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Old Long Since【M-17-2 】


 “ひとりで、寝室に”

 

 言われた通りに兄の部屋を訪ねた。

 胸が高鳴る。緊張が半分、嬉しさが半分。どうも兄に会うのはいつでもどきどきするのだ。兄弟なのだからそんなに固くなる必要はないのだろうけど、と自分でも思うがどうにもならない。

 部屋の前。番をしている天使はいない。ひとりで来るようにと呼び出されたくらいだから、多分外すように言われたのかもしれない。

 軽く一呼吸。逸る気持ちを抑えて、扉を軽く叩く。

 

「僕です、兄さま」

 

 いつもなら「入りなさい」という許可の声が扉越しに聞こえてくるはずが、その日は代わりに直接部屋の主の手で扉が開かれた。

 纏った白服は簡素であるけれど、神々しいくらいに美しい天使が目の前に立つ。今は金刺繍の上着は着ていない。兄は紅い瞳を細めてふわりと微笑んだ。

 

「よく来てくれた。さあ、中へ」

「はい、失礼します」

 

 ……なんとなく、

 

「どうした、ミカエル?」

「あっ、いえ。何でもありません」

 

 なんとなく、以前と雰囲気が変わったような気がする兄の部屋。相変わらず几帳面に整理整頓されてはいるが、ここはこんなに空虚で広々としていたかしら。内心で首を傾げたけれど、きっとこのところ久しく訪れていなかったせいかもしれないと、気を取り直して足を進める。

 いつもそうしているようにふかふかの寝台に腰掛けた。隣を兄のために空けておくのも忘れない。兄は小さな机の上にふたつの器を並べた。

 

「紅茶。熱いから気をつけるんだぞ」

「ありがとうございます。いただきますね」

 

 まるで自分が来る時間をわかっていたかのように、淹れたての紅茶は熱く、良い香りがした。自分で度々飲んでいるからだろう、兄はお茶を淹れるの“は”比較的上手だった。

 その兄はというと、自分の隣には座らず器を片手に窓辺に立っている。すらりとした体型、姿勢が良く、品のある立ち姿。いつ見ても、どの角度から見ても完璧だと惚れ惚れする。

 本当は呼び出された理由などどうだっていいのだ。こうして兄に会えるだけで。

 

「……いつか、」

「ん?」

「いつか、兄さまが作ったお菓子も食べてみたいです」

「私が? 自分で言うのもどうかと思うが、やめておいた方がいいと思うぞ」

 

 無論、兄が料理を苦手としているのは知っている。知った上で、少し拗ねてみる。

 

「でも、ガビィとかから教わったらいいのに」

「いくらガブリエルでもなぁ……。私が人並みになるのにはどれほどの月日がかかるか知れないぞ?」

 

 料理上手な彼女の名を出すと、兄はおどけたように肩をすくめる。そしてふたりで笑う。いつものやり取り。それでも兄はいつもよりも愉しそうに笑っていた。愉しそうだけれど、どこか変? 必要以上に笑おうとしているような。これもまたなんとなくでしかないから、大して気になるわけでもなかったけれども。

 ひとしきり笑うと彼は紅茶を一口啜り、それから自分をじっと見つめた。

 

「ミカエル。お前、明日は休みだったな」

「はい」

「今夜はここに泊まれるか」

 

 へ、と首を傾げた。泊まる……この部屋に。それは幼い日々に繰り返されたことで、自分がいちばん好きだったこと。

 大好きな彼は優しく微笑んで、同じように優しい声音で言葉を紡いだ。

 

「無性にお前と話がしたくなってな。一緒に寝ないか、ミカエル」

 


 

***

 


 

 リーシャの妄想は、あながち間違ってもいなかったな。

 温かな布団に潜り、それ以上に温かい腕に抱かれながら、そんなことを考えた。彼女が言っていたような“あんなことやこんなこと”にあたる行為は、恐らくしていないのだけど。ああもう、恥ずかしい。

 一緒に寝る。幼い頃、毎日多忙な兄のことが恋しくて寂しいと言った時、どうにか会話する時間を取れるようにと、兄自身が夜に自分を傍においてくれたのが始まりだった。彼の広い胸の中に納まって、暗闇の中で子守唄のような優しい囁きを聞くのが大好きだった。

 

「久し振りだな、こうしてお前と話をするのは」

「はい。なんだか懐かしい」

 

 前よりも確かに自分は大きくなったけれど、それでもまだまだ彼の方がずっと大きい。しっかりと自分にまわされた長い腕も、甘い香りも温もりも、見上げた瞳の優しい光も。何ひとつ変わっていない。すごく安心する。

 

「ひょっとして、何か大切なお話があるのですか、兄さま? わざわざ僕を呼ぶなんて」

「いや……」

 

 少しの間。頭に、そっと片手がのせられたのがわかった。

 

「本当にお前と会いたくなっただけなんだ。……忙しかったか?」

「いえ。とっても嬉しいです!」

 

 ぎゅっと抱きつき、火照った頬を兄の胸に押し当てる。自分が彼に必要とされている、それだけでとてもとても嬉しかった。

 ただ。

 ちょっぴり、兄らしくない気もした。

 

「えと、本当に……何も?」

「何も……というのは」

 

 言われて、口ごもる。違和感を言葉で説明するのは難しい。

 答えられずに黙っていると、やがて兄は静かにため息を吐いた。次に聞こえてきたのは静かで穏やかで、暗闇に溶け消えてしまいそうな声。

 

「……大きくなったな、ミカエル。体も心も立派になった。こうして抱きしめるとよくわかる。過去は懐かしいが、今の成長が私には嬉しいよ」

 

 混乱して、表情を読み取ろうと顔を上げる。ぼんやりとしか見えない輪郭。唯一よく見える紅い眼は、それでも優しく見返してくる。

 

「能力も制御できるようになったし、《エレメンツ》としても充分活躍しているものな。剣の腕も上達した、体術も一通り身に付けた……」

「兄さま……?」

「お前はもう、私がいなくても大丈夫だ」

 

 ちくんと胸が痛んだ。思わず腕に力を込める。

 

「兄さま」

 

 捕まえておかなければ、この腕をずっとまわしておかなければ。

 

「まるでお別れみたいなこと、言わないでください」

 

 嫌な予感が外れていますように。願いを込めてそう言った。

 

「別れではないよ」

 

 ぽんぽんと軽く背中を叩かれる。上から降ってくる声は変わらず優しい。

 

「別れではないんだ」

 

 彼はもう一度繰り返した。自分を安心させるように背中を叩く手は、ゆっくりと一定の調子を保っている。

 

「私はいつだってお前の傍にいる。お前の声はずっと私に届くから」

「……本当に?」

「ああ。これまでに私がお前の声を無視したことがあったか?」

 

 胸に額を擦り付けるように首を振った。だって兄はいつだって自分の声を聴いてくれた。心の声を聴いてくれた。寂しいと思っていれば傍にいてくれたし、何も言わなくても手を握ってくれた。本当に心を読まれているみたいに。彼はいつも自分の気持ちの先にいた。

 

「僕は兄さまが大好きです。ずうっと一緒にいたい」

「大丈夫だ。私はお前を愛しているよ。そしてお前の幸福を願い続ける。今までも、これからも」

 

 けれどこの想いだけは、いくら伝えても伝え足りない気がするのだ、いつも。言葉にしてみても同じ。想いは通じている、でも、この大きさはきっと彼が考えているよりもずっとずっと大きい。

 

「ミカエル。主は見守ってくださるが、闘うのは私達自身なんだ。私達が自らの手で世界を進めていかなければならない。わかるな?」

 

 曖昧に、うなずいた。兄の言葉はあまりに唐突で、声の調子とは違って重かったから。それでも彼は自分の反応に満足したように微笑む。

 

「愛しい子。今夜は私の腕の中で、ゆっくりおやすみ」

 

 目を閉じて、再び頷く。背を叩く心地良い振動を感じながら、彼に身を委ね、意識を暗闇に落としていった。

 


 

***

 


 

 翌朝、窓から差し込む光に目を開けると、隣に彼の姿はなかった。

 目を擦り、寝返りを打つ。毛布はすっかり冷えていて、大分前に出ていったのだなと考える。

 兄は今日は確か仕事があったはずだ。自分の休みの前日に呼び出したのは、気遣ってくれてのことだろう。現にこうして普段よりも遅く目覚めてしまったわけだし。

 

 寝台をおりて、寝巻きを着替える。

 寝覚めは決して悪くない。それなのに胸がもやもやするのは、多分、昨晩の兄の様子が変だったせいだ。

 ふと不安になって足早に部屋を出た。

 “お別れじゃない”と何度も繰り返した兄。何も心配する必要はないはずなのに、つい回廊で見かけた大天使――ラファエルに声をかけてしまっていた。

 

「ラフィ!」

「おや、ミカエル。どうしたんだ? 今日は休養日だろう?」

「うん、そうなんだけど……あの、兄上はお仕事に出ていますか?」

「ルシフェルが?」

 

 馬鹿らしい質問だったろうか。むしろ自分が心配されるかもしれない。そんなことも思ってしまった。

 だが、目の前の大天使は軽く首を傾けて。

 

「いや? 執務室にもいないようだったし、先に会議室に行っているのかと思っていたんだが」

「え……」

 

 ――いない?

 

「ミカエル……?」

「あのっ、兄上を見かけたらすぐに知らせてください!」

「あ、ああ」

 

 多分、いや、確実に。会議室に兄はいない。

 まさかとは思ったけれど、不安で仕方がなくて。急いで踵を返し、兄を探しに駆け出した。


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