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Old Long Since【 M-16 】


 どれくらいの時間が経ったろう。永遠か、刹那か。“時”を握る自分にもわからない。

 眩しいくらいに透き通った水晶の部屋で、物言わず宙を見つめる白い天使と、腕の中で目を覚まさない天使の長と。その帰りを待っていた。ただ帰ってくるのを、待っていた。

 

 そして、それに先に気付いたのはもちろん自分だった。

 目の端で、彼の美しい手が微かに動いたような気がしたのだ。じっと見守る前でもう一度、今度ははっきりと指が動く。

 

「ザ、ザドキエルっ!」

「んん? ……ああ、どうやら“終わった”ようだねぇ」

 

 眠たげな《器》が言い終えると同時、兄はゆっくりゆっくりと目を開けた。

 

「兄さま!?」

 

 とろんと潤んだ紅眼、軽く開かれた薄い唇。惚けたような表情は寝起きの、ちょうど夢から覚めた朝に彼がみせるものとよく似ていた。瞳の中の光は現実を捉えようと揺れ動き、やっと開いた口からは自分の名前が。

 

「ミカエル……」

 

 一言だけでわかる。ずっと聞いてきた大好きなひとの声だもの。“彼は、帰ってきたのだ”。

 ゆるゆると身を起こした彼は自分と向かい合う形で床に座り、数回軽く頭を振った。でも。

 

「――兄さまっ!!」

「っ?!」

 

 堪らず勢いよく飛び付けば彼を押し倒すような格好に。背中に当たる水晶の床は痛いだろうけど、このくらい我慢してもらわなければ気が済まない。

 仕方ない、という呟きが聞こえてきそうなため息と苦笑い、けれども強く抱き締めてくれる腕。

 もう、だめだった。

 抑えていたものが溢れだすような感覚に、泣きじゃくりながら彼の胸に思い切りしがみつく。甘えたいという衝動。

 やっぱり貴方が居ないとだめなのです。兄さま、世界でいちばん大好きな兄さま。撫でてください、抱き締めてください、離れないでください――。

 

「……ええと、」

 

 困惑したような声が再び頭上から。

 

「ここ、一応神聖な部屋なんだからね。あと、部屋の主は僕なんだからね」

 

 ……あ。

 兄とふたりで動きを止める。もう、これだから兄と居ると。

 

「すまない、ザドキエル」

「ごっ、ごめんなさい」

 

 ザドキエルは珍しく盛大なため息を吐いた。これは彼の意志、じゃないのかな。

 

「まあ、いいけどさ。別に」

 

 「それよりも……」と鮮やかな赤の視線がこちらを見下ろす。厳密には兄を。

 

「答えは、見つかったのかい」

「……ああ」

 

 答え。兄の顔をそっと見る。光を取り戻した力強い眼差し、神妙なうなずき。間違いなく前向きな。《光》をもう一度背負うに至ったその決意。

 

「それは良かった。……しかしルシフェル、君、なかなか面白いものを(なか)に飼っているね」

「は……?」

 

 ――“カっている”?

 ふたりを見比べた。不思議そうに小首を傾げるザドキエル。本当に何のことかわかっていない様子でぽかんとしている兄。自分は、飲み込めないまま。質問してもいいのかしら、自分が口を挟んでも大丈夫なのかしら。

 

「……ただねぇ、気を付けることだよ」

 

 迷っているとザドキエルは静かに目を細め。

 

「責任感の強さは、時に《傲慢さ》と紙一重なのだから」

 

 急に詩のようなことを言い出した《器》を前に、何て反応したものだろうと傍らの兄を見上げた。彼もまたうなずくことで精一杯の様子だったけれど。一体どうしたっていうんだろう、ザドキエル。

 それきり真っ白な天使は目を閉じて黙ってしまった。いつも祝福をする時みたいに。まるで仕事を終えたみたいに。

 やがて。

 

「……ミカエル」

 

 静かな空間に二度目の呼び掛け。ザドキエルからはすっかり意識を逸らした兄の声に、はい……と返事をしようとして言葉に詰まる。

 果たして兄は――こんなにも美しかっただろうか。

 何もかも完璧に造形された顔立ち。陰さえも計算され尽くしたような。優しく穏やかな眼差しは深い深い紅色。吸い込まれてしまいそう。

 意匠、だけでなく、空気が。滲み出る幸いの証が。また彼が遠くなってしまったような。湛えた微笑は慈愛と誇りと、ほんの少しの切なさを含み。見ているだけで泣きたくなるような儚い美貌は、以前から虜であったはずの自分の心を鷲掴んで決して離さなかった。

 

「頼みが、あるんだ」

 

 頼み。滅多に彼が口にすることのない単語を聞き取りながら、ただ熱に浮かされたようにぼんやりとしたまま首を縦に振る。

 

「私と共に歴史を背負ってくれないか」

 

 兄と、共に。一緒に。

 

「はい、兄さま……」

「ありがとう、ミカエル。この礼はいつか必ず、命に代えても」

 


 

***

 


 

 そして自分達は“歴史を駆けた”。

 

「いきます、兄上。――《イレイプス・レイプス》」

「ああ。――《オブリタレイト》」

 

 自分の《時を渡る能力》、彼の《存在に干渉する能力》。ふたつを合わせてまさかこんな使い方ができるなんて思ってもみなかった。

 初めてやったのに息がぴったりと合って。やっぱり兄弟なんだと嬉しくなる。

 

「《プロ・テム》……逆巻け、《トプシー・ターヴィー》」

 

 時を止め、彼と連れ立ち、遡り、書き換え、修正を施していく。始まりは人間(かれら)が誕生するという噂から、果ては《祝福の儀》まで。

 

「《アンビット》」

 

 人間は天使の上位ではなかった。

 兄は狂わなかった。

 一連の騒動は起きなかった。

 彼はいつも通り《光》のまま。

 平穏のうちに《祝福》は終わった。

 

「夢想を、現実に。――《ヴェラリ・リヴェリ・オルデイン》」

 

 つまり……歴史を変えたのだ、兄とふたりで。それは記憶を奪う作業に似ている。彼が言った「歴史を背負ってくれ」という言葉の意味。真の歴史は自分達しか知らない。自分達の内側には“ふたつの時間が在る”。片方は止まり、もう片方は進む時間が。

 ザドキエルはこうなることを予測していたのだろうか。兄が《天意の間》を飛び出して以降再び主の御許から帰るまで、大天使三名――ガブリエル、ウリエル、ラファエルは半ば軟禁状態で留め置かれていたらしい。他者との接触が最小限だったおかげで、歴史への波紋も少なくて済んだ。もっとも兄のあんな行動の後では、衝撃で動くこともままならなかったと思うけれど。

 歴史を背負うことは、重い。今回だけ主は目を瞑ってくださるが、本来は一級の禁忌であり許される行為ではない。でも、きっと平気だ。だって独りじゃない、彼が一緒なのだから。

 

 ……さて、問題は人間をどう扱うかだった。

 一度紡がれた言葉は取り消すことができない。まして祝福の口付けは主の行いに最も近しい力であり、それは時の流れに関わらず“絶対”。自分が贈った《勇気》をはじめ、もちろん兄の《死》も、刻まれた事実は変えられない。

 だから彼は、人間にもうひとつ贈り物をした。否定せずに、重ねた。

 

「もう特別ではなくなった彼らが楽園に住まうことはできないが、代わりにその存在は知識として知らせてやろう。限りある生の中でも、目指すことができるように」

 

 《光》たる彼が贈ったのは、《楽園の夢想》。

 

「これを与えると申し上げた時に、主には少し叱られてしまったがな」

 

 まるで照れ隠ししようとでもするみたいに、兄は疲れた様子で肩をすくめた。その疲れが本物なら本当に叱られたということなのだろうけど……自分はあまり気にならなかった。兄が贈ったそれは紛れもなく“前向きな可能性”を持っていたから。結果は人間の手に委ねられてはいるけれども、その贈り物は主にいちばん愛される天使が与えるに相応しく、同時に彼らがどのように使うかが楽しみに思えた。

 


 

 それからも兄は以前と変わらず在り続けた。強く、美しく、気高い天使として《光》の名を負い続けた。

 天界の統治を忙しく行い、地上の焔達――無論、人間も――のことは慈愛の眼差しで見守った。《神軍》を率いて掟を定め、一方で幼い天使達を教え導いた。仲間や従者とも強固な信頼関係を築いているようだったし、自分に対しては最上の愛情を与えてくれた。

 彼が一天使に過ぎないのだという事実は自分の中にあったけれど、歴史が“なかったことに”された今、それを心配する素振りは見せてはいけない気がしていた。封じたものを掘り起こすことになりそうで。

 ……自分も、完璧な兄を見ていたかったのかもしれない。彼の中に自分自身を重ねて見ることで、一緒に優れた天使になったように錯覚したかったのかもしれない。だって彼はたったひとりの兄であり、最愛であり、誇りだから。

 

 ずっと楽園は彼の統治下にあって、幸福な時代が永遠に続くのだと思った。何も知らない他の天使に比べて、自分はより一層そのことを信じていたに違いなかった。

 

 だのに――

 平和の壁を突き破り、唐突に“あの事件”が目の前に姿を現したのだ。あの、悲劇が。


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