Old Long Since【 L-12 】
まったく、前日のミカエルの様子は見ていて気の毒なほどだった。そもそも使節が――あの子にとって初対面の悪魔が――ベルフェゴールだと聞いた段階で、少しばかりの不安は確実に感じていたのだが。
あの子のことを考えれば下手に口出しすることはできなかった。だから私ができる精一杯は、眼前に座っている悪魔に苦言を呈することくらい。
「あまり我が弟をいじめないでくれないか、ベルフェゴール」
す、と灰色の視線がこちらに滑ってきて止まる。白銀の悪魔、地獄の《蒼氷》、幹部一の切れ者。様々な名はどれも的確で、私も初めて会った時にはその鋭利な空気にたじろいだ。話をするうちにそれが敵意ではなく、生来彼が備えたものだと悟った。他の悪魔にも会ったことはあるが……彼ほど相手に緊張を強いる悪魔はいないと思う。
「いじめる? 俺がか?」
互いの従者もおらず、ふたりきりになった部屋の中。どことなく肌寒く感じるのは、未だまともに笑顔を見たことのないこの悪魔のせいだと私は確信している。
「そんなつもりは微塵もないんだがな。ああも純真無垢な幼子は、扱い方がわからなくて困る」
「幼子って……大天使だと言ったろう?」
つい熱くなる。可愛い可愛い私の弟。あの子を泣かせたら誰であろうと許さない。まあ、会談の場で話すことではないのかもしれない。が、ミカエルこそ私の幸福なのだ。公私混同? 構うものか。
ベルフェゴールはじっと私を見つめていたが、やがて
「善処しよう」
と淡々と言った。信じるからな、私は。
「して、」
ふと部屋の入り口に目を遣った悪魔。私もつられてそちらを一瞬だけ見る。あの扉が会談中に開くことはないだろう。
「……一体何の話をするつもりだ。わざわざ人払いするなど」
少々付き合いにくいがそれでも、聡い悪魔は話がわかる。無論、私とて無意味に飲み物のおかわりを我慢したりはしないのだ。注ぐ者の出入りがないものだから、私は極々少量ずつの茶で唇を濡らしている。
公式な会談の場。当然互いの近況報告もあろう、その中には統治する上で学ぶべき点もあろう、だが。ベルゼブブらに協力してもらい、どうにか“あの”知識を掴みかけているこの数日。降って湧いたかのような悪魔との対話の機会。私が話題にすることなど、決まっている。
「なあ……“世界の端”を見たことがあるか、ベルフェゴール?」
柳眉がひそめられた。元々反応の種類に乏しいから、それが表すものは疑問か不快か判然としなかったが。私が微かな優越と興味を感じていたことは否定するまい。
「端?」
「そう、端だ」
またも私は説明を試みる。実際にこの目で確かめてきた“端”のこと、存在すら知らなかった“虚無”のこと、そして天界の拡大のこと。
話を聞いている間中、彼は顔色ひとつ変えなかった。腕組みをしたまま、ただ固い表情で私を見つめていた。
「……それで貴様は、」
やがてため息と同時、私を“貴様”呼ばわりする珍しい悪魔は疑問……というより確認の言葉を吐き出す。
「俺にそれを確かめろと言うんだな? 地獄が、地獄の端がどうなっているのかを」
首肯する。一瞬灰色の双眸に何かの色が過ったが、捉える以前に悪魔は深々と椅子にもたれて目を閉じてしまった。白銀の髪がふわりと広がり、静かに落ち着く。
「……俺達は天使のように暇ではないのだが。常に己の居場所を確保する隙を伺っているからな、全体の枠組みなど知ったことではない」
「だが万一のことがあれば全てが無に帰す。考えたくはないが……。行動しないのは賢明ではないと私は思う」
「誰も断るとは言っていない。ただ、安穏と囲われている貴様らが羨ましくなっただけだ」
ぴしゃりと言われ少なからず戸惑う。この悪魔に関してはいつものことだと、わかってはいるのに。
「俺達悪魔は日々生きるのに必死なのだ」
「天使とて……」
「貴様も知っているはず。天界にはない地獄の掟を」
微かに口を歪める悪魔。こういった嘲笑じみた笑顔ならたまにしてくれる。そして私はこの笑みがひどく嫌いで、同時に強かさを感じて憧れてしまう。……“憧れ”? どうしてなのだろう?
「弱肉強食。強さこそが俺達の社会の全て」
「……」
「力無き者は強者に従うのみ。貴様らのように“出自”など関係ない。運命? 笑わせてくれる」
「だが、」
鼻白んだ悪魔。口を開くも何を言ったら良いのかと戸惑う。
何かに心を乱されていく。正体はわからない。しかしここで反論しなければならない気が、どこかに掴まることのできる杭を打ち込まねばならない気がする。論点がすり替えられつつあるのはわかっていたが、それでもほんの少し連ねた言葉によって悪魔が優位へと一歩踏み込んできたのを感じた。これもまた、強者と弱者の論理なのか。――私が劣るとは断じて信じないがな。
私が唇を噛んで黙したのを見、再度ベルフェゴールは鼻を鳴らす。
「まあ戯れに付き合ってやらんことはない。だが俺がどうにかできるのは万魔殿という都市だけ。恐らく貴様が期待している“下”の調査に関しては責任は持てない」
首を縦に振り了承の意を示す。知っている、わかっている。我々天界と交流があるのは、地獄と名乗りつつもその一部――最表層に過ぎない万魔殿。地獄の本質ではない。万魔殿の更に下、地獄の深奥……
「……《煉獄》を司るのは誰なんだ」
「知らん。何度言えばわかる」
幾度も繰り返されてきた問答。いつもそうだ。この話題に触れればあまりに鋭角な敵意が突き刺さる。殺気が空間を満たす。それでも私は尋ねずにはいられないのだ。主のご加護も寵愛も、ともすれば存在すらも信じていないかもしれない彼ら悪魔が、決して触れようとはしない禁域。まるで定められているかのように。運命を否定するのと同じ口で、あの場所には立ち入ってはならないと“当然の”認識を語る滑稽さ。
「煉獄には万魔殿の幹部がいると聞いた」
「ああ、いるさ。名目上な」
忌々しそうに吐き捨てるベルフェゴールは、今にも部屋中を凍りつかせる勢いだった。実質的に万魔殿の全権利を持つこの強者は何を思っているのだろう。タン、と少し強めに、黒く重たそうな靴の底が床を叩いた。
「俺達は“王”の存在を知らない。“主”の存在も信じない。救われることなどないからだ」
「救われることを求めているのか。天界には主がおられる。ならば地獄における“母”は誰なのだ」
「…………」
私の疑念は悪魔の苛立ちを助長しただけのようだった。少し立ち入り過ぎたか――きつく引き結ばれた唇を見て後悔する。
「……すまない。事が事だから、私も平静ではいられないのだよ」
「ふん」
「結局は……」と相変わらず投げ遣りに悪魔は。
「絶対的なものがある方が支配は容易い。掟も裁きもひとつの名の下で定めればいいのだから。本当に支配しているのは……果たして誰なのだろうな」
誰……それは誰と誰の間で問うているのだろう。あの方か我々か? 少なくとも支配という言葉は好ましくなかった。そのような、意志を踏み躙る体系が楽園にあるはずが。
「支配などではない、ただ」
後が続かない。悪魔は私を暫し無言で見つめ、それからふいと目を逸らした。話題の終わりを告げるかのように。
「……疲れた。他にはないのか」
無言で肯定を伝える。私も一気に疲れを感じて、椅子の背もたれに体重を預けた。全く予期せぬ方向に話が転がっていってしまった。互いに心の準備ができないままに。
ベルフェゴールは気難しい顔で虚空を睨んでいる。仮に話し合うべき事柄が残っていたとしても、もうどちらにも他の協議をする余力はないように思われた。
「……不躾ついでに、言ってもいいか」
沈黙の中で唐突にぼそりと彼は呟いた。彼にしては珍しく、相手の許可を仰ぐ形で。
「ずっと気になっていたことだ」
私を見る灰色の視線。その半眼は眠たそうだった。だが奥底に湛えた光は力強いまま。
「構わない。何だ」
「些細なことだがな……貴様のその目の色、」
気だるげに持ち上げられた腕、一本の指が私の目を示す。
「血の色にそっくりだ」
なんて脈絡のない。
意図も意味も、はじめは何と言われたのかさえわからずに、ただ惚けたように悪魔の言葉を反復する。
「血の、色……」
――つきん、と。いつかの頭痛が私を襲う。あの時のような手の爛れはないだろうが。今の私は丸腰だ。
血の紅は見たことがある。それは生命の証明であり……同時に武力と傷とを連想させる、どことなく忌み嫌うべきものだった。剣を手に軍を率い断罪しているにもかかわらず、私にとってはそうだった。
痛みは去ったが私は眉根を寄せたまま。気付いていないはずもなかろうに、ベルフェゴールは語り続ける。
「紅は命の色だ。本能の具現だ。誰よりも生きることを望み、満たされることを願い、……そのためには犠牲も流血も厭わない俺達の本性の色」
“俺達”の中に含まれているのは悪魔だけだろうか、或いは――私も含めた――命ある全てだろうか。
「何故、それを」
「全てが最初から決められているような場所で貴様がその瞳を持つことが、何か意味のあることかと思っただけだ。俺はそんなに鮮やかな紅を見たことがない。……少なくとも、狂った悪魔以外ではな」
主から授けられたこの瞳は紅。そしてまた、血に酔い己を御することができなくなった悪魔も紅い瞳を見せるという。
「……私が狂っているとでも言いたいのか」
無意識のうちに拳を握りしめていた。声を震わせた感情は怒りなのか、それとも。
「命ある者は誰しも狂っている」
救いになりそうな言葉も、平坦な調子で空虚に通り過ぎていった。
私は一体どうすれば良いというのだ――生まれ持ったものを、創られたに過ぎないこの身で。理不尽な憤りが渦巻く。全てはあの方に与えられたもの。断じて我らが手を出すべきではない。理、なのだから。
「……戯れ言だ。忘れろ」
なおも質問を重ねようとした私が口を開くより先に、ベルフェゴールは吐き捨てるように言って立ち上がった。黒く長い上衣が耳触りの良い滑らかな音をたてる。会談は終わりだ。私は、立たなかった。
「ヴェス! レナ!」
彼は扉を軽く開け、廊下に向かって小さく怒鳴る。あの五名の従者のうち誰かを呼ぶつもりなのだろうが、到底聞こえるとは思えない。話を聞かれない距離にまで追い払ったはずだから。
扉を少し開けたまま、彼は振り向きこちらを見る。
「……この話は他の幹部にしても構わないな?」
この話。一瞬何のことかと面食らい、幹部に話すのなら“端”の件だと思い至る。
「あ、ああ。よろしく頼む」
「期待はするなよ」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、充分信頼に足る。
それと同時に灰色の瞳がちらと部屋の外へ移る、舌打ちが聞こえる。彼の従者が来るのと怒りが発散されるのとどちらが先か。自室まで送るのなら私の従者に頼んでもいいだろう、と私は誰かしら呼ぼうと意識を集中させようとした。
「ベルフェゴール、今私が……」
「お呼びですかベルフェゴール様ァ!」
「遅くなって申し訳ございませんーッ!」
――速いっ?!
滑り込んできた、という表現がいちばんしっくりくるか。嵐のように駆けてきたふたりの悪魔は本当に必死の形相だった。そう、まさに命の危機にさらされているかのような。どうして呼びつけが聞こえたんだ。
「遅い。俺が名を呼び終えるより先に来い」
「「御意ッ! 申し訳ございませんでした!」」
そして白銀の悪魔は容赦がなかった。いいのかふたりとも。お前達、今かなり無茶苦茶な要求を承服したぞ。
「ではな、ルシフェル。また夕食の席で」
何事もなかったかのようにベルフェゴールは出て行った。従者達も私に深々と一礼すると後を追う。
ぼんやりとしていた私はやがて何気なく飲み物を手にとり、口をつけようとして手を止めた。
茶色の水面に私が映っている。暗い色の中では色彩は濃淡の区別がつくのみ。私の瞳も黒く見える。何となく安心した自分がいた。
この話は本題ではないのだ。今は他に考えるべきことがある。そう心の中で呟いて、すっかり冷たくなった紅茶を流し込んだ。