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Old Long Since【 M-11 】


 宮殿から草原をずっと進んで行くと、がぱりと大地が口を開けている場所がある。天界を二つに切り裂くかのような亀裂はとてもとても巨大で、遥か長く伸びた切れ目を覗くと真っ暗闇が待ち構えている。その場所の名を《赤の谷》、といった。そしてその谷こそが、天界と地獄とを結ぶ“通路”のひとつでもあるのだ。

 赤。見渡す限りの緑の中で、何故そんな呼び名がついたのかというと――

 

「……来たか」

 

 隣に立つ兄がぽつりと呟く。彼の言葉に大天使をはじめ、この場に集った大勢の天使達の間に緊張がはしる。無論、自分も。

 ざわ、ざわ、と。風向きが変わる。ふと掠める甘い香り。あの花の匂い。……“来る”!

 

「――!!」

 

 刹那。

 一際強い風が谷底から吹き上げてくる。更にはっきりとわかるくらい甘い香りが辺りを満たす。ごうっと巻き起こった風は鮮やかな赤色。紅でも緋でもないその赤は花弁の色なのだ。この狭間の壁にしか咲かない、燃えるような赤色の花。花びらが風で舞い上がり、まるで炎が谷底から噴き出すように見えるほど。

 むせ返るような芳香の中、片腕で目を覆いつつ懸命に顔を上げた。すると、赤い流れの中から黒い影が複数躍り出るのが見えた。一、二、……全部で六。彼らは隊列を保ったまま一度空高く飛び上がり、それから緩やかに自分達の目の前へと着地した。その背に負った、漆黒の翼を使って。

 

「…………」

 

 自分は、最も前に立つ悪魔にまず目を奪われた。ひたすらに綺麗な女の悪魔さま。にこりともしないけれど、ガブリエルの美しさに兄の持つ鋭さを足したような顔立ちをしている。長い銀髪はアシュタロスのよりも儚い色合いで、灰白色の瞳を収めた涼しげな目元が印象的だった。

 感じる空気もひとりだけ異質だ。後ろに控える五名の悪魔は恐らく従者か。同じような黒衣に黒い翼だというのに、威圧感がまるで違う。きっとこの女悪魔(ひと)が使節だという地獄の幹部で間違いない。でも……“男”だって聞いていたのに?

 混乱しながらも礼をとる。何せ今回は自分が責任者、最初に挨拶をしなければ。

 

「よっ、ようこそおいでくださいました! 歓迎致します」

 

 緊張で声が上ずった。じろりと灰色の双眸に見下ろされる。訂正。兄よりも、鋭い。笑ったらもっと美しいのだろうなと、不機嫌そうな顔を見て思う。このお出迎え、お気に召さなかったのかしら?

 がちがちに固まっている自分とは違って、兄の態度は実に堂々としたものだった。天界の長、天使の代表たるに相応しい。

 

「遠路遥々ご足労いただき感謝します。ようこそ天界へ――ベルフェゴール殿」

 

 ベルフェゴール。……ベルフェゴール? この悪魔さまが?!

 目の前のそのひとをまじまじと見つめてしまう。だって男の悪魔さまだと報告が。変更? そんなわけない。じゃあ……ひょっとすると。

 美麗な使節は不機嫌そうな顔のまま、組んだ両手を胸の辺りまで持ち上げる。見たことのない礼の形。これが地獄式なのだろう。

 

「……こちらこそ出迎え感謝申し上げる、《光の御子》殿。以前は“レヴィアタン”がご迷惑をおかけした」

 

 全く抑揚なく、つまらなさそうに紡がれた声は女にしては低すぎる。となるとやっぱり。

 ベルフェゴールさまはおもむろに礼を解き、眉だけを僅かに寄せてみせた。

 

「……堅苦しい挨拶はこのくらいにしないか。俺は面倒なことが嫌いなんだ。さすがに二度目だしな」

 

 俺。……あぁぁ、良かった! うっかり尋ねたりしなくて! ベルフェゴールさまは、“女のような顔をした”男の悪魔さまなんだ!

 二度目、かぁ。なるほど、それで他の大天使は落ち着いていられるのだ。

 その彼――白銀の悪魔はゆっくりと辺りを見回した。本物の悪魔を前にして緊張しているのは自分だけではないようで、従者や楽隊の天使達の間で空気が微妙に張り詰めるのを肌で感じる。何もかもが初めてで物珍しい。漆黒の光沢ある翼も、比較的細身の動きやすそうな黒衣も、冷えきった鋭い視線も。天使とは全然違う。

 

「……相も変わらず、浮かれた世界よ」

 

 皮肉げに呟かれた言葉が石ころのように心に落ちた。せっかくのお出迎え、なのに一度も笑顔を見ていない。

 

「あのっ……」

 

 いきなりで失礼かとは思ったが聞かずにはいられなかった。思い切って口を開くと、灰色の冷たい瞳が瞬時に自分を射る。大丈夫、大丈夫。言い聞かせながら恐る恐る。

 

「あの、お気に召さなかったのでしょうか……? でしたら、その」

「……ん?」

 

 ずずいっ、と。腕組みをした悪魔はいきなり自分へと顔を近付ける。隣で兄が微かに身を強ばらせたのがわかった。咄嗟に呑み込んだ言葉も息も、吐き出す機会がないまま暫し。頑張って灰色を見つめ返していると、彼はひとりで得心したかのようにうなずいて顔を離していく。

 

「新参か。何者だ、幼き天使」

「私の弟だよ、ベルフェゴール」

 

 問いに答えたのは自分ではなく兄。しかし悪魔の目線は未だ自分へ注がれている。

 

「同じような気を感じると思えば、道理で」

「ちなみに今回の接待の責任者だ。すごいだろう?」

「ほう?」

 

 初めて、瞳が色を見せる。面白がっている風のそれはどことなく見下ろされている――実際の背丈においても見下ろされる関係だが――ようで、少しだけむっとする。幼い、なんて。これでも自分は大天使だっ……と客人相手に言えるはずもないのだけど。

 

「……お気に召しませんでしたか?」

 

 もう一度尋ねた。この出迎えは、この出だしは気に入らなかったのか。

 対する悪魔は“あくまで”興味もなさそうに肩をすくめた。

 

「さあな。悪くないんじゃないか」

 


 

***

 


 

「はあぁ〜……」

 

 悶々。もんもん。

 

「大丈夫ですか、ミカエル様?」

「んぅー」

 

 ころころころころ。寝台の上を転がりながら、クーダの問いかけに呻き声で返事する。行儀がよくないことはわかっている。でもどうせ寝室だからクーダのような従者くらいしか入って来ないし、こうでもしなければやっていられない気分だった。

 ころころ、ころ。……

 枕を抱き抱えたまま、毛布の上にがばりと身を起こす。机の上を整理してくれていた天使が、苦笑しながらこちらを向いた。

 

「そうお気になさいませんよう。まだ始まったばかりではないですか」

「だって……。クーダは悔しくないのですかっ?」

 

 ぎゅっと枕を抱き締める。彼は少し困ったように「お相手は悪魔ですからねぇ」と笑っている。

 

「それは、そうだけど……でもっ」

 

 やっと終わった接待の一日目。本当に、本っ当に大変だった。

 特に晩餐の席の息苦しさったら! お客さまの数が少ないから当たり前といえば当たり前なのだが、大天使の他に夕食の場に参加した上級天使はあまり多くなかった。それだけでも間を保たせるのに苦労したというのに、まして主役と言うべき悪魔が醸し出す、あの凍えるような空気といったらもう。まさかウリエルよりも無愛想なひとがいたなんて。興味深いけど、あいにくと宴の席にはそう合わない。

 

「メフィストフェレス様、すごかったですよね」

「うん、本当に。明日もお呼びしようかな」

「お呼び申し上げずともいらっしゃいますよ、多分」

 

 そんなわけで、ともすれば極寒の宴になるところを救ってくれたのはメフィ先生だった。祭事大好き、楽しいこと大好きな先生。会場は、お酒が入って更に饒舌になった先生の独壇場となっていた。おかげで自分は随分と気持ち的にも救われたもの。後できちんとお礼を言わないと。

 

「ごめんなさい、クーダ。僕が兄さまみたいに、もっと立派な天使なら良かったのだけど」

 

 ほら、こうして自分の従者にも甘えてしまうから、いつまでも“幼い”だなんて言われるのだ。威厳とか勇猛さとか、出そうと思って出るものではないとは思うけど。それに今更照れ臭い気もしてしまうけど。兄のように何事にも動じない冷静さがあれば、甘く見られたり子供扱いされたりしないのに。

 

「何を仰いますか。我々にとってミカエル様は憧れですよ」

「……ありがとう」

 

 寝台傍までやってきた彼は、自分を見下ろさないよう膝をついて微笑む。その手にある小さな切り傷が目に入った。力仕事をやってもらっているうちに傷つけてしまったのだろうか。そうだ、頑張っているのは自分だけではないのだ。へこたれてなんかいられない。

 

「絶対に……、」

「絶対に?」

「悪魔さま達を満足させてみせようね、クーダ」

「ですね」

 

 とにかくあの白銀の髪を持つ彼の笑顔を見ること、それが目標だ。ちなみに“嘲笑”は、だめ。

 そしてもっと望んでいいのなら……

 

「友達に、なりたいなぁ」

「ベルフェゴール様とですか?」

「うーん。悪魔さま皆と、かな」

 

 この願いは贅沢だろうか。それとも“禁忌”、なのだろうか。自分はただ単に知らない場所の話をたくさんしてもらいたい、彼ら悪魔の考えを知りたいというだけ。興味があるから。知らないことを知るのは良いことだと兄も常々言っている。

 

「明日は頑張って話し掛けてみせるよ」

「応援しております」

 

 クスクスとひとしきり笑ったクーダはそのまま立ち上がる。

 

「さ、夜も遅うございます。今日はおやすみなさいませ」

「クーダも休む?」

「はい。ですからご安心を」

 

 そっか。自分だけ休むなんていけない。責任者は、主君は、自分の仕事を押し付けてはいけないのだ。先輩の大天使達から教わったこと。

 二日目の分はもう大方の準備は整っているので、クーダと軽く打ち合わせをした。確認だけのようなものだ。

 

「――では、そういうことで。ミカエル様、きちんとお休みくださいよ? ルシフェル様のように倒れられては困りますからね」

「わ、わかってますー」

 

 本当はラケル達の計らいだったのだけど、言わない方がいいのかな。天使長が過労で倒れたという噂は、どうやら従者達の間でも速やかに広がりつつあるらしい。

 自分が毛布をかけても退出しようとしないクーダ。ちゃんと横になって、眠りますということを態度で示す。それで安心してくれたのか、どこか楽しそうに笑った彼はまるで自分の保護者みたい。

 

「おやすみなさい、クーダ」

「おやすみなさいませ」

 

 ――明日も楽しい一日になりますように。

 そっと呟いて目を閉じる。と同時、室内を暗くしてくれたのがわかった。緊張で寝付けないかもという心配は杞憂だったようで、心地よい疲労感に包まれながらすぐに意識が遠退いていった。


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