Old Long Since【 L-15 】
――とうとう、やってしまった。
ついに私は主の御意思に背いたのだ。これでもはや自分は……完全に《光》ではなくなった。
真に《光》であるならば、本当にあの方を愛しているならば。私は最期まで微笑みながら彼らの幸福を願うべきだった。どす黒い欲望など持ち得るはずがなかった。
だが私は嫉妬してしまった。衝動に屈した。
……悔しかったのだ。
何も為していないくせに、私が消えた世界で彼らが幸せになることが。そして、私のいた証が全て飲み込まれ忘れ去られることが。
「……ふ、ははっ……」
漏れたのは泣き声ではなくて、わらい声。
涙は出るのに。誰にも見せられないような、汚れた色の涙が。美しい心は二度と戻っては来ない。
後悔なんて、していない。
そう、私は満足している。最後に新たな《最高傑作》に傷をつけてやったのだ! あの土塊共は例外なく運命から逃れられまい。永久に。
如何に優れていようとも、如何に主と天使の加護を受けようとも。彼らの灯はいつか必ず消える。どんな栄誉も愛情も幸福も、手に入れたもの全てが価値を失う未来。必ず終わりのある命。私が、私が定義してやった! ……
「…………」
……満足、しているはずなのに。
それなら――どうして私はこんなに虚しい? 空の心は満たされぬまま。私は、一体何を得たのだろう。
……私の選択は、復讐に、なるのか。
「ぁは、は……」
我ながら小さな天使よ。情けない。なんと卑怯な。所詮はこの程度の器だったのだな、私は。これではどうせ大した《祝福》もできなかったろうよ。
だが、もうどうでもいいのだ。
責めるならば責めるがいい。
罵るならば罵るがいい。
失望するなら……すればいい。
いずれにせよ、私は今ここで――死ぬのだから。
いつの間に、この場所に戻っていたのだろう。気が付くとそこは高い高い崖の上。
懐かしい風景だ。以前はよくここから天界を見渡しては感動に身を震わせたもの。
空の蒼。木々の緑。白亜の居城。降り注ぐ陽光。響く歌声。
これが私の世界。私が照らすべき場所。……だった。そしてそれ以外に私には存在価値がなかった。ここまで来て漸く知った……私は自分で思うほど特別な存在ではなかったんだ。何も――あの方が思うようなことは、何も成していなかったんだ。
――斯くも美しき世界よ。
ああ、懐かしい。あの頃はまだ主のお側に自分の居場所はあった。愛されていた。束の間の栄光を与えられたことには、感謝すべきなのだろうか。
――私を切り捨てた世界よ。
しかし私の役目はとうに終わっていたらしい。私は気付いていなかったけれど。誰を切り捨てようと、世界は何も変わらなかった。せめて気付かせてくれれば、良かったのに。そうしたら私は恥をかかずに済んだのに。
変わらない。何も変わらない。空の蒼。木々の緑。白亜の居城。降り注ぐ陽光。響く歌声。こんなに苦しいのに、受けた愛を裏切ったのに。あがくのも嘆くのも、馬鹿みたいだ。たとえこの先自分というちっぽけな存在が消え去っても、世界は何一つ変わらないに違いない。今と同じように。
天に、腕を伸ばした。陽は確かにそこにある、光は確かにそこに存在する。けれどもそれは手を差し伸べてくれやしないのだ。苦悩も知らず、ただ天高く輝くばかり。
――ああ。世界は、残酷なまでに美しい……。
さあ、“終幕”だ。
この崖から身を投げてしまえば全てが終わる。少しの怪我では助かってしまうだろうが、この高さならばきっと大丈夫だ。
それに。万一生き延びてしまっても、もうここには存在できないだろう。世界が私を消そうとするだろう。私はもう《光》ではないのだから。主は……私を必要としないのだから。
私は選んだ。声は届かず、結論は覆すことができなかった。だからこそ己が身を犠牲に、未来を“道連れ”にしてやると決めた。せめてここに私が生きた証を、と。
――私は病気なのだろうか?
自問する。肩についた一枚の羽根が目に入った。他の者はこれを白いと言うかもしれない。だが私の目には、くすんだ灰色にしか映らない。
だからこれは私の翼ではない。
私の翼は白かった。限りない純白だった。……光を、帯びていた。
病気かもしれない。血の涙も、抜け落ちてしまった羽根も、この空っぽな心も。不治の病に違いない。
――ならば尚更。
もう考えるのは止めにしよう。
今、私はここで消える。それで何もかもが終わる。死よ、早く迎えに来るが良い。影よ、早く連れ去るが良い。この存在を、私を、一刻も早く喰らってくれ。もう嫌なんだ、耐えられないんだ。醜態が、過去の光に満ちた日々までをも侵してしまうことが。生きるほどに全てはきっと無に帰する道を辿る。足跡を永遠にする幸福くらい願わせてくれ。せめて過去だけは守らせてくれ。永遠に未来を紡ぐことのない私に。
「これで、いいのだな……」
いつぞ私に語り掛けてきた名もなき声の主人に問う。内なる響きは、今回はなかった。――彼にも見捨てられたのか。
「そう……そうか」
わかった、わかったよ。もう、いい。疲れた。私が享受すべき幸福は、私の働きと力に見合った愛情は、この世界のどこにも残されていないらしい。
全て振り切って、淵に立った。地面は、見えない。
吹き上げてくる冷たい風。一瞬たじろいだ。……暗い。こんなに高かったろうか。天界にこんな闇が在ったろうか。
足元の地面の消失、浮遊感。吸い込まれる感覚。視界がぐらりと揺れた。
――死んだら、どうなるのだろう。
そんなどうしようもないことがふと気になった。“堕ちる”、のか? 否……既に堕ちているのか。償い。罪状は。審判。誰が裁く。その機会は与えてもらえるのか。
そして……あの方は悲しんでくださるだろうか。こんな身になった私でも、消えたら嘆いてくださるだろうか。そうであればいいなと思った。それが、少しでもあの方の御心に留めていただけていたという証明になるから。
次に見えたのは勢い良く流れていく風景。酔いそうだったから、黙って目を閉じた。風が、殴りつけるように全身を打つのを感じる。力を抜いた体は大地に引き寄せられていく。
飛ぶのとは違う。これも、良いかもしれない。楽で。
今の自分には何も託されていない。翼も、無い。
気楽で……
身軽で……
虚しくて。
――お別れだ。
美しき世界よ。主よ。私は……主を愛していました。信じてもらえなくても構わない、ただ、本当なのだと言わせて欲しい。
だからせめて、この想いが憎しみに変わらぬうちに消えてしまいたい。この温かな想いを抱いたままに。願わくは、罪深き愚者の最期に幸福を。慈愛を。
こんなにもあっさりと世界を捨てることができるなんて、なかなか自分も薄情なものだ。やはり《光》失格なのかもしれない。
許せ友よ、善き仲間よ。諸君の長は脆弱な卑怯者だった。己のために責を捨てた。何も為さずに傷跡だけ遺して。光の歴史に染みを残して。
――けれど。
ひとつだけ、心残りがあるとすれば。
あの子にだけはちゃんと別れを言いたかった。謝りたかった。
懐かしい日々。まるで陽だまりのような私の幸福、私だけの宝もの。会いたい、会いたい、会いたいよ、今でも。温もりを抱き締めたい、腕の中にあの子を抱きたい。
でも、そんな資格を失くしたことはわかっている。
私はここで全てを断つけれど、届かないかもしれないけれど、祈りだけは捧げさせてくれ。小さなこの焔でも役に立つのならいくらでも使ってくれ。どうか、どうか、彼の行く末が数多の光明で照らされんことを。
「ミカエル……っ」
ただもう一度だけ美しい響きを口にしたかった。彼の役割は何だったのだろう。とうとうわからないまま私は彼に別れを告げる。
熱い。自分の中にはまだ流せる涙が残っていたのか。今更、こんなにも溢れてくるなんて。怖くて確かめられない。どうかこの涙は紅くありませんように。
きっとお前は謝罪など欲していないのだろう。いつかのように、謝らないでくれと言うだろう。それでも私は言わなければならない。私の愛しい子。ずっと一緒に……そんな約束も果たせなくて。今までの言葉全てを嘘にしてしまって。
――すまない。お前は、元気で。
――『兄上!!』
ああ……あの子の声が聞こえる。ここにいるはずがないのに。
幻? それとも夢?
でも、構わない。気のせいでもいい。世界よ。これが最後の贈り物なら、私は……