Old Long Since【 L-14 】
「…………」
「お疲れ様でございます、ルシフェル様。お部屋にお戻りになりますか」
「…………」
「ルシフェル様?」
「あ、あ……退がって良いぞ、アルベルト……」
「えっ。いえ、ですが……どこかお加減でも?」
「良いから退がれ。頼む……ひとりに、してくれ……」
***
――どうして。
何故、何故、何故。頭の中を巡るのは疑問ばかり。
――どうしてですか。
この、空虚さ。全てが崩れていくような。何もかもが消えてしまうような。
――どうしてですか、主よ!!
叫びたい。問いかけたい。だが、声が出ない。喉から漏れる擦れた音は言葉を成さない。届かない。……届かない。
凍えそうに寒いのに、身体中が熱い。手足の、感覚が。私は存在できている? 現実に生きている? 言うことを聞かない体、そこに在るのかさえ曖昧な体。全身が小刻みに震えるのも止めることができずに。
――どうして……
見慣れた部屋……自分の部屋だ、ここは。どうやって辿り着いたのだったか。途中で誰かに声をかけられた気もするが、定かではない。何も覚えていない。記憶の隅にあるのは、ただ――
“人間を天使の上位に”
――人間が、私よりも。
色褪せて見える家具。質素な内装。
壁に立て掛けてある剣が、ふと目に入った。
――私よりも、主のお側に。
どうして自分ではないのだろう。どうして人間なのだろう。どうして光ではなく土塊なのだろう。
自分は主に身を捧げてきたというのに。忠誠も敬愛も忘れたことがないというのに。一度たりとも、裏切ったことなどないというのに!
自分は。
――自分が、主に“裏切られた”……?
冷たい感触に我に返る。
気付くと両手で剣を握りしめていた。切っ先は己の喉に。
――死のうと……?
怖くはなかった。寧ろさっさと喉を切り裂こうとしてくれない両手が、言うことを聞かずに震えるばかりの両手が鬱陶しかった。そうだ、この剣ならば救ってくれる。これで自分は消える。世界から消えることができる。居場所を失って尚しがみつくなんて、惨めな醜態だけは。
無理に力を込めれば首に下手くそな切り傷がついた。血が垂れる。じわりと白衣に染み込んで、紅い花が咲く。手よ、動け、動いてくれ。念じているのにびくともしない両の腕。何も儘にならないもどかしさに、悔しさが込み上げる。
「……っ」
ほら。あの時のような手のひらを灼く痛みもない。主は止めようとなさっていないじゃないか。ならばこれが主のお望みか? ――ああ、可笑しい。可笑しな話だ、実に滑稽だ。結局全ては私の思い込みだったと? 最初からこんな結末のために私は生かされていたと? 傑作だ、愚か者め!
この姿を誰に見せられるというのか。落ちぶれた、ただの使い捨て。主に必要とされていない自分に、もはや存在する理由など残されていない。
存在する理由は、何ひとつ……
(『――それでいいのか?』)
「ぁ……?」
……声を聞いた。腕に力を込めるのを一瞬忘れる。必死にわらおうとしていた頬が、動かない。
醒めていて、燃えていて、甘くて、鋭くて、どこか懐かしい声。聞き覚えがある、ような。まるで旧知の仲、無二の友のような気もする“誰か”。不思議だった。誰だろう。わからないのに、“彼”なら自分の想いを理解してくれる気がした。“彼”は味方だ……そう直感して安心した。優しい声は――少なくとも表面上優しさを装う声は、自分の内側から直接頭の中に響いてくるよう。
(『それで貴様は満足なのか? 今までの生はどうする?』)
――今まで……
自分は常に《光》であろうとした。主の御期待に応えようとした、名に負う責を果たそうとしてきた。
道を敷いた。主のために。
規律に忠実だった。主のために。
全身全霊の愛を捧げた。主のために。
主がお喜びになると思って。主がそれをお望みなのだと信じて。当然だ。何故なら私はあの方を心から――
(『それは間違っていたか?』)
…………。
(『貴様は、寵愛を奪われているだけ』)
主の、ために……。
(『悪いのは誰だ?』)
悪いのは――――人間。
(『見ろ、貴様は正しい。今までも、これからも』)
私のせいではない? 状況が私を追い詰めた? 確かに、人間さえ誕生していなければ。奴らさえいなければ、自分は、自分だけが。
この手には剣がある。
人間さえ――消して、しまえば。
…………。
……本当に?
本当に、正しいのか? “それが主のお望みの結果なのか?”
やはり私は……私はあの方が……
彼らも、愛するあの方の大切な御子ならば。彼らを消してしまったら、あの方は二度と私のことを――
(『迷うな! 思い出せ、人間が貴様にもたらした災厄を。思い出せ、貴様に為された仕打ちを!』)
幸せな日々。――人間が誕生するまで、主の傍に侍ることを許されたのは自分だった。
(『信じるな。寵愛を奪ったのは奴らだ。だが奴らを生んだのは誰だ?』)
光に満ちた時。――幸福だった。間違いなく私は幸福だった。何もかも満たされていたのだから。知恵も武勇も寵愛も。全てが手の中にあった。望んで手に入らないものはなかった。
自分は紛れもなく《光》だった。《光》であろうと力を尽くした。
(『貴様はもっと評価されるべきだろう? 私は知っている。ずっと貴様のことを見てきた……』)
「……っ」
甘く絡み付いてくる声が、煩い。黙ってくれ! 私は考えなければ、考えなければ。信じないなんて、そんなことは、あり得ない! ――嫌だった、どうしても。何を言われても、それがたとえ味方の言葉でも、あの方を裏切るなんてできない……! こんなに愛しているのだ、お慕い申し上げているのだ。“裏切られる理由なんてないはずだから”。
あの方はいつだって正しい。きっと今回も私達のために何かの意図が……
考えろ、冷静に。何が起きた。自分はどうすればいい。
信じ、なければ。これは何かの間違い、夢想。もしくは……そうか、わかった! わかりました、主よ! きっと貴女は私に伝えようとなさったのでしょう? 私がより良い、貴女に相応しい唯一無二の至宝となれるように、これを成長の糧にするようにと仰っているのでしょう?!
私は考えます、考えます。貴女の想いを汲み取ることができるのは、私だけなのですから!
――お前は、間違っている!
内なる声に告げた。
――あの方が私を見捨てるはずは
人間、なんて。結局私のための糧に過ぎなかったのだ。そうに違いない、違いない。見よ、私は最高傑作のままだ!
(『そうか。ならば、』)
……けれども、返ってきた声は自信に満ちていて。
(『何故、奴らが生まれる必要があった? 何故、奴らを上位に置くという――理が、生まれた?』)
では何故?、と。
私が力を尽くしたのなら。何故、自分よりも上位にあの土塊が。
(『受け入れよ、《光の子》。この世界に貴様の価値をわかってくれる者はない……。貴様はもう“用済み”だと言われたのだ、見放されたのだ』)
それは……
(『無用な思考を。哀れで孤独な御子よ、裏切られたままでいいのか? 仕返ししてやりたくはないか? さあ、黙って剣を……!』)
その答えは……
――私自身が。
「……あ」
理解、した。できてしまった。避け、きれなかった結論。
耳に入ったのは剣が床に落ちた鈍い音。強張っていたような全身から一気に力が抜けて、そのまま地面に膝をつく。
崩れ落ち、震えながら見下ろした両の手のひら。血の気のない白い手。穢れなき真っ白な、手。
――本当は、私の方が、主の理想に至らなかったから……
“彼”の言う通りなのか。直視してはならなかった現実。あり得て良いはずもない真実。一度認めれば、私という存在は根幹を失い。
――私が、完全なる《光》になれなかったから……
だとしたら、もう私に剣は扱えない。
視界が滲む。紅く、紅く。世界が染まっていく。
――私が、失敗作で力不足だから……
つ、と頬を伝う水の感触。震える両手を濡らした液体は命の色。深い紅色。
全て、全て、溶けてしまえ。消えてしまえ。愛を疑う愚か者なんて、責も果たせぬ役立たずなんて、不要になった駒なんて。
――だから……
だって生まれた時に流した涙は、こんな色をしていなかったのに。明るく澄んでいたのに。それがもう濁ってしまったから、だから。
――主は、私よりも人間を愛することになさったのですね――
前が見えない。世界が濁っていく。紅い涙が、止まらない。
「……ああ……っ」
痛い。
胸が。
心が痛いのです、主よ。
愛しいと。そう仰ったではありませんか。
ずっとお仕え致しますと申し上げた私に、ありがとうと。
最高傑作だと。
そう仰ったではありませんか。
私を、愛してくださると……
「あ、あいして……くださると……っ」
そう、仰ったではありませんか!
それなのに、主よ。
それなのに……どうして……
「どうして、私ではないのですかっ……」
たった一言でいいのです。たった一言、貴女にとって私が必要であると、その言葉をもう一度聞きたいだけなのです。
それさえ叶えばもう何も要りません。休息も仲間も他の愛も、何も望みません、求めません。貴女さえいてくれるのなら……貴女が、私だけを見てくださるのなら!
「…………」
(『――これで、わかっただろう?』)
内なる声に、うなずく。彼は応えてくれる。でもあの方は。
沈黙が。その、沈黙が、答えなのですね。
では……せめてこの声が届きますように。褒めてください主よ、私はわかりました、理解しました。――でも、それでも。受け入れられないのです。納得が、いかないのです。教えてください、罪ならば、この身を永遠に消してくださっても構わない、ですから。
教えて、ください。
何が足りなかったのですか。何が欠けていたのですか。叱ってください、導いてください。私はどうすればよかったのですか、どうすればよいのですか。
果たして私は間違っていたのでしょうか。どこで、何が、何を。光明を奪わないでください、――待って、ください。
主よ。それはもう、取り戻せないほどの過ちなのでしょうか。貴女が私を……捨てるほどの。
「あ、ああっ……!」
世界が暗い。
もはや私の目には光明が見えないのです、主よ。己が身を導いてくれていた、たった一筋の光さえも。
(『仕返しを、したくはないか?』)
主よ、主よ。全てが崩れていきます。何もかもが消えていきます。失われるのを感じます。
そして、私も。
(『貴様ならできるはず――』)
……光であったはずの、この、私も。