Old Long Since【 L-16 】
さらさら。ふわふわ。ゆらゆら。
――どこだ、ここは……
目を開けているのに眩しくて何も見えない。白、白、白。一面が白過ぎるほどの純白。でも、無機質ではない。あたたかい。……
“――主に、お目通り願いましょう”
主に、会う。彼の言葉を聞いた途端、全身を戦慄が走り抜けた。感じたことのない恐れ。畏れ。本能が、何かが。
――会いたい。
片方の私が焦がれる。
――会えない。
もうひとりの私が震え上がる。
結局は後者が勝った。ミカエルに手を引っ張られていたけれど、とてもじゃないが立てやしなかった。腰が抜けたのとは違う、まるで地面に貼りついたように。恐怖。ただ怖くて。狂おしい愛に腕を伸ばせば、待ち受ける闇に身が竦む。私を無理矢理にでも連れ行こうとする弟の姿が、私を奈落へ突き落とさんとする恐ろしい“使者”に見えた。
“無理……無理だっ……私は、行けっ、ない……!”
“兄さま。主は、きっと兄さまを救ってくださいます。だから”
救う? 私を? 見捨てておきながら? そんな……っ
――ふと。
救う。私を。
――そうか。
“兄さ――”
“……い、こう……”
“兄さま!”
“行こう、主の、もとへ……”
そんな会話を思い出して乾いた笑みが漏れた。どうしようもなく空虚な笑いだ。
ごめんな、ミカエル。私はお前を二度裏切る。お前に私を――“殺させる”。
思いついたのだ。救われるということ。主にお会いするということ。我らの全てを握る主に身を委ねるということ。そうすれば、きっと私は。
――そうだ。私は今、主の御許にいるのだ。
無限に広がる白い世界の中でやっと思い出した。
さらさら。ふわふわ。ゆらゆら。
どんなに上質な布よりも滑らかで。
どんなに明るい陽だまりよりもあたたかくて。
どんなに可憐な花の香よりも甘やかな。
この身全てを包み込むような懐かしい温もり。主の懐に抱かれて、投げ出した体を緩やかに撫でていくような、愛情。包み込まれ、そっと触れられ。ずっとこの快楽に身を委ねていたい。溶けて、融けて、ひとつになりたい。欲望に押し流されそうになる。
――貴女が、欲しい。
叶わぬ望みを、天に。
――貴女の全てが、欲しい。
何もかも悟って老成したような。幼い赤子に戻ったような。ああ、貴女に、殺されるのなら。
――主よ。
叫んだつもりの声は音にならなかった。代わりに涙が、流れた。生理的な反射だろうか、それとも感情からだろうか。悲しいという感覚が思い出せない。透明な雫。生まれた時と同じ。良かった、良かった……あの方の前で美しい私でいられて。美しいままで、消されることができて。
『ルシフェル』
名を。私を、呼ぶ声が。
ぞくぞくとする快感。体の芯を直接震わせるような音色に、喘ぐ。私は貴女に殺される。貴女の中で永遠を手に入れるために。そう望んでいるのに、必然だというのに、やりきれない切なさが込み上げてくる。
『また 貴方に触れられて 嬉しいです』
――私も、嬉しいです。主よ。
理由はきっと、悲しいほどに食い違っているのだろうけど。
捉えようとした感触は手の中をすり抜けていく。貴女の手。握ればこの手は空を掴み。指先。くわえた瞬間口の中にはなく。脚。絡めようとすれば宥められ。傷つけられたいと願っていても、動きはまるで戯れ合いの如く。欲しい。恍惚と。もう何も考えたくない、ただ貴女だけを感じていたい。そしてできないから、つらい。
『愛しい子』
優し過ぎる、声が。嬌声と呼吸の音ではとても掻き消すことができない。
私を、どこまで貶せば気が済むのですか。嘲笑いたいのですか。貴女ならわかっているはず、私が何を為したか知っているはず。それでも望みを問うのですか。
『何か 反応をなさい ルシフェル』
――どうして私を殺してくれないのですか……
貴女は救いをもたらしてくださるのではなかったか。それとも、自ら御手を穢す価値すら私にはないと、そうお思いか。
手の中で弄ばれ玩具にされ、それでも私は貴女を求めている。他者を抱き締めるばかりの私を、たったひとり、抱いてくれる貴女を。
――早く……早く私を殺してください……消してください、主よ。……
胸が張り裂けそうだ。こんなにも強く願っているのに、なおも躊躇おうとする己の弱さが嫌いだ。大罪を犯したくせに。甘えるな。主のお役に立てぬ天使などさっさと消え失せるが良い。
お願いです、主よ。一度ならず二度までも死に損なうなんて、厭なのです。貴女にしか私は救えないのです。
『貴方は 愚か者です』
――それはわかって……
『いいえ 自ら命を絶とうとすることが 愚かだと 言っているのです』
ふっと愛撫が止む。
――待っ……!
迫りくる恐怖。私を離さないで。独りにしないで!
見えぬ温もりを必死で探し求める。本当の孤独は快楽の余韻を一瞬にして消し飛ばし、縋るものを失くした私をひどく混乱させた。
主は、一体何を仰っているのか。どうして突き放されるのか。全然理解できない。何故? 何故、償うことが愚かだと?
だって私は。私はあの時。
別の恐怖に襲われる。記憶に蘇る黒い衝動。刻んだ言の葉。確かに、私が、あの瞬間。
――私は貴女の大切な御子を傷つけた……人間を、呪ってしまった!
『貴方も 大切な子なのですよ』
――私はっ
『貴方の命も 失われては なりません』
わからない、わからない。主の仰っている意味がわからない。私は捨てられたじゃないか、役立たずだったじゃないか、ただ嫉妬に狂い他者を犠牲にしただけじゃないか。もう《光》も名乗れない私に、どうしろと言うのか。
――これ以上、恥を曝すのは厭です……
手を、早く、触れて、私を、壊して。
どうして救ってくださらない。一生辱めを受けたまま生きていけと? 何も……唯一望んだ貴女の愛情すら無い中で? これが罰だなんて酷過ぎる、惨過ぎる。
――私にはもう、耐えられないっ……!
『貴方は 何を 恥じているのですか』
――は……?
『誰に対して 恥ずかしく思うのですか』
――それは、
『貴方は 誰を 愛しているのです?』
――そ、それは、もちろん貴女、をっ……?!
雷に撃たれたかのような衝撃が全身を駆け抜けた。
おかしい、へんだ、どうして。合わない、理屈が、食い違う、何か。
私は主を愛していた。
愛していたから、私のことも愛して欲しかった。
振り向いてくれることが当然だと信じていた。
私は……愛されたかった。
ならば。
私が本当に愛していたのは――
――――っ!!
絶叫……空間を震わせて。
崩壊……内側から音が聞こえるよう。
虚無……そして全ては意味を喪った。
『ルシフェル』
……。
『気を確かに お持ちなさい』
……。
『間違いは 誰にでもあります』
……でも、
――私は、光だった。誤ってはならなかった。常に正しくあらねば、私は私でいられなかった……
『可哀想な子 大切な我が子 絶対の善悪など 存在しません』
――私には、何が正しいのか、わからない。
『正解はありません 自分で正しいと思ったのなら それが 貴方の敷く道』
――でも貴女はっ! この名を、責を、役割を!
『いいえ 貴方の生は 貴方のもの』
――……主よ。貴女は、何を以て世界を治めなさるのか。
『手を出すことはできません ただ 見守ることしかできない』
――ならば……ならば私の生まれた意味は……
『本当の意味で 自分のためにお生きなさい 子の幸せが 親の幸せ』
――私の幸せは、貴女のために生きること。それでも私を見放しなさるか。
『貴方がそれを望むなら 貴方に世界を託しましょう』
――ああ、主よ!
『けれどこの先 きっと貴方は 別の幸福を見出だすでしょう』
――別、の……?
『その時は 躊躇わずお往きなさい 盲目の御子よ』
――私に見えていないもの?
『さあ 責を担いたいのなら 他に考えることが あるはずですよ』
――他……
考えた。世界のために、主のために私が生きるにはどうすれば良いのか。たとえ主に優しい御言葉を戴いたとしても、私は過ちを償いたかった。もう一度《光》の名を。貴女に相応しい最高傑作の座を。幸福を“取り戻してみせる”。
知識を探した。記憶を辿った。生まれてから今に至るまで、全ての情景、抱いた想いが浮かんでは消えていく。
つい、この前のこと。旅から帰ってきた天使は。
“ねえルシフェル、”
美しい声で、
“あの都は面白いね。あそこなら世界を支配できる”
奴は、
“罪を犯した天使は天界には居られない。逆に言えば……”
私の望みを。
“罪を犯せば堕ちることができるよ、ルシフェル”
他に考えるべきこと。手出しできないと仰った主。善悪。咎められぬ思想。敷く道と期待。自負。
増える駒。進む焔。拡がる世界。天界。地獄。主なき……
そして彼の名前。愛する天使の名の意味が、負った役割の正体がやっとわかった。否定する。演じる。劇。ああ――“だから”私はあんなにもあの子に惹かれるのだ……
全てが、繋がった。
――主よ。
誤りかもしれないと思ってしまうのは私が臆病だからでしょうか。それでも尚行動することは勇気と呼べるでしょうか。自信を持つことができません。
けれど私は“いきます”。
一度は消えかけたこの灯火、再び燃やすことができるのなら。機会を掴み取ることができるのなら。私は永遠の幸福のために、一時の悲しみを甘んじて受け入れましょう。
『覚えていますね ルシフェル 貴方の傍には 愛があります』
それは生まれたあの日に言われた言葉。私を支え導く、最愛のひとの言葉。
――はい、覚えています。
本当は貴女の守護者になりたかったけれど。貴女の傍で最愛でありたかったけれど。……
涙で濡らしてしまわぬように、差し伸べられた温かな手にそっと口付ける。最初で最後、やっと掴むことができた、間違いなくこの世の何物よりも愛しい手。きっと永遠に忘れない。
そして私はその手を離す。温もりに別れを告げ、選んだ道へと踏み出すために。
――さようなら、主よ。
手向けに、微笑みを。
――またいつか、廻り合うその時まで。