Old Long Since【 M-12 】
「――天使の諸君も悪魔の諸君も、今夜は存分に飲み明かそうじゃないか!!」
メフィストフェレス先生の音頭に歓声があがる。杯を交わす澄んだ音があちこちから聞こえる。楽隊が、緩やかな音楽を奏で始めた。
先生を含めみんなが手伝ってくれたおかげで、どうにかほとんどの日程が終わりつつあった。この晩餐会が終われば、後は明朝、無事に使節の皆さまをお送りするだけだ。
自分の従者達も控えめながらも気を幾分緩めて談笑しているのを見かけた。向こうにはエレメンツの三方、それとベルゼブブやアシュタロスの姿も。そして……ああ、兄はメフィ先生の隣で苦笑している。
いいな、いいな。本当は一緒に語り合いたい、歓談に加わりたい。仕事から解放された今、できないことはないのだ。それでも自分はきょろきょろしながら、会場をひとりで歩き回っていた。たったひとり――あの白銀の悪魔さまを探して。
あの悪魔さまが賑やかな談笑に進んで加わるとは思えなかったが、それでもいわば主賓だ。会場にいないのはおかしなことだった。
「ベルフェゴールさまを見ませんでしたか?」
「あっ、お疲れ様ですミカエル様! ベルフェゴール様のお姿は……はて、お見かけしませんでしたね。それよりお料理はいかがですか?!」
「ありがとう、後でまたお願いしますね」
天使に聞いても悪魔に聞いてもわからない。一体どこへ行ったのだろう、ベルさま。ベルさま。
ベルフェゴール、という名前は以前の自分なら上手く発音できなかったに違いない。もちろん今は平気。しかしどうも自分は、他のひとを呼びやすいようにあだ名をつけることが癖になっているらしいのだ。ベルフェゴールさまの場合、本人の前ではとても呼べないと思うけど。
料理の間を縫いうろうろし続け、それでも出会えず。今日こそはたくさん話をしたかったのに……と残念な気分で、外へと続く大きな窓を開けた。何だか宴会に参加する気分にはちょっとなれなかったから。
晩餐会の会場である広間の窓を開けると、外側にも露台――屋根のない床部分が少し張り出している。酔い醒ましに使われることもあったが、本格的な宴は始まったばかりだから誰もいないだろうと思ったのだ。数えるほどしか立ち入ったことはなかったけれど、眺めがきれいで実はお気に入りの場所のひとつ。
少し落ち着いてから戻るつもりだった。“先客さえいなければ”。
「あっ……」
夜風に靡く白銀の髪、揺れる黒衣の裾。自分の声に振り向いた顔は相変わらず無表情で、彼は驚きもしていなかった。
「貴様か」
そこにいたのはベルフェゴールさま。思ってもみなかった遭遇に、嬉しさと緊張に体が震えた。
ベルさまは別に自分の存在を気にしないらしい。すぐに興味を無くしたように視線を彼方へ転じ、手摺りにもたれかかった。残念なような、良かったような。勇気を出して隣に並んだ。せっかくの機会だもの。
「あの……すみませんでした。この接待がお気に召さなかったようで……」
主賓がこんなところにいるのだ、彼にとってはつまらない行事だったのだろう。そう思ってまず謝ると、灰白色の瞳だけがこちらへ移る。
「誰がそんなことを言った」
「えっ? ですが……」
「悪くない、と俺は言ったはずだが」
言った、確かに言ったけど。あれが誉め言葉? まさか!
ますます悪魔さまのことがわからなくなった。とてもじゃないが会話が続かない。どうしよう、今更引き下がれないし……。早くも自分は露台に出てきたことを後悔しはじめていた。
窓越しに耳に入る朧気な旋律は、いつの間にか跳ねるような明るい曲調に。優しい夜風が吹いていく。もっと強く吹いてくれたらいいのに、と思った。そうしたら戻る口実ができるのに。
「……貴様は宴には出ないのか」
ぼーっとしていた自分は、最初それを隣の悪魔が言ったのだとは気付かなかった。まして話し掛けられたなんて。
横を向くと今度は顔ごと見下ろされているのに気付く。端正で隙のない顔立ち。一瞬見惚れそうになって、慌てて口を開く。
「は、はいっ。ちょっとだけ休憩しようと思ったんです」
「責任者なんだろう? いいのか」
「それを言ったらベルさまだって――あ」
――い、言っちゃった!
急いで口を押さえるも時既に遅し。不機嫌そうに跳ねた眉を見て、時間を戻してやろうかと本気で考えた。
「貴様も、そう呼ぶのか……」
でも吐き出されたのは叱責の言葉ではなかった。“も”? やっぱりいるんだ、他にも。でも失礼なことをしてしまったことに変わりはない。
「すっすみませんでした」
「別に……影でそう呼んでいるのなら俺の前でもそうすればいい」
「いえ、影ではなくて心の中で……あぅ」
――自分は何て馬鹿なんだ。
「……同じことだろうが」
盛大なため息が聞こえる。ベルフェゴールさまにも呆れられたようだ。
「呼びたければ好きにしろ」
意外だった。怒られるかもしれないと思っていたから。
「いいのですか?」
「駄目なら許可など口にしない」
「そっ、そうですよね」
円滑、とは言えなかったけど、仲良くなる大切な第一歩だ。嬉しくて思わず笑う。
「ありがとうございます、ベルさま。どうか私のこともミカエルと呼んでくださいね」
彼はちょっと不思議そうに首を僅かに傾げた。けれども拒絶の言葉は口にしなかった。
何だか一気に距離が近くなったように感じる。少なくとも自分はほんの数刻前よりもずっとくつろいでいる。極寒の悪魔さまの隣に居ても、だ。
「本当は、ベルさまとお話がしてみたかったのです」
だから思い切って打ち明けてみた。
「俺と? 何故」
「んと……お友達、になりたかったのです。悪魔に会うのは初めてでしたから」
彼はようやく驚いた顔を見せ、少しの間押し黙ってしまった。無表情を崩せた……そう思うとまた嬉しくて、意味もなくへへと笑ってしまう。
「……まったく、調子が狂う……」
頬杖をついてわざと自分から目を逸らすベルさま。こうして横顔を眺めるとますます女性的な顔立ちに見える。
「調子? 体調が優れないのですか?」
「……」
心配して尋ねているのに。彼のため息を聞くのは何度目だろうか。
「貴様は、」
「ミカエルです」
「……。ミカエルはよく俺の機嫌を伺うようなことを言う」
「そう……でしょうか?」
「そんな弱気なことでは長にはなれんぞ」
今度は自分が驚く番。天界の長に? どうしてそんなことを気にする必要があるのだろう?
「私は長になれなくても良いです。兄がいますから」
「もしルシフェルが位を退くことが――」
「あり得ません!」
思っていたよりも大きな声が出た。ベルさまも目を見開いている。慌てて後ろを振り向いたが、幸い、自分の声は楽隊の演奏に掻き消されて宴の場には届いていなかったようだ。ほっと一息吐いて手摺りを握りしめる。冷たかった。
「何なんだ貴様ら兄弟は。むきになりおって」
「ごめんなさい。でも、兄がいなくなるなんてあり得ないのです。あり得ては、いけないのです……」
あの紅い未来を紡ぐまいと、彼の胸の中で自分は確かに誓ったのだ。彼が位を譲るのは全ての終わりと同義。だから、あり得ない。
「まあ貴様ら天使は半ば霊体だからな。わからなくはないが」
困ったように呟くベルさま。霊体。記憶を必死に辿る。予習の時に読んだはず、読んだはず。
「霊体と肉体……?」
「ああ」
思い出した。一般的に天使はどちらかといえば“霊体的”で悪魔は“肉体的”であるらしい。どちらの要素もあるけれど、よりその傾向が強く現れる。つまりは。
「俺達悪魔は互いを滅ぼすことができる。己の力で」
故に悪魔は好戦的だとかで一部の天使に恐がられているのだ。“自分の力だけで”他者を消すことができるから。
一方の天使は肉体よりも霊体的な面が強いために、多少の傷で存在が消えることはまずない。血を流し弱りはすれど、余程のことがない限りはほぼ不死身。天使を裁くことができるのは主と、主に許されたごく一握り……否、一つまみの天使だけ。自分が知っているのは“あの剣”を授けられた兄と、正確には聞かないが恐らくは《器》であるザドキエルも。
「ベルさまも、その、誰かを……」
「俺は万魔殿の統括者。権力には犠牲がつきもの……聞かなくともわかるだろう」
実質的に幹部を束ねているという彼はぶっきらぼうに言う。万魔殿の最高責任者――《蒼氷》、ベルフェゴール。
いくら本性だとわかっていても知りたくないと思った。だって少し話しただけでもわかったもの、ベルさまは本当はとってもお優しい悪魔さま。
「天界では生まれながらに序列が決まっていて、且つ誰もそれを乱そうとしていない。それが俺には信じられんな」
「でも、ベルさまは怖くないのですか?」
「謀反が怖くて長などやっていられるか。だからこそ俺達は必死で生きる。他を蹴落としてでも、目的のために裏切ってでも」
驚くほど饒舌なベルさまだったけれども、その切れ長の瞳は寒々しい光を帯びていた。冷たいのに燃えるような。本当はそんな言葉も聞きたくなかったけど、それが悪魔の生き方ならば仕方がないこと。天使がどうこう言うべきではない。
「チィッ……喋り過ぎたか」
彼は舌打ちと呟きをひとつずつ。何をそんなに苛立っているのだろう? しかめられた端正な顔を、そっと首をすくめて伺い見る。
じろりと零下の視線が降りてきた。やっぱり、ちょっと怖いかもしれない。
「……他には」
「え?」
「他に何か話があるのかと、聞いている」
怒ったような声音。また反射で謝りかけて……はたと気付く。もっと前向きに捉えてもいいのだろうか、彼の言の意味は自分の解釈で合っているのだろうか。
「あの」
目の前の悪魔さまは無愛想だけど、一度も“帰れ”なんて言わなかった。自分が隣にいてもそのまま付き合ってくれた、名前を呼んでくれた。
「いろんなことを聞きたいです。地獄のこと、ベルさまのこと、悪魔さま方のこと」
書で読んだけれども、彼らの口から生の話が聞きたい。
そう言うとベルさまは。
「何が楽しいのかさっぱりわからんな」
フン、とつまらなさそうに鼻を鳴らす。肩にかかっていた儚い銀糸が音もなく零れて、闇夜の中で光をまぶしたように煌めいた。すごく、きれい。
「早くしろ。俺の気が変わらんうちにな」
頬杖をついた姿勢のままでぼそりと呟かれた低い声。面倒くさいと言わんばかりの響き。それでも彼は自分を待つ。待ってくれる。
「……やっぱり、ベルさまは優しい悪魔さまですね」
知らず知らずのうちに笑みが零れた。
「何か言ったか?」
「いえ。――あっ、何かお飲み物をお持ちしますね!」
緩やかな夜風も今は心地いい。空が白むまで、宴が終わるまで、ううん、他の誰かが露台にやってくるまでにたくさんお話をしよう、仲良くなろう。複雑な表情で曖昧な返事を寄越した悪魔さまを背後、再び室内に踏み入った足取りはずっとずっと軽い。
――悪魔さまと、お話しができました!
後で報告するのも楽しみ。ふふっ、と今度は声も零れて。自分はとてもわくわくした気持ちで、銀盆からふたつの杯を手に取った。