Old Long Since【 M-15 】
無我夢中で手を伸ばした。時を止め、空中に浮かんだままの彼の体を抱き止めた。
――何故、貴方は!
何故目を閉じているのか。何故そんな――全てを諦めたような顔をしているのか。
兄が。昨日まで優しく微笑んでくれた兄が。温もりで包み込んでくれた兄が。《光》が。信じられなかった。悲しかった。思い切り、怒りをぶつけてやりたかった。
自分を置いて勝手に消えようだなんて……
「僕が許しませんからね、兄上……ッ」
ぐし、と目を擦って前を向く。泣くと、視界が悪くなるからいけない。まだ早い。
見た目以上に軽いその体を抱き、どうにか草の上に着地する。こんな、体で。彼は天界の全てを背負っていたのだ、剣を手に秩序を保ってきたのだ。知らず、呼吸が浅くなる。くたりと力のないままの痩躯。握っていた“時”を解放してやれば、ようやく彼は恐る恐る目を開けた。
紅い視線が彷徨う。
目が、合った。
「あ……」
呆然と、未だ怯えたように。
「ミカ……エル……?」
手が、さわりと頬に触れた。確かめるように両手が輪郭をなぞる。
「ああっ……」
安堵とも落胆ともつかない吐息が、色を失った薄い唇から漏れる。長いまつ毛は微かに震えて再び紅玉を隠そうとする。世界を、鎖そうとする。
「兄、上……ッ」
――お許しを。
歯を食い縛って片手を挙げた。
乾いた音が響く。見開かれる紅の双眸。
「ミカエル……?!」
剣の稽古以外で彼を傷つけようとしたのは初めてだった。
彼は赤くなった頬を片手で押さえて。その驚愕の表情、更には手のひらの痛みと胸の苦しさが自分を苛む。自分は今どんな表情をしているだろう。目の奥が熱い。顔の力を弛めたらきっと何も言えなくなる。伝えたいことがたくさん。どうして。何が。愛してる。大好き。ずっと一緒に。……
――どうして、永遠の別離を、選ぶの?
「――何をしてるんですか兄さまっ!! そんなに先の祝福を悔いているのですか?! それほどまでに貴方を絶望させるものは何なのですかっ?!」
溢れ出て止まらなかった。衝動に任せて叫んだ。これも戻せない言の葉。
途端に彼の体ががたがたと震え出す。恐怖しか映していない紅い瞳。光が失われ。やがて漏れたのは痛々しく擦れた声。聞いたこともない、声。
「おっ……お前には、わからないっ……私の、私の居場所、が……!!」
そして辛うじてそれだけを言うと、彼はその場に突っ伏してわっと泣き出したのだった。
愕然とした。
自分にはわからない……その言葉ももちろん悲しかったけれど。
目の前に蹲って慟哭し続ける彼が、ぼろぼろになってしまった彼が、とても弱い存在に見えたから。あんなに広いと思っていた背中も、今は頼りなく丸められていて。いつも頭を撫でてくれていた滑らかな手指は土を掴み。汚れひとつなかった白衣も泥に塗れ。乱れた黒髪の奥、頬を濡らす涙は留まりそうもない。
嗚咽、泣き声、悲痛な叫び。泣いている。あの兄が、己の感情を曝け出している。
――ああ、なんて、自分は。
馬鹿だった。何もわかっていなかった。
あまりに彼が完璧で。
あまりに彼が愛されていて。
あまりに彼が自信に満ちていたから。
「ごめんなさい、兄さまっ……!」
守ると誓ったのに気付くことができなくて。
「本当に……!」
――ごめんなさい、兄さま。
兄さまも、“ひとりの天使”だったのですね。――
跪きそっと手を伸ばした。すっかり弱ってしまった脆い焔を絶やすまいと、この小さな体で包みたいと思った。しかし彼は静かに、それでも確実に首を横に振る。拒絶、する。
「なん――」
「もう、いいんだ……」
何がいいというのか――体が震える。
彼は顔を両手で覆ったまま。嗚咽の合間に擦れ声が漏れる。
「放っておいてくれ……私は、死に損なった……もう、これ以上、惨めな思いをしたくない――」
「兄、さま……!」
“死に損なった”。助かった、ではなくて、死に損なった。彼の、この望みだけは、自分が止めなくては。何をしてでも彼の命だけは。だのに自分は限りなく無力だ。腕も、言葉も、眼差しも。兄はどれも求めていないのだ。
彼が望むは消滅。今やそれが安寧だと信じきっている、消滅。結局彼を救えないのか、自分に彼は……守れないのか。
悔しい。自分はなんて無力なのだろう。
大天使だとか《エレメンツ》であるとか、そんなもの。ただ愛するひとを救う力が欲しかった。彼は自分だけの兄であり、自分は彼だけの弟。特別な力も誇りある運命も何も要らないから、彼だけはどうか。
――消えないで。傍にいて。
幾度捧げたかわからない祈り。それでもだめなら、一体自分に何ができるというのだろう? 彼を救うことができるのは――……
――ああ。ひとりだけ、知っている。
「兄さま……」
すう、と深呼吸をした。それを言うのには、勇気が要る。本能的な緊張だ、避けられない。
唯一彼の立場を敬わないひと。彼が、甘えることを厭わないであろうひと。
もしも彼の傷が少しでも癒されるのなら。悔しいけれど……自分は、“あの方”を信じて全てを託そう。
「兄さま……“主”に、お目通り願いましょう」
「……っ!!」
刹那。痙攣でもしたように全身を跳ねさせ、恐ろしいくらいの表情で彼は勢い良く首を横に振った。まるで発作のような。乱れる呼吸。苦しそうに喘ぎ、震える腕で体をかき抱く。
自分以上に畏怖を感じているのか、それとも。
「無理……無理だっ……私は、行けっ、ない……!」
嘘。知っている、これが彼の本心なんかじゃないこと。会いたくないわけがないのだ。だって彼は誰よりも――きっと自分よりも主を愛していたのだから。
そして彼に救いをもたらすことが可能なのは主だけなのだ。何としても連れていかなければ。でないと、彼は……。
「兄さま。主は、きっと兄さまを救ってくださいます。だから」
泣かないように唇を噛んで、座り込んだままの彼の手を取った。立たせようと引っ張り上げようとしても、彼はずっとうつむき首を振るばかり。細い体のどこにそんな力があるのか。傷ついた姿は弱々しいのに、頑としてそこから動こうとしない。
ひたすらに拒絶の言葉を繰り返す彼。聞き取れない呟き、しかしその意志は固すぎて。意志。行きたくないだけではなく、彼は“生きたくない”に違いないのだ。
――お願いします、立ってください、兄さま。
とうとう自分もそこにへたり込んだ。悲しくて悲しくてどうすることもできない。ぽたり、と滴が零れる。お願い、お願いだ。どうか立ってください、生への一歩を再び踏み出してください。自分の傍で笑っていてください。
「兄さ――」
「……、こう……」
顔を上げた。涙に霞む視界の中、いつの間にか彼は首を振るのをやめていた。ぼんやりと虚ろな目をして遠くを見つめ、細い細い声で言葉を紡ぐ。
「行こう、主の、もとへ……」
「兄さまっ!」
――良かった!!
喜びが溢れる。これで彼は助かるのだ。心の声は届いたのかしら。自分は思わず微笑んだのだけど、彼はどことなく上の空。
やがてよろめきながら立ち上がる長身に慌てて肩を貸す。おぼつかない足元はまだ力が入っていない証拠だ。ぐったりとしなだれかかる体。そして耳に届く囁き。「早く、行かなければ……」――そう彼は何度も何度も繰り返していた。まるで気でも狂ってしまったみたいに。
***
「――ザドキエルっ!!」
時を止め、兄を連れて。再び訪れた《天意の間》の中には真っ白な部屋の主しかいなかった。ガビィやウリィやラフィは? ……人間は? まあ、いないでくれた方が都合は良いのだけど。
焦る心と裏腹に、ゆっくりと彼がこちらを向く。《器》の彼は静かに赤い目を細めた。
「やあ、ミカエル、それにルシフェルも。お帰り」
そんな、悠長に、していられない!
ザドキエルに当たってはいけないとわかっているけど、あんまりじゃないかと腹が立つ。兄がこんなにぼろぼろだというのに!
「で、君達は何を――」
「ザドキエル! お願いします、主にお目通りを願いたいのです!」
「主に?」
す、と彼の表情が消えた気がした。あの垂れた前髪の奥、美しき天使は何を見つめるのか。
「…………そう」
思わず息を呑むほどの冷たい一言。ザドキエルはこんな声をしていたろうか。《器》の声は注ぎ主の想いを表してはいないだろうか――。
ひどく不安になる自分の前で、けれど兄はふらふらとザドキエルが突き刺さる水晶柱のところへ。引き留める間もない。また口元には微笑を湛え、何かにとりつかれたように。
「……祈りを」
ザドキエルの言葉に黙って跪く兄。震える声が幸いを紡いでいく。
何故か、止めないといけない気がした。
「あっ、兄上」
でも動くことができなかった。呼び掛けるだけで精一杯。足が、否、体が動かない。見えない力に縛られたよう。
主を讃え詠う天使の長。そしてそれを“見下ろす”白の天使。不可解で、気持ちが悪くて、この上なく美しい画だった。
やがて祈りが、終わる。
「……それで君が満たされるのなら」
ザドキエルが、何かを呟いた。ほとんど吐息に紛れてしまいそうな、聞き覚えのない不思議な響きの言葉。それが唱えられた瞬間……兄の体が水晶の床へと崩れ落ちた。
「兄上っ!?」
呪縛が解けでもしたように唐突に軽くなった足で駆け寄る。
「心配要らないよ」
息があるのかなんて、そんな恐ろしいことを確かめようとしていたら、先に頭上からザドキエルの声が降ってきた。はっとして見上げると、白の天使はいつも通りにどこか気の抜ける微笑を浮かべていた。声音も、穏やかだ。
「大丈夫だよ、ミカエル。彼はちゃんと主のもとへ行ったんだ」
「本当に……?」
「肉体は入れ物に過ぎない。再び彼がその中に戻れば、意識を取り戻してくれるよ」
腕の中の端正な顔を見る。では今抱いているこの体は、真の意味で“脱け殻”なのだ。「あれ? じゃあ僕は肉体だけの存在なのかねぇ……」と、ザドキエルはそんなことをひとり呟いてはクスクス笑っている。
「ねえミカエル」
「はい」
「君は、お兄さんのことをどう思う?」
「え?」
――何を、いきなり。
「ん?」
「……兄は素晴らしい天使だと思います。強くて、美しくて、気高い」
永遠の目標。そして、最愛の。
「ちょっとだけ、多くを背負い過ぎるところがありますけど……でも、兄のことは大好きです。心から愛していると、胸を張って言えます」
「そう。すごく愛されているようだね、君のお兄さんは」
「どうして急に……?」
尋ねると、彼はまた肩を揺らした。何色にも染まっていない純白の、《器》。
「特に理由はないさ。強いて言うなら、“僕の”興味、かな。さて、どのくらいで彼は帰って来るのかねぇ……」