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Old Long Since【 M-14 】

 

 人間の《祝福》。これから主の寵愛を受けるであろう人間の。

 

 最初、主の御言葉には驚いた。正直なところ、まさか自分達天使よりも上位に立つ生き物がいるとは思わなかった。それだけの自尊心はあったつもり。

 しかしよくよく考えてみれば、主の愛を受けるべきは天使だけではない。主は全てを見守ってくださるのだから。その主が序列をお決めになったのなら、そこには確固たる理由があるはずなのだ。無垢……とはいえ、天使にはない何かを人間が持っているはずなのだ。

 全ては主の御心のままに。

 よく聞かされた言葉。そして、その通りなのだから。

 

 人間の祝福は、《エレメンツ》と天使長という大天使五名が行う。この人数だけでも、主がどれほど人間を大事に扱いなさっているかがわかる。

 重要な役割だ。そして最高の栄誉だ。《天意の間》に向かう今も、体が奇妙に熱くて、胸が高鳴る。

 やっぱり緊張。《エレメンツ》の一員となっていちばん日が浅い自分は、少なくとも他の三方のように談笑する余裕はない。

 

「ほら、ミカエル。顔が強張ってるわよ」

「あ、うん……」

 

 そうだ、笑顔笑顔。

 頬をくいっと両手で持ち上げると、ガブリエルは可笑しそうに笑った。

 案外気を楽にしているな、という感想を持つ。ガブリエルもウリエルもラファエルも、表情は穏やかで、そして明るい。誰もが光栄に思っているのだ。自分だけではない。

 けれど、珍しくも最も口数が少ないのは大天使長――兄、だった。元から決して騒ぎたてるような性分ではないが、道中一度も口を開いていないのは少し変だった。彼もまた緊張……しているのだろうか。

 

「兄上、なんだかドキドキしますね」

「…………」

 

 いつもなら、「そうだな」と笑って頭を撫でてくれるのに。

 

「兄上……?」

 

 全くと言っていいほど反応しない。ちらりともこちらを見ず、視線はずっと床に落ちている。

 思い返してみる。ベリアルに呼ばれて……でも帰って来た時は別段変わった様子はなかった。それから召集を受けて……うん、確かにザドキエルの言葉に衝撃を受けてはいたけれど、そんなことは自分達と一緒だ。そして解散して部屋に戻って……今朝、今に至る。わからない。そういえば、ここに出てくる前にラファエルが声をかけていた。「具合でも悪いのか」と問われ、その時も兄は返事をしなかった。ただ黙ってうつむき微かに首を振っただけだった。

 本当に、大丈夫だろうか。

 不安になって見上げる。返事をしてくれないのは単に聞こえていないだけかもしれないが、顔色は悪いし、心なしか目の周りが赤く腫れていて。泣いた跡……? ――まさか、彼は強いのだもの、皆そう言っているもの。それに泣く理由も思いつかない。喜ばしい《祝福》の日なのに。では、働き過ぎ……? というわけでもなさそうだった。昨夜ちゃんと眠れなかったのだろうか?

 

 どう声をかけようかと迷っているうちに、兄達の足は止まる。

 見慣れた扉の前。昨日も、そして《祝福の儀》で何度も訪れた部屋。

 その扉を開ければそこは煌めく水晶の間。中にいるのは――

 

「やあ」

 

 中央に立つ鋭利な水晶柱。そこに仰向けに突き刺さっている真っ白な天使、ザドキエル。主の御言葉を伝える《器》役を負った天使。

 

「さすがは皆さん。時間ぴったりだねぇ」

 

 そして。

 クスクスと肩を揺らす彼の目の前、床の上にはひとつの揺りかごがあった。あの中に、祝うべき《人間》が。

 

「もう説明は要らないね? じゃあ、早速始めておくれ」

 

 ザドキエルの言葉に、前へと進み出る。若い順に行おうということになっていたから、最初は自分が行くことになる。

 

「わ、ぁ……!」

 

 ――覗き込んだ揺りかごの中に眠る小さな生き物。“本当に見た目は天使にそっくり”。穏やかな寝顔、無垢な微笑。力なんてまるで感じないけれど、美しいと、思った。これがこの先、主の寵愛を受ける――否、お受けになるのか。そう思うとなんだか嬉しくなった。

 意識を集中させ、しまっていた翼を広げる。背中が熱い。身体中を駆け巡る力を感じながら、跪いて主への祈りを捧げる。

 《祝福》の本質は、新しい創造物の幸福を祈ることにある。だが今回は自分達の上位になるという人間への祈り。特別な贈り物をすることになる。

 他の天使達は、何を与えるのだろう。

 自分が、与えるものは。

 

「我、ミカエルは汝に――《勇気》を」

 

 赤子にそっと口付ける。まばゆい光が体を覆う。これで彼らの内には、他のどの生き物にも負けない武勇の精神が宿ったはずだ。

 ――行く先に、幸福のあらんことを。

 祈り、微笑む。不思議なあたたかい気持ち。自分も、幸せなのかもしれない。

 

 自分が戻るとすれ違うようにラファエル。それからウリエル、ガブリエル。

 

 ラファエルは《治癒》を。

 ウリエルは《光明》を。

 ガブリエルは《慈愛》を。

 

 そしてとうとう兄の番になった。

 一体どんな贈り物をするのだろう。最も気高く美しい天使の長は、何を与えるのだろう。

 期待を込めて白い背を見つめる。自分達と同様に、兄も軽く上向いて翼を広げた。――が。

 

「兄上……?」

「ルシフェル……」

 

 変、という言葉では済まされない気がした。

 彼の背に生えたのは、大好きな、美しい黄金の光を帯びた巨翼ではない。

 輝きを失った翼。どこか翳りのある白い翼。見事だった一対の巨翼は、羽根が抜け落ちてぼろぼろだった。

 

「…………」

 

 兄は黙って膝をつく。さすがのザドキエルも、うっすらと瞼を持ち上げてその姿を見下ろした。

 そんなことには一切構わずに、祈りを紡ぐ声は細く、一字も違えず静かに響く。完璧なのに何故だろう、温もりが抜け落ちているような、そんな詠唱。

 

 ――後になって思えば、異変に気付いた時に力ずくでも止めるべきだったのだ。

 

「我、ルシフェルは……」

 

 ――だがこの時は誰も動くことができなかった。

 兄の様子がおかしい。わかっているのに体が動かない。本当にまずいことになるという直感。やっと自分にも危機感が迫ってくる。彼の様子が、異常だ。いけない。止めなきゃ。わかったのに。

 その間に彼は全てを終わらせていた。呟くと同時に、青ざめた唇で素早い口付けを。

 

「汝に……《死》を」

 

 ――死。

 何が、起きたのだろう。自分の聞き間違い?

 いつも彼は主の意思を体現したかのように生きてきた。だからきっと今回も。そう思っていたのに。

 彼は今……死を与えると、言ったの?

 これが主の意思? それとも……兄の……?

 

「…………」

 

 上位に置く、と。主がそう仰った生き物に、それは贈られてはならないはずなのに。

 何事もなかったかのように彼は立ち上がる。自分達はただただ呆然としたまま。黒い前髪が流れた。垣間見える、何も映さない紅の双眸。――悟った、気がした。

 

 《エレメンツ》による四つの贈り物は確かに人間を優れた生き物にした。天使よりも優れた生き物にする……可能性があった。

 だが彼が贈ったものは、人間を他の生き物と同列にしてしまった。命に制限をもたらす言の葉は、もう取り消すことなどできはしない。彼らが悠久を生きられないことが確定した、瞬間。

 

「――ルシフェル、お前!!」

 

 鋭い声にはっとなる。真っ先に動いたのはウリエル。気付けば、兄が、胸ぐらを掴まれていて。

 

「なんということをっ!」

「落ち着いてウリエル!」

 

 ガブリエルが悲鳴をあげる。間に入ろうとした彼女を押し退け、ウリエルはなおも兄に食ってかかった姿勢のまま。彼の気の強さは今に始まったことではない。さすがに仲間に掴み掛かったことはなかったけれども。

 そう。それだけのことを、兄はやったのだ。

 震えが止まらない。今にも泣き出してしまいそう。確かに兄のしたことは……だけど自分は……彼を信じている、愛している。彼は無意味にこんなことをしない、彼の事情も知らないで責めないでよウリエル――。違う、違うのに。やめて、やめて、お願いだから――

 

「やめて……っ」

 

 思わず隣に立つラファエルの服を握った。兄が変なのは、疲れのせいなんかでは、なかった。

 

「お前はっ!」

「……慎め。ここは主の御許なるぞ。……」

 

 乱暴に襟を掴まれたまま、彼の震える唇が動く。

 不自然に小刻みな震えを繰り返す手。体を揺さ振られる度に舞い散る数多の羽根。……光を失った、虚ろな目。

 

「兄上っ……」

 

 足が竦んで、動けない。心の中ではずっと叫んでいるのに、届かない。

 違う、やめて。どうか兄を責めないで。これ以上彼を追い詰めたら、彼はきっと、

 

「こ、われちゃう……」

「ミカエル?」

「――壊れちゃう、兄さまが! 消えちゃうっ!!」

 

 ――あの結末が、あの紅い未来が、二度と動かぬ、彼が。

 

「落ち着いて、ミカエル!」

 

 叫んだ。どうして、届かないの? なんで誰もわからないの?! このままじゃ、兄さまが、兄さまがっ!

 だって彼は主に背いたのじゃない。彼は影に身を渡したのじゃない。彼の瞳に映るそれは、――“絶望”、なのだから!

 

「……せ、と……」

「っ?!」

 

 悪寒が。兄が纏う気配が異常だと、逃げるためにか救うためにか、一歩踏み出した時には遅かった。遅過ぎた。

 

「離せと――言っているッ!!」

 

 かっと見開かれた紅の双貌。ぼろぼろの翼が目一杯に広がる。刹那、放出された力が突風となって空間を震わせた。もしも彼が本気を出したなら……そんな恐ろしい想像に硬直してしまう。どうしよう、どうしよう、行かなきゃいけないのに!

 

「危ない!」

 

 容赦なく荒れ狂う風、留まるところを知らない力の奔流。ラファエルは後ろから自分を包み込み。ガブリエルは身を呈して揺りかごを庇うように。どうにか結界を展開したウリエルは身動きの取れぬまま兄の近くに。誰にも、誰にも彼の力は止められない。

 

「兄さまっ!!」

 

 ラファエルに背を支えられながら必死で叫んだ。一瞬、彼がこちらを見る。

 それは温かくて穏やかな目ではなく、ただ凍てつくような冷たさと鋭さを孕んで、胸の奥を貫いた。

 

 しかしそれもほんの一瞬のこと。彼は突然慌てたように片目を震える手で覆うと、まるで顔を見せまいとするかのように素早く踵を返したのだ。

 

「兄さま待って!」

「ルシフェルっ!」

 

 そうして誰が手を出すよりも先に、何事かを呟きその場から姿を消してしまった。怯えたような表情のままで。

 

「……何が……」

 

 呆然と呟いたラファエル。同じく呆けたように揺りかごから身を起こしたガブリエルの向こう、水晶柱に突き刺さった白い天使が口を開く。

 

「ミカエル、行きなさい」

 

 呼ばれたのは自分の名。長髪は乱れていたが、ザドキエルの赤い視線は真っ直ぐにこちらを見つめていた。それは見たことのない彼の表情。美しい顔には有無を言わせぬ威厳と自信と、悲哀と。

 

「ぼ、ぼく、は……!」

 

 ……でも、嫌だと、思った。救いたいけど、できない。だって自分は結局彼を――

 

「ミカエル、君が追わなければならない。――早く!」

 

 思わず涙が引っ込むくらいの大声。抗えない。飲み込むようにうなずき、急いで能力を解放した。

 

「か、《解放》……時空縮合、《イレイプス・レイプス》!」

 

 ――時よ、縮め!

 


 《天意の間》を飛び出す。何をすればいい、何ができる。わからないままに(かけ)る。

 兄の能力は《存在干渉》。先の唐突な消失も、恐らくいつも通り、自身の存在を他の場所へと移したのだろう。彼の移動距離に限界がない以上、周囲の時を止め、かつ自分の周りの時を縮めて“最速”で隈無く捜すしか方法はない。早く、速く見つけなければ。

 

 執務室、廊下、寝室、中庭、外庭。いない、いない、いない。見当たらない、彼の気配を感じない。宮殿の中にも庭園にも。外? 彼が行くとしたら何処だろう?

 

 本当に“居ない”のでは……恐怖心を必死で振り払う。火照った頬を風が冷やしていく。少し、落ち着いてきた。

 飛びながら思う。ザドキエルは、自分にこの能力があるから指名したのだろうか? 怒鳴った、のだろうか?

 ふと考えて違和感を覚える。

 

 “君が追わなければならない”

 

 あの言い方。自分でなければならない、その理由とは。

 それに……ザドキエルはあくまでも《器》であったはずだ。自らの意思を持つことはない、そう本人も言っていた。主の意思を受け、伝えるのみ。となると、あの言葉は……

 

 しかしそこで思考は中断された。

 宮殿からかなり離れた木々の中に飛び入った時、遠くの断崖の上に求めていた影を見つけたからだ。やはり彼はここにいた。

 ああ、懐かしいあの崖。この光景。いっそ皮肉みたいだ。

 誰が忘れるものか。初めて彼を見た日の、胸躍る喜び、込み上げる切なさ。《光》を目にした感動を。

 

「兄上っ!!」

 

 時を解放し、声を限りに叫んだ。焼け付くように喉が痛い。届いて。どうか振り向いて。

 ゆっくりと全てが動き出す。彼の体も、自分が辿り着くよりも先に。

 

「兄っ――」

 

 ――あの日の彼の背には、黄金に煌めく巨大な翼があった。

 でも、今、崖から宙へと投げ出された体には。

 

 翼は、なかった。

 

「――!!」

 

 風を孕んだ白衣が膨らむ。翻る金刺繍の長衣、あれは彼の誇りの証ではなかったか。

 黒髪が流れる。絶望の底へ叩き落とされたように、まるで何もかもを諦めたように目を閉じているくせに。口元には、哀しい、微笑。

 何も持たず、全てを身に負ったまま。先に人間(かれら)へ《死》を贈ったその美しい天使は。

 

 独り、自らも死への道を辿り始めた――。


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