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Old Long Since【 M-13 】


 陽が、完全に姿を見せ終える頃。一日の始まり。執務に取り掛かるには早過ぎる時間帯、気持ちの良い朝にちょっとお散歩。儚い白が深い黒を追いきった空の下、中庭の木々は露を纏って本当にきれいに輝いていた。

 その中の一本の根元。幹に背を預けて、大好きな彼が眠っている。景色に負けないくらいに美しい天使の黒髪がそよ風になびいて、端正な顔立ちが顕になる。ここにいたんだ――どきんと弾む胸。お散歩に出てきてよかった。

 寄り道、寄り道。とん、と庭に下りる。手足を投げ出すようにして眠る彼の傍には、模擬剣ではないあの長剣が鞘にきちんと収められて無造作に置いてある。多分、早朝から素振りでもしていたのだろう。身に付けている白衣も動きやすそうなもの。休憩するつもりが眠ってしまった、とか。

 

「兄上」

 

 膝をつき、彼にだけ聞こえるような声で呟いた。そっと触れてみた白い頬は傷ひとつなくて滑らかだ。この光景を、彼を含めたこの美しい世界を切り取りたいと思った。どんなに上手な絵描きでも描けないような名画を。

 

 次第に大気が温かくなってくる。小鳥が盛んにさえずりを交わす。時間も忘れて見惚れる前で、ぴく、と目蓋が動いた。

 切れ長の紅い瞳がゆっくりと現れる。眠たそうに瞬き。それからこちらに焦点が結ばれる。自分は心のままに笑って。

 彼はぽかんと口を半開きにしたまま固まった。

 

「おはようございます、兄上」

「ミ……ミカエルっ?!」

 

 余程驚いたのだろう、素っ頓狂な声をあげて兄はとび上が……れなかった。後ろは木の幹。退がる代わりに強かに背を打ち付ける音が響く。

 

「い゛っ!」

 

 刹那、賑やかな羽音と共に一斉に鳥達が空へと舞い上がる。木の上で羽を休めていたみたいだ。あ、朝から悪いことをしてしまったかも。ごめんなさい、鳥さん達。

 

「な、えっ? ミカエルが、なぜ?」

「お散歩をしていたのです。何だか緊張、してしまって」

「そ、そうか……」

 

 昨日の伝言。普段とは違う何かが起こりそうな予感に、とてもではないけど寝台でじっとしているなんてできなかったのだ。恐らくは兄も。

 

「今日は一段と早いのですね、兄上」

「ああ、まあな」

 

 ふあ、と欠伸をする姿は執務中には絶対に見られない。天使の長は軽く首を回してから、瞳を潤ませて照れたように柔らかく微笑んだ。

 

「おいで」

 

 伸ばされる両の腕。膝立ちのまま、されるに任せて彼を求めた。背中の力強い腕を感じながら肩口に頭を埋める。あたたかい、やさしい。嬉しいのに何故か泣きたい気分になった。

 

「お前はあたたかいな、ミカエル」

「兄さま……」

 

 なんて自分は幸せなのだろう。毎日毎日こうして抱き締めてもらう度に実感する。今日は朝から甘えてしまった。ちょっぴり気恥ずかしいのは成長の証なのだろうけど、まるで心に灯りが(とも)ったみたいな気持ちになる。何だか、良い日になりそう。

 

「僕、早起きして良かったです」

 

 うん、と兄はうなずいた。溶けてしまいそうな甘い香りが温もりが、どうしようもなく好きで好きで大好きで堪らない。

 ずっとずっと彼を感じていたいと思った。せめて今だけは、彼は自分だけのもの。みんなの大天使長ではなく自分だけの兄さま。

 

 ……けれど、早起きなのは自分達だけではなかったようで。

 

「――いたっ、いたよ!」

「ほんとだっ!」

 

 ぱたぱたと駆ける複数の足音に自分は慌てて兄から体を離して振り返った。切り替え、しなくっちゃ。そっくりなふたつの高い声は聞き覚えがあったし、そして彼らの前では自分は“大天使”でいなければならないと知っていたから。

 案の定、先を争うように中庭へと下りてきたのは、鏡像の如き瓜二つの青年達。鮮やかな黄金色の髪を乱して、弾けるような笑顔でこちらへやってくる。

 

「ルシフェルさま!」

「ミカエルさま!」

 

 兄の胸に飛び込んだのは赤い襟巻きをしたメタトロン。

 自分に抱きついてきたのは青い襟巻きをしたサンダルフォン。

 双子の天使は茶色い大きな瞳を輝かせながら、息をきらして見上げてくる。背中をそっと撫でてみた。ちょっと情けない話だけれど、“甘えさせる”ことに慣れていない自分の対応はややぎこちないものになってしまう。まして彼らとは体格が同じくらいだから、天使としての年齢は自分の方が上だとわかってはいても、なおのことそうだった。

 

「おはよう、メタトロン、サンダルフォン。朝から元気が良いな」

 

 対する兄は手慣れたもの。優しい微笑も、滑らかな手の動きも、幼い天使を安心させることをよく知っている。

 ……少し、だけ。悔しいなと、思った。

 

「ルシフェルさま、すきー!」

「ああ、ああ。私もお前達のことが好きだよ」

 

 他の天使達に向けられる愛情。それでも自分が堪えられるのは、彼が自分以外の天使に“愛してる”というその言葉を囁かないから。口付けをしないから。だから不安にならずにいられるけど……。

 

「ミカエルさま?」

 

 メタトロンに比べれば幾分おとなしい弟が首を傾げた。

 

「げんき、ないです。どこかいたいのですか?」

「え、いえっ……」

 

 覗き込まれてはっとなる。彼らには、この心の内をあまり知られたくなかった。ひいては兄にも。

 

「平気ですよ。ありがとう、サンダルフォン」

「へへっ」

 

 あどけない照れ笑い。可愛いものは可愛い。このほっこりした気持ちもおとなになった証かなと思う。甘えるのにも色々あるんだ。

 

「ところで、一体どうしたんだ?」

 

 問うたのは兄。双子を交互に見やる瞳には穏やかな光。

 

「そうだった!」

「そうだった!」

 

 見事に口を揃えた双子は急にばたばたと慌ただしく。自分と兄が不思議に思って見つめる先で何かを探している。長い外衣も、内に着た衣も、果ては下の服まで。全てをひっくり返すような騒ぎの後で……やっとサンダルフォンが勝ち誇ったような声を小さくあげた。

 

「あった!」

 

 その手に握られていたのは一枚の紙。手紙だろう。きれいに折り畳まれてはいるけれど、凝った装飾がないのを見る限り、ごく個人的な伝言だと思われた。香が焚き付けられてはいるらしく、すぐ近くにいた自分の鼻腔を甘い香りがくすぐった。

 

「ルシフェルさま、これっ――」

 

 しかしそれを奪ったのはメタトロン。目を見開く弟を尻目、今度は兄が満面の笑みで手紙を差し出す。

 

「ルシフェルさまっ、これ――わっ?!」

「なにするんだよメタトロン!」

「かえせよサンダルフォン! ぼくがルシフェルさまにわたすんだ!」

「ぼくがやる!」

「いいや、ぼくだっ!」

 

 とって、とられて、とって、とられて、……。紙は受け取るべき兄の手に渡る前に、既によれよれになってしまっていた。せっかく丁寧につけられていた折り目も皺に紛れてしまう有様。

 

「ほらほら、ふたり共」

 

 見兼ねた自分は苦笑しながら仲裁を買って出る。手紙を一旦ひょいと取り上げ、頬を真っ赤にして興奮する彼らの頭にそれぞれ手を置く。彼に褒められたいのは、よくわかるけれど。

 

「ルシフェル様がお困りですよ」

「どちらからも受け取ってやるから。ふたりで一緒に渡してご覧」

 

 自分の言葉に兄もうなずく。その表情は寧ろ楽しそうなくらいだ。実のところ、彼は全然困っていないことを自分は知っている。

 大好きなルシフェルさまに(なだ)められてしまっては、双子ももう争うことはできない。少し不満げな顔をしたが元々仲の良い兄弟、どちらからともなくうなずいて、一緒に紙の両端を持つと兄に差し出したのだった。

 

「はい、ルシフェルさま」

「おてがみです」

 

「よくできた。偉いぞ、ふたり共」

 

 にっこり笑った兄の視線は、歓声をあげてはしゃぐ双子から件の手紙へ。……と、彼の笑顔は一瞬にして怪訝そうなそれに変わる。

 

「どうしました、兄上?」

 

 困惑したような表情。答える代わりに手紙を見せられる。……手紙?

 

「え、これは……?」

 

 そこには何も書いていなかった。字も絵もない、白紙。香は焚いてあるらしいのに、染みひとつないまっさらな――皺くちゃではあるけれど――紙。

 双子の悪戯? それはあり得ない。

 

「誰からの手紙だ?」

 

 無邪気な双子は屈託なく天使の名を口にする。

 

「ベリアルさまに」

「たのまれました!」

 

 思わず兄と顔を見合せた。その瞬間の空気を感じ取るには彼ら双子はまだ幼さ過ぎた。ベリアル。頭の中を駆け巡るたくさんのこと、美貌、旅から帰って来たという彼。たったひとりの天使の名に言い知れない不安を感じているのは、兄もまた同じであるように見えた。

 

「ベリアル……なるほど」

 

 そして彼は何かを理解したようだった。物憂げと言ってもいいようなため息をひとつ、それから再びただの白紙を読むように手元へ引っ込めた。

 

「ベリアルは、」

 

 自分が疑問を口にするより先に。

 

「あれは、確か《念》を送ること“も”できたはずだ」

「《念》?」

「ああ。媒体となるものに自らの心の声を詰めて、痕跡なく直接的に語り掛けることができる」

 

 ならば、あの美しい天使は兄に何かを伝えようとしているのか。語ろうとしているのか。痕跡なく、というのがベリアルらしいと思う。

 

「あれは弁舌に長けているからな……。最も自分に有利に事を進める方法を、よく知っている」

 

 兄にしては珍しい、ぼやくような口調だった。やっぱりベリアルは不思議。兄にこんな反応をさせるのだもの。

 

「ベリアルさまの」

「ねん、って」

「ぼくらの“とくぎ”とにているねっ!」

「ねっ!」

 

 双子はそんなことを言う。なるほど、確かに彼らの“能力”も似ているかもしれない。ただ彼らの場合、ふたり揃っていないと発動しないはずだが。

 

「そうだな」

 

 兄も楽しそうに微笑む。彼も自分と一緒にふたりの成長を見守ってきたから。

 兄が手紙を読み始めても双子はその場にぺたんと座ったまま動かなかった。自分と同様、見惚れていたのかもしれない。何か特別な手紙のようだけれど、静かな微笑を湛えて目を横に動かす様は普通に文字を読んでいる時と変わりない。この落ち着いた様子の彼も、好き。何をするでもなく同じ空間にいられることが幸せ。

 

 しかし、彼の笑顔はそこまでだった。

 

「なに……?」

 

 ぽつりと呟かれた言葉。見開かれた紅い相貌。凍り付く微笑。まるで本当に目の前にベリアルがいて会話しているように。

 

「……ふ、」

 

 その、瞬間。

 

「――ふざけたことをっ!!」

 

 ぐしゃっ!、と握り潰される手紙。激昂。衝動。兄は今や歯を食い縛るようにして怒りに震えていた。剣を振るう時とはまた違った苛烈さ。紅い瞳が、怖い。

 一体、何事か。呆気にとられた自分の前、双子が肩を寄せ合いとうとう泣きだす。

 

「……ミカエル……」

「は、はいっ」

 

 唸るような声は最高に不機嫌な響き。ベルフェゴールさまよりも激しい声音。敵意が明後日の方向を向いているから、辛うじて竦まずに済んでいる。

 

「……少し、行ってくる。召集には間に合わせるから先に行っていなさい」

 

 返事より早く鳴らされる指。当然、傍らに置きっぱなしだった剣を掴むことも忘れない。きっとベリアルのもとへ向かったのだろう。

 ――どうか、ご無事で。

 願った。ベリアルだって仲間の天使であるはずなのに、兄の心配をしてしまう自分が少し嫌で。でもさっきの兄の様子は尋常ではなかった。あんなにもあからさまに“素の感情”を見せることなんてないのに。一体ベリアルは何を“語った”のだろう……?

 ぼんやりしていた耳に入った泣き声に、我に返る。目の前ではメタトロンとサンダルフォンが泣いたまま。ああ、と慌てて宥めようと試みる。彼がこのふたりに構う余裕もないなんて……。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 

 同時に自分にも言い聞かせるように。もっと力強い言葉があれば、と黄金の頭をふたつ撫でながらそんなことを思った。


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