Old Long Since【 L-17 】
沈む直前の陽光というのは、熱くはないが強く眩しい。おかげで時の流れを自覚できたけれども。
私は日除けを下ろすべきかと僅かに迷って腰を浮かしかけ、結局やめて再び椅子に納まり目を閉じた。どのくらいこうして座っていたのだろう。執務を終えてすぐに自室へと引っ込んだから……と考えて時が経つあまりの速さに驚いた。その間じっと思案していただけの自分自身にも。
“あの”祝福からまだ少しも経っていないのに、全てがとても遠い過去のことのように思える。
歴史は変わった。私とミカエルの中だけに真実は封印されているのだ。まったくあの子には酷なことを強いる。愛情なのだと言い訳しようにも、それは誤りだと私自身がよくわかっていた。
歴史は変わった。認識が造り出すのが歴史ならば、記憶されないことは存在しなかったことと同じ。しかし事実は変わらない。
白い空間。初めて掴んだあの手。
片手を持ち上げ、そっと口付けてみた。うっとりするような心地よさを思い出してため息が洩れる。今でも温もりの名残が感じられる気がする。どうしようもなく私はあの方に焦がれ、あの方を求め続けているから。……だからこその選択なのだ。
そう気負わずとも“計画”は実に滑らかに頭の中で形作られた。何て素晴らしいと自賛したいくらいだ。まるで足りなかった欠片が空白を埋めるように、全ての事象が背中を後押しするように。《世界》を敵に回そうが構うまいと覚悟していたのに、皮肉なことだと思う。
さあ、下準備はすぐに終わることだろう。事後処理も視野に入れておかなければならないが、あとは機を逸することさえなければ。単独というのは動きやすい。己の力だけを頼みにすれば良いのだから……ちょうど、悪魔がそうするように。
唐突に、扉を叩く音。
「ルシフェル様。ラケルにございます」
ラケル? ヨハンではなく……なるほど、見張りも交代していたのか。まあ、それはそうか。ひとり立ち続けるには長すぎる時間が経ったからな。
「アシュタロス様がいらっしゃっておりますが……ご案内してもよろしいですか?」
「……アシュタロスが?」
思わず呟き眉をひそめる。別に会えない理由があるわけではないが、今は積極的に会いたい相手でもなかった。
しかし来ているものは仕方あるまい。平素の私を見せてやればいいだけの話。
「構わない。通してくれ」
「かしこまりました」
鈴を転がすような声の返事、それから少しして再び扉が叩かれた。
「入れ」
椅子に座ったまま言えば。
「失礼します。すみません、お休みのところを」
休み、か。折り目正しく一礼した銀髪の天使の言葉に一瞬だけ自嘲しそうになる。私にはもうきっと休息はないだろうよ、アシュタロス。
「いや、いいんだ。それよりどうした?」
「……眩しいですね。日除けを下ろしてもいいですか?」
「あ、ああ」
私の問いには答えずに、アシュタロスはすたすたと窓に歩み寄り日差しを遮った。こういうところ、彼女は遠慮がない。友なのだからとわかってはいるが、頭を下げられることに慣れてしまった私にとっては新鮮だったりもする。
「……ウリエル様から、伝言を預かって来ました」
やがて彼女は静かに言った。
「すぐに伝えて欲しいと」
はっと息を呑む。
美しいと、思った。今までで一番。
橙色の光の中で窓辺に佇む天使の姿を見て、そのまま時間を止めてこの一瞬を残しておきたいと私は純粋に願った。物憂げで、哀しいくらいに影は優しくて。いつもいつも身体中に傷をつくりながら稽古に励む努力家な天使。誰よりも今彼女は女性だった。いとおしい。思ったけれど、それがもし同情からきているのだとしたら――事実としてその可能性の方が大きかった――私はなんて酷い男なのだろう。
そんなことを考えていて、彼女の言った意味を理解するのが遅れた。
「ウリエルから?」
問いながら、私の最初の質問の答えかと気付く。
「ええ、ルシフェル様を“止めてくれ”と」
「何?」
アシュタロスは悪戯っぽい笑みを浮かべると、顔の横に指を一本立てた。切り取れなかった画は、私の中にだけ残った。
「『最近のあいつは不自然なくらい自然なんだ。少し気になる』」
不自然なくらい自然……ならばどうしろと言うんだ、ウリエル。心の中で苦笑しつつ嘆いてみた。どこまで彼は勘が良く、そして私は何か勘ぐられるようなことをしたかと。ウリエルが何か疑ってかかる時、大抵そこには“裏”がある。今回もご明察。歴史を知らぬというのにさすがだな。
「『俺が言うよりお前が説得した方がいいだろう。だから俺の名は出すな』……そう言われました」
「……は?」
アシュタロスはニコニコと笑うばかり。え、だってお前は今さっき自分で。
「……名前、いいのか?」
「はい?」
「私はウリエルという名をしかと聞いたんだが」
「ああ、いいですよ。どうせ言っても言わなくても、頑固な貴方を引き留めるなんて無理ですからね」
「わかってるなら――」
途端にアシュタロスの笑みの質が変わる。いわば、いわば……“してやったり”、と。
「やっぱり何かあるんですね」
「えっ?」
「自分で言ったも同然ですよ、今のその反応。だから貴方は抜けてるだなんて言われるんですって。もう隠したって無駄ですからね、ルシフェル様」
「…………」
己の間抜けさを、呪った。本気で。ああミカエル、時間を戻しておくれ……。
「…………」
「……傷つきました?」
「いや……何だかがっくりきた……」
「それは良かった」
悪態なんてつける状態でもなく。本当に脱力感に襲われて、私は椅子に身を埋めながら彼女をねめつけるしかなかった。食えない奴め、油断するとすぐこれだ。
「で、」
有無を言わせぬ凄味のある微笑。傾げられる首。零れる銀色の髪。
「何を企んでいるんです」
「……言えない」
「僕が誰にも漏らさないと言っても?」
咄嗟に目を逸らした。これは彼女の手に負える問題ではない。無用なことは知らない方が幸せなのだ。
私が黙っていると。
「……そうですか。仕方ないですね」
案外あっさりと引き下がられて逆に戸惑った。思わず顔を上げたが、そこにまだ余裕の笑みがあるのを発見してしまう。しまった、と思ったがもう遅い。
「何です? 聞いてもらいたいのですか」
「別に……っ」
「ふむ。まあ構いませんよ、僕は。あることないことウリエル様に報告して、後でゆっくり大天使様方に調べていただけばいいんですからね。ミカエル様とか」
「それは、」
困る。あの四名を相手に隠しおおせる自信はない。何せミカエルがいるのだ、あの瞳を見たらきっと決意が揺らぐ。
……降参だった。こいつはやると言ったらやる。間違いなく実行する。たとえそれが友である天使長の私を窮地に立たせるような行為であっても。
「……わかった、わかった、話すから。だから前言を取り消してくれ」
「それは貴方次第ですよ。嘘を吐いたら、もう二度目はありませんからね」
「くっ……」
これはもう仕方ないんだ。大天使達に探られるより今アシュタロスに言ってしまった方がましなんだ。違いない。
言い聞かせ言い聞かせ、私は渋々重い口を開いた。怒鳴って追い返すことも可能だったがやりたくはなかった。どうにも私はこの天使に甘い。
***
“計画”。要点のみだがどうにか伝わったのだと思う。話し終えても暫くアシュタロスは絶句していたから。
「……なんて、無謀な……」
彼女にしては珍しく、真っ青な顔で体を微かに震わせている。気の毒だったが、これが望みを叶えた結果だ。私は悪くない、はず。
「だから言いたくなかったのだよ。とんでもない行いだとはわかっている。お前が無理に聞こうとするから、」
「そうでは、なくて」
口をつぐんで眉根を寄せる。何が違うというんだ。
対する彼女は怒ったような表情で、ぎゅっと両の拳を握りしめて、強気な光を宿した紫苑の瞳で、私を見据えた。
「それを独りでやろうというのが無謀だと、言っているんです」
「何だと? 私の手に余るとでも言うのか」
「自分勝手な過信を抱く貴方が、どれだけ愚かなのだろうと思いましただけですっ!」
「ッ馬鹿にするな! 私を罵って良いのは主だけだっ!」
血が沸騰するような錯覚に陥る。何を熱くなっているんだ、私は。また思う壺じゃないか。
けれども彼女の顔に余裕の笑みはなく、これまた珍しいことに頬を上気させている。これでは大人しく帰りはすまい――しくじった、と内心で舌打ちをした。こんな反応をさせるつもりでもなかったというのに。
「ルシフェル様」
だが更に意外なことが起きた。す、と深呼吸をして。アシュタロスは次に、ふっと表情を和らげたのだ。あの食えない微笑とは違う。ただひたすらに優しい。今度は私が戸惑う番だった。
「な、なんだ」
些かばつが悪い気がして私は彼女から顔を背けた。その、時。
「……そんなに意地を張っていると疲れてしまいますよ」
「……?!」
衣擦れの音。耳元で聞こえた囁き。私の頭を抱くような、両腕。
懐かしい。違う、初めてだ。こんな風に他の天使に抱き締められたのは。主には遥か及ばないけれど、それでもどこか安心感がある。……否。“守られる”立場なんて、そんなもの、私の誇りにかけて。
「……何を、している」
唸るような反応しかできなかった。守られる場所に安穏としていてはだめだ。私は彼らの長なのだから、託されたのは私なのだから。
されど彼女は私を放してくれなかった。語り掛ける優しさも、変わらなかった。
「ねえ、ルシフェル。僕の前でそんなに強がらないでください」
「…………」
「僕だって一緒に背負いたいのですよ」
「……私がお前を見ていなくても?」
――許せ、アシュタロス。お前を巻き込みたくはないんだ。
彼女自身のために今は突き放してやるのが優しさなのだ。
「私が別の方向を見つめていても、それでもお前は私についてくる気か」
「もちろんです。だって僕は貴方のことが――」
「戻れ、お前の安息の場所へ。お前には確かに愛が向けられる場所がある、そしてそれはここではないはずだ」
疎い疎いと言われる私でもわかっている。彼女が私に特別な想いを抱いてくれていること、あの気の強い天使が本当は彼女のことをとても大切に想っているということ。私は応えられないが、彼ならば彼女を幸せにしてやることができる。
「……酷いことを仰る」
聞いたことのない声に罪悪感が募る。私だってもちろん――言ってやりたい衝動を必死で飲み込んだ。これは彼女の生を懸けた選択。誤りは絶対に許されない。泣かせようが嫌われようが構うものか。
「酷いも、何も。元々お前は彼の下で働いているんだぞ。信頼を裏切るような真似をして私についてくるなんて、それこそ勝手な話じゃないか」
「だったら、僕が貴方に忠誠を誓えばいいのですね」
「そういう問題ではない」
「ならば僕は今この瞬間から貴方のために全てを捧げます。身も心も全て」
「アシュタロス!!」
私の、ために――。ぐっと胸が詰まる。聞きたくなかった。何故ならアシュタロスが私に放った言葉は、私自身が最愛のひとに言い続けた誓いとまったく同じものだったから。彼女の気持ちを最もよくわかっているのは私なのだ。決意の固さも、それに懸ける重さも。今の私は知りすぎるほどに知っていた。
「……悔いは、残らないのか」
それでお前の生は満たされるのか。
「何を今更。《戦神》の勘を侮らないでください。それに、独りで色々背負い込んだ挙げ句にどこぞで貴方が押し潰されてしまう方が、僕としては余程悔いが残ります」
「…………馬鹿者め。知らないからな」
「どっちがですか」
いつだって私は最後まで冷酷無慈悲に撤することができない。それは果たして幸か、不幸か。
とうとう、折れた。
「だからルシフェル様、貴方を慕う皆を置き去りにしないでください。僕だけではないんです。他にも尽力くださる方々がきっと――」
「…………」
「……ルシフェル様?」
協力。信頼。巻き込むことは優しさなのか?
それに私の望み如何に関わらず、彼らが同意するとは俄かには信じ難い。掟に背きたいという欲望……そんなものが自由意志の奥底にあるのならば話は別だが。アシュタロスの言葉が当たっているのか、私にどの程度の人望があるのか。時が来れば自ずと明らかになるだろう。万一にも何か失敗した場合には決行を早めればいいだけの話。
だが……最後に全てを支配するのはこの私だ。“私ひとりだ”。
「……アシュタロス。私は未だに自分の決断が正しいのかわからない」
「はい」
「だがな、どんな形であれ必ず責任は取ってみせる」
何か言い掛けたアシュタロスより先に。私は覚悟を決めて己の“臣下”に命じた。
「人選はお前に任せる。くれぐれもウリエル達に悟られるな。……我らの手に栄光を。力を貸して欲しい、アシュタロス」
彼女の焔を背負う意志を心に深く刻む。拘束が弛まりふと振り返ると……銀髪の天使は実に満足げな表情で、静かに片膝を床について頭を垂れた。初めて会ったあの日とは違う。明らかな“力”の上下を示す礼の形。
「――仰せのままに。“我が主”」
彼女もまたあのあたたかな手を離した瞬間だった。
もう、後戻りはできない。