Old Long Since【 M-10 】
いつも通り、ゆったりと始まる朝の会議。
「おはようございます」
「おはよう、ミカエル」
「おはよう」
片手に書類を抱え会議室の中へ入ると、ガブリエル、ウリエル、ラファエルの三名が既に席に着いて談笑していた。しかしたったひとつの上座は空席。あれ、と首を傾げる。いつもはもう来ているはずなのに、珍しい。
「兄上は? まだいらしていないのですか?」
席に着きながらの自分の問いに答えたのはガブリエル。
「ああ、ルシフェルはちょっと特別な仕事があるみたいなの。遠征中よ」
「そうですか」
ほんの少しだけ、気持ちが沈む。そうか、今日は兄さまに会えないかもしれないんだ。むー、残念。
でもそれとお仕事とは話が別。自分は自分の仕事をきちんとこなさないと。
少しして扉が叩かれる音。いつものように使者が主の御言葉を運んできたのだ。頃合いを見計らってガブリエルが会議の始まりを告げ、丈の短い上着を身に付けた使者が巻紙を広げる。
報告が済むと、次は各々が持ち寄った課題の審議に入る。……といっても、そう堅苦しい雰囲気はない。執務中とはいえ気心の知れた間柄、きっと宮殿の外の天使達が想像しているであろうより緩いものだ。新入りの自分にとってはありがたかったことを思い出す。
さて、今日自分が持ち込んだのはもちろん、あの接待について。
「地獄からの使節の方をお迎えするにあたって、一応の流れを考えてみたのですが……」
ちらと空の上座を見て言い淀む。そんな自分の視線に気付いたのか、促してくれたのはガブリエルだった。
「ルシフェルには後で言いましょう。ミカエル、先に私達に聞かせてくれないかしら? とても興味があるわ」
ウリエルとラファエルの方も見ると、力強いうなずきが返ってきた。ならば、と自分は書類を準備。兄には、後でお知らせしよう。
焦茶と翡翠と黒耀、三色の瞳に見つめられ顔が微かに火照るのを感じる。いくら慣れたといっても、緊張するものはするのだ。しかも今回は全て自分の考え。不安を振り切り口を開く。
「えと、……今回いらっしゃるのは幹部の方が一名と、その従者の方々が五名。滞在期間は三日間。……ですよね?」
確認。……よしっ。
「初日、陽の入りの頃に《赤の谷》に到着されるようなので、《エレメンツ》及び天使長が揃ってお出迎えする予定です。楽隊を設置し、まずは歓迎の歌を奏でてもらいます。曲目は彼らに任せてあります。ええと……あっ、それから宮殿までお送りし、夕食、歓談となります。この時は上級天使も同席ということで。木の実や菜は順調に収穫できる予定です。お部屋ですが、幹部の方におひとつ、従者の方々は二名と三名に分かれていただきます」
一枚、捲る。喉がひりひりと乾いて。
「けほっ……すみません。翌日の日程です。朝は宮殿の内部やその周辺を案内して差し上げますが、これは係の天使に依頼してあります。続けて会談の場を設けました。主に天使長と幹部の方のみと考えていますが、お二方のご意向次第では他の大天使も同席するかも……ここは兄上にお聞きしてみないと。この時お出しするお飲み物やその後の晩餐の中身も、こちらで決めさせてもらいました。晩餐会は前日同様、何名かの上級天使と楽隊を招く予定ですが、この辺りは是非とも意見をお聞きしたいです」
もう一枚、捲る。次第にすらすら言えるようになってきた。
「最終日は陽が高くなるより前に出発なさるそうなので、特に予定は入れていません。時間が来たら再び《赤の谷》までお送りし、お土産として果実酒を差し上げるつもりです。お部屋にもお酒は置いておきますが、お気に召さないようであれば別の何かを用意します。まだここは考え中なのですけど……。あ、ちなみに寝室や会談のお部屋は大方準備が整っているので、良かったら確認してもらえると嬉しいです。その他執務に関しては全員揃ってからということで……後程、詳しい担当者をお知らせしたいと思ってます。えと、以上、です」
沈黙。どきどきどき。疲れと、緊張と。ちょっと顔を上げて反応を伺う。そして。
「……やるな、ミカエル」
「本当ですか?!」
これは、喜んでいいはず。何せいちばんに褒めてくれたのがあのウリエルなのだから!
「よくひとりで頑張ったわね」
「本当に。才能あるな、ミカエルは」
続けてガブリエルとラファエルの言葉。いいえ、と首を振る。嬉しいけど、ちょっと違う。
「ひとりじゃなかったんです。色々な方達が手伝ってくれたから」
従者はもちろん、メフィ先生をはじめとした上級天使も。たくさんの協力があったから形になった。
「自分ひとりではとても無理でした」
そう言うと、彼ら三名は何故か満足そうに微笑んだ。くすぐったくなるような、その笑い方。
「どうしました?」
「いや……ミカエルも成長したなと思ってね」
楽しそうにラファエル。……照れくさい、けど。
「ありがとう、ございます」
ふにゃりと頬が緩む。うん、やっぱり嬉しい。従者と一緒に走り回った甲斐があった。
部屋を見に行く話をしている先輩方をぼんやりと眺めながら、当日の成功を胸の中で誓う。待ち遠しくて、楽しみ。ここまで準備してきたのだ、本番は絶対に悪魔さまに喜んで頂こう。
***
陽が沈み、そしてまた昇る。
翌朝の会議にも兄は姿を見せなかった。そのせいなのかどうか、前日に一仕事を無事終えたのにいまいち気分が晴れない。どこに行っているのかわからないというのも不安で。
だから大天使達の部屋が並ぶ廊下を歩いていて、偶然彼の部屋の扉が少し開いているのを見、思わず足を止めたのだ。確か今朝はぴったりとしまっていたはずの入り口。紛れもなく、陽が高くなるこの時間までに誰かが出入りしたのだ。
――どうしよう。
別に、迷う必要なんてないのだけど。そのまま通り過ぎればいいのだけど。どうしても気になる。
「……兄上? いらっしゃいますか?」
恐る恐る扉を叩くも、部屋の中からは物音ひとつしない。ただ自分の手と木がぶつかる空虚な音が響くだけ。
困った。気になるけれど、勝手に入るのは失礼にあたるし、でも気になるし……、と散々迷った挙げ句に自分は。
「――失礼、しますっ」
そうっと、思い切って扉を開けた。開いていたからもし誰もいないなら閉めてあげようと思ったのです……言い訳してみても、罪悪感。ごめんなさい兄上、ごめんなさいメフィ先生。
部屋の中には誰もいな……
「っ?!」
びっくりし過ぎて息が詰まった。いや、本当は驚くところではないのかもしれないけど。だって中にいたのはこの部屋の主だったのだから、当然といえば当然だ。
どうして返事がなかったのかもすぐに理解。……兄は、眠っていたのだ。それも机に突っ伏したままで。
そっとして部屋を出るべきか。迷ったけれど、少しだけ、と足音をたてないように彼に近寄った。好奇心はあった。こんな機会は滅多にないから。
自分にとって、彼に話しかけるのはいつだって勇気が要る。ふとした拍子に彼が覗かせる憂いを帯びた表情を見ていると、何だか邪魔をするみたいで憚られるのだ。
だからこんな機会は珍しい。こんなに油断している兄を見られるのは。
細心の注意を払って寝顔を覗き込む。余程深く寝入っているのか、規則正しく上下する背中の動きがなければ、置物か何かと見間違うであろうくらい微動だにしない。ひどくお疲れなのだろう。そもそも机で眠ってしまうほどだから。
両腕を枕に置いたその表情は穏やかで。ただでさえ整った顔立ちが、より一層美しいものに思えた。きっと良い夢を見ているに違いない。彼の幸せそうな顔を見ていると、こちらまでほかほかと温かい気持ちになる。
自分が言うのは変かもしれないけれど、兄の寝顔には幼子のようなあどけなさがある。胸の高鳴りに突き動かされるように、そっと彼の頭の上に手を置いた。そして静かに撫でてみる。思っていた通り、艶やかな黒髪は柔らかくて指通りがいい。ずっと弄っていたい。起きている間はできないから、ちょっとだけ許してくださいね。
「兄上……」
思わず口に出る。ああ、ああ。やっぱり何があっても彼の傍がいちばん心地いい。
と、何気なく机の上を見ると、飲みかけのお茶が目に入った。まだ結構残っている。いつ頃煎れられたのだろうかと思い、器を手にとり近付けて見る。すっかり冷えているそれは、彼が大分前から眠っていたことを示していた。いつもより色が濃いのは気のせいかな。それに……ツンとする香りがある。
何だろう、初めて嗅ぐ香りだ。興味を持ってすう、と息を吸い込んだ刹那。
「(――いけませんわ、ミカエル様)」
押し殺したような声にびくんと体が震える。器を落としかけるわ、また息を詰まらせてむせるわもう大変。恐々振り向けば。
「(ラ、ラケル?!)」
兄の従者のひとりである天使が、戸口のところで裾をつまみながら一礼する。ふわふわとした金髪が可愛い。
「(それをお飲みになってはなりません、ミカエル様。そのお茶は――)」
――みっ、見られた?!
かぁっと顔が熱くなる。どこからだろう。彼の頭を撫でていたところも見られていた? まままずいっ!
「(ちっ、違うのですラケル! 別に兄上の寝顔が可愛いなーとか思ってたわけじゃなくてですねっ、その、一応念のために安全確認というかっ……あうう〜)」
誤解だ、誤解だっ。兄に何かしようと思ってたわけじゃなくて、成り行きでっ!
「(いえ、ミカエル様、それは……)」
「(ラケル、兄上には言わないでくださいね! だめっ、だめですよ!)」
「(いえ、ですから)」
必死に弁明していたら、歩んできた彼女は困ったように笑いながら。
「(そのお茶にはお薬が入っておりますので、と申し上げようと思っただけなのですが)」
「(…………ぇ?)」
しばらく固まる。ゆっくり、ゆっくり、ラケルの言葉を理解。……自分の言葉を、反芻。
「(な)」
頭は真っ白。口をぱくぱくさせることしかできない。遂に彼女はくすっと笑って……自分は、頭を抱えた。何てこと!
「(……わ、忘れてください、ラケル……!)」
「(ふふっ、ミカエル様は本当に、ルシフェル様に似ておられますわ)」
「(え……?!)」
ラケルはただ笑むばかりで何も言わなかった。兄と似ている? 何の話なのだろう。……けど嬉しいから、いいか。
「(そっ、それよりラケル。薬って?)」
どうにか持直し、問う。
「(はい。ミカエル様が今お持ちのそちらのお茶には、ラファエル様より頂きました薬草が入っております)」
「(兄上は体調が優れない、のでしょうか……?)」
「(ああ、違いますの。このところルシフェル様はお休みになっていなかったものですから、わたくし達皆で相談して強制的に眠っていただきました)」
とりあえず胸を撫で下ろす。しかし強制とは。ラケルは時々見た目に似合わない大胆なことをする。
「(ずっと書庫におられるか、忙しくお出かけになられるか……十日近くまともに睡眠をおとりになっていませんわ)」
「(そんなに?!)」
驚いた。いくら大天使とはいえ肉体的な疲労は蓄まっていくもの。書庫で会ったあの時、既に兄は無理をしていたのじゃないか。どうしてちゃんと気付けなかったのだろう。後悔の念が渦巻く。
「(ルシフェル様は何かに没頭されると、周りがお見えにならなくなることがございます)」
うつむいていると、ラケルが優しく声をかけてくれる。
「(御本人のお望みでしたから、仮にミカエル様がお引き止めになっても聞き入れなさったかどうか……。ましてわたくし共の言葉などほぼ無意味かと。だからこそ、実力行使に出たのですわ)」
「(ラケル……)」
「(はい?)」
「(ちょっと、怖い)」
「(うふふ)」
そういえばラケルは、自分の従者リーシャと仲良しだった気がする。少しどきっとした。気を付けなきゃ。
「(でも……ありがと、ラケル)」
「(はい)」
にっこり笑った彼女はすごく愛らしい。ほわっとして、陽だまりみたいな天使だと思った。
んん、せっかくのひそひそ声だったけど、騒ぎ過ぎたかな。兄が目を覚ます気配は全然ないが、そろそろ退出しようとラケルに器を渡す。
さすがに兄を起こさないよう寝台まで運ぶのは難しい。何だかちょっぴり悔しいけれど、ラケルとふたり、毛布をかけるに留める。
「(では自分は行きますね。兄のこと、お願いします)」
「(はい、お任せくださいませ)」
最後にもう一度、彼の方を振り返る。
――ゆっくり休んでくださいね、兄上。
心の中で言って、静かに扉を閉めた。