繰り広げられる。彼らふたりの譲れぬ一線、互いに理解している真意。だからこそ他の解を求めた。その度に危機感は迫る。曰く、“崩壊”の危機感。
突然、ウリエルがアシュタロスの片腕を掴む。よろめく彼女には構わず荒々しい動きで、華奢な手首を目の前に掲げてみせた。
「何を……!」
「やはりか」
袖が落ちることで現れる白く細い腕。そこには消えかけの痣や真新しい切り傷など無数の傷。
武人たる彼女にとっては当然だ。しかし。
「最近俺はお前に実戦練習をさせていないはず」
「……ええ」
「体を大事にしろと、俺は言ったよな?」
「……」
「……またあいつのせいか」
吐き捨てたウリエル。アシュタロスはその手をやんわりと振りほどくと、すぐさま白衣の袖口を整える。見られまいと、何か大事なものを隠そうとするかのように。それが更にウリエルの苛立ちを助長する。
「身を捧げるべきは一天使などにではないはずだ。どうしてそこまで!」
「確かに偉大なる主には感謝しています、けれど僕達は意志を与えられた。だから僕は選択したのです!」
「お前もわかっているだろ?! あいつが見ているものは――」
「そんなことはもう!!」
はっと言葉を切るウリエルだったが、アシュタロスは続きを遮った。怒りではなく……悲しみを湛えた表情で。
「そんなことは、わかっています。……あの方が見ているのは僕ではない。それでも!」
同じ言葉をかけられたのが二度目であることも、一度目が張本人からの酷な宣告であったことも、ウリエルは知らない。彼が知るのは、自分の大切な天使が自分以外の天使に心身を捧げ、報われぬ想いに傷ついていく姿だけ。
彼女の体にある傷痕は、どれも彼女にとっての“想いの証”であった。これらの傷がある限り、大切なひとの傍にいられる。それを否定されたことで幾分彼女の心は乱れたが、憤りを素直にぶつけるには彼女も目の前の彼に対して好意を抱き過ぎていた。黒耀の眼差しは見たこともない真摯な光を宿しており、アシュタロスはただ口をつぐんでウリエルを見上げる。
「……俺では、だめなのか」
ぽつ、と呟かれた言葉は彼にしては弱々しい響き。しかし瞳の強さは変わらない。アシュタロスは一瞬意味を取り損ね、ぼんやりとその黒い光を見返すばかり。
「お前の居場所は俺ではだめか」
居場所。
直接口にしたわけではなかったが、アシュタロスは確かにあの天使の長にそれを求めていた。ウリエルに言い当てられる形になったことも、それ以上に彼が初めて見るような顔をしていることもアシュタロスを動揺させた。彼もこんなに切ない表情をするのか、と。
「俺の傍に居てくれ、アシュタロス」
紫苑の瞳を瞠り、息を呑む。
漸く彼女は気が付いた。ひとりの天使として認めてくれた、立場を越えて親しくしてくれた、強大な力を有しながらも慢らず温かく接してくれた……それらは全てあの憧れの彼よりも先に、目の前の彼が与えてくれた情だったのだ。近くにあり過ぎて気付かず、気付けず。自分が招きかけている悲劇を前に、アシュタロスは唇を噛み締めて俯いた。
ウリエルは、待っている。答えを、彼女の選択を。大天使でも上司でもなく、ひとりの天使として。
「僕は……っ」
……一度、二度。銀色の髪が揺れる。それが彼女の精一杯だった。
彼もまた、彼女が声を出せないことは理解していた。答えをきちんと言葉として聞かないうちは引き下がるまいと思ってはいたが同時に、その時を待ち受けるのは辛いこと。吐き出した息に乗せられたのは何も、痛みや悲しみばかりではない。
「そうか……まあ、そうだろうな」
安堵、自嘲。目の前で震える天使の姿こそが、想いの強さを表すいちばんの証拠。たった一言で覆せるような気持ちなら彼はこれほど悩まなかった。
彼女は知らない。彼が誰よりも彼女に幸福をもたらしたいと願っていたこと、故に彼女の気持ちを曲げるのを躊躇い続けてきたこと、……彼女に《祝福》を行ったのは彼だということも。
「うまくいかないものだな」
きつく閉じていた目を開け、アシュタロスは己の上司を見る。規律に厳しく、滅多に素の笑顔を見せてくれなかった大天使は今や力なく笑ってはいたが、それは決定的な何かが無くなったのだと彼女に直感させた。
「もう“お前達”が何をしようとしているのかは尋ねない」
「ウリエル様……!」
案の定続けられたのは彼らしくもない言葉。アシュタロスは口を開くものの言うべきこともわからないまま。
「ただひとつだけ約束して欲しい」
ウリエルは彼女の肩に手を置こうとして……やめた。所在なく片手を彷徨わせ、やがてその流れのまま背を向ける。
「約束しろ。……何があろうと死なない、と」
「……はい……」
「ならば良い。行け」
仕事は終わった、話は済んだ。いつも通りに彼は彼女を自室から帰す。口にした約束こそが彼の勘の正確さを表していたが、彼は平素と何も変わらぬ態度で執務の終了を告げた。
「……失礼、します」
深く深く頭を下げて彼女の方も、返事を小さく呟き背を向ける。背中合わせに互いも見ないまま、あまりに遠い道程へ一歩一歩。
その天使がもうこの部屋にくることはないとわかっていたが、ウリエルは引き止めようとはしなかった。執務を第一とする彼の、大天使としての天秤が初めて反対側に傾いた瞬間。全て理解しつつも、否、理解していたからこそ止める気など起きなかったのだ。
「ウリエル様」
そして彼女は戸口で一度だけ振り返り。部屋の中央に立ち尽くす天使の背に微笑を投げた。
見ていなくても構わない、むしろ泣き顔を見られたくなんてない。ただ、感謝を。
「ウリエル様も……どうか、ご無事で」
「……」
返事はなく、扉は閉まる。彼女は二度と振り向かず、宮殿の外へと向かった。