Old Long Since【 L-10 】
「――あー、と。山を十、んで、川の流れは十二回」
「…………」
「十二回」
「…………」
「オイ」
「…………」
「おぉぉぉい!」
「……んっ、あ!」
いかん、ぼーっとしていた。あまり休養していないものだからつい。
慌てて椅子の上で背筋を伸ばす。私の目の前に立ち、紙をぴらぴら振って見せてくるのはベルゼブブ。そうか、私の方が自室に呼んだのだった。この報告は他の天使には聞かれたくなくて。こんなことが知られたら、私が自ら無知を暴露するようなものだ。
「ちゃんと聞いてたか?」
「す、すまない……」
「ったく……」
やさぐれ天使の呆れ顔に、恥ずかしいというより本当に申し訳なくなる。調査を頼んだのはいつだったか、実際に行っていた彼らの方が疲れているだろうに。
「本当にすまない。もう一度報告を頼む」
「ルシフェルー、てめえ疲れてンなら休め? すげェ眠そうなツラしてンぞ」
「ん……、大丈夫だ」
私の場合は純粋な寝不足だからな。通常の執務の合間を縫い、睡眠時間を削って書物を開いていたら、こうなった。会議中は保つんだが、気を抜くとどうにもいけないな。
しかし連日の徹夜の甲斐あって、手の届く範囲にある書物は全て再読できた。そして……どこにも見落としがなかったことも確認できた。つまりは真に誰も知らなかったということだ。
主は私を最高傑作だと仰った、最高の知識をくださった。いちばん世界に近い私が知らないことで、まして記述がないのなら、他の誰が知り得るだろう? 幼い天使の疑問に端を発したこの知識の探求、さほど重要でない事柄であっても、何かを新たに知ることは素晴らしい。重要な情報であるならば私が知らないはずがないのだし。
「そうか? 大丈夫ならいいが……。で、どっから言えばいい?」
「…………」
「まさか……また最初っからか?」
「…………」
「ったくよォ〜!」
何も言えない。申し訳なさ過ぎる。
「心優し〜いオレ様だから平気なンだぜ? もう面倒くせェから掻い摘んで言うぞ」
「ああ」
聞かねば。集中。
「ほい、怪我人無し、目標を確認、任務達成! 以上ッ!」
「……」
「わ、わァってるよ。冗談だ! そう睨むなって! ……おほんっ。あー、参加はオレを含めて五名。武具は予定通りの装備で足りた。剣を使う機会なんざなかったからな。陽の沈む先に進路を取って、以降三度の陽の入りを観測。四度目の朝、“端”に到達。外部に広がる“虚無”を確認済みだ」
「ふむ……」
これで少なくとも双子には報告できるな。“端は確かに存在する”、と。
「“虚無”とは……“端”の向こうには何もなかったということか?」
「そうだな。暗闇にも見えたが、どうやらアレは“存在しない”らしい。なんつーか……上手く説明できねェけど、知覚できねェンだよ、あの変な空間は。てめえかメフィストフェレスのジジイならわかるか? まァ、曖昧とか混沌とか、そんな感じだな。オレァあんまし近づきたくねェ」
そう言ってベルゼブブは渋面を作った。なるほど、なるほど。
「距離は」
「十の山を越えた。直線進路上に川の流れは十二回、数えたぜ」
山を十……思ったよりも近いな。
「了解。ご苦労だったな。ゆっくり休め、とお前の部下にも伝えてくれ」
立ち上がり、腰帯を締め直す。ベルゼブブが怪訝そうに首を捻った。
「どっか行くのか?」
「その“端”とやらを見てくる」
「あァ? せっかくオレらが行って来たのに……」
不満げな声を宥めるように微笑う。
「別に疑っているわけではないよ。単なる私の好奇心だ」
世界を確かめたいという願望。話を聞いて更に自分の目で確かめてみたくなった。――主に、近づいてみたくなった。
「それに、その“虚無”とやらも気になるしな」
「ふーん。まっ、無理すんなよ?」
じゃ、オレはこれで――。
言って出て行った友を見送り、私は純白の上着に袖を通す。留め金を嵌めて襟元を整え。緩やかに高まっていく緊張と興奮に手が震えた。
「……よし」
準備は万端。新たな知への旅だ。
従者を連れたベルゼブブで四日かかったということは、私ひとりならば長くて一日、全速を出せば恐らく半日で帰ることも可能だろうな。だが万が一にも明日の会議を無断で抜ける……などという事態があってはならないし。ベルゼブブには今言ったが、誰か他の者にも私の外出を知らせた方がいいだろう。
宮殿内、この一画に並ぶのは大天使の私室だ。私は少し迷ってひとつの扉を選び、叩く。
「……はい?」
「私だ。話がある」
やがて姿を見せた美しい天使。茶色の長い髪が肩から零れた。
「あら。上着まで着てどうしたの、ルシフェル?」
特に深い理由はないが、私が選んだのはガブリエル。慈愛を司り、先頃《水》の座を与えられた美女は小首を傾げてみせる。
「ちょっとな。仕事中だったか?」
「ええ、でも大体片付いたところよ。ほら、あの生まれたばかりの天使のための教育施設……あそこの規模を縮小するって言ってたじゃない?」
「ああ、あれか」
最近では誕生する天使の数も次第に減りつつある……と言い続けて暫くが経った。まだ、皆無ではない。
そもそもここにいる鳥獣や草木は元からここで生きる者ばかり、彼らも“消える”ことはない。その他……下界へ降ろされ生を全うした命は、やがて主のお側へ召し上げられる。……それは少し羨ましくはあるが。だが我々は“生きている”。生きて、主の愛情を最も近くで享受しているのだから、不満は言うまい。
この天界に新たにやって来るのは、天使のみ。果たしてこのままで場所は足りるのか、と思う時があるのは事実だ。そうなると地獄の役割は…………ん、無用な思考か。まあ、現段階で我々が心配する必要などなかろう。
「どうだ、上手くいくか」
「そうね……あそこで働いていた天使達には、ちゃんと新しい務めが割り当てられそうよ。それに規模を小さくするだけだから、基本的には今まで通りでいいと思うわ。どうかしら?」
すらすらと並べ立てる彼女はやはり素晴らしい天使だ。思わず笑みが零れる。
「この件はガブリエルに任せる。私が敢えて口出しする点はないようだしな」
「そう? それなら良かったわ。後で承認、お願いね」
「わかった」
「ところで……」
ああ、そうだった。何か言い掛けた彼女を遮りうなずいた。
「これから少し遠出してくると伝えに来た。ひょっとすると、明日の会議には帰りが間に合わないかもしれない」
ガブリエルはわずかに目を見開く。
「どれくらい遠くに行くつもりなの? ルシフェルが一日で帰って来られないかもしれないなんて……」
「遠くも遠く、この天界の“端”を見てくる」
ミカエルと書庫で会った時ははぐらかしたが、あれは単に少しばかりの見栄を張りたくなっただけ。彼女にならば特に何も構わない気がした。唖然とした風のガブリエルに私は“掻い摘んで”事情を説明。
話を聞き終えても彼女は未だ信じられないといった様子で瞬きしている。きっと私と同様、そんな疑問など抱いたことがなかったのだろうな。
「私もあの双子には驚かされたよ。よもや“端”などと……限りがあるのだという概念を持とうとは」
「本当ね。まったく、斬新過ぎるというか、怖いもの知らずというか……」
感心と呆れが半々のガブリエルの笑顔。今度は彼女が私にうなずく。
「わかったわ。何かあったら特任で遠征だって伝えておきます」
「うん、頼む。個人的な活動だからな、あまり詳細を知られたくないんだ」
――本当の理由は少し違うけれども。
「はいはい。心配ないと思うけど……気を付けてね」
「ありがとう。行ってくるよ」
優しく笑い掛けて。何故かぎこちなく笑んだ天使のもとを後にした。
「お出掛けですか」
「行ってらっしゃいませ、ルシフェル様」
「ん、ありがとう」
服装が服装だと、擦れ違う天使達にも声を掛けられる。頭を下げる彼らにその都度礼を言いながら、長い廊下を早足で進み、ようやく宮殿の外へ出た。
青い青い空。明るい日差し。旅立ちには相応しいじゃないか。白亜の宮殿を背に、私は深呼吸をひとつ。
陽の沈む先……ベルゼブブ達が進路を取ったという方向には、深い緑の森が見える。その先はここからでは見えないから。
つ、と軽く上を向いて目を閉じる。意識を背後へ向ける。自分の中に眠るモノを引き出すように、力に自由を与えてやるように。
――《解放》。
一瞬、大きな風が巻き起こる。背中が熱い。薄らと目を開けると、草と共に舞い上がる黄金の羽根が見えた。
今私の背中には六対、十二枚の翼があるはず。普段は一対にまとめているが、これこそが本来の姿。滅多なことでは出さない。強いて言うなら……気分で使い分けているだけだ。何となく気が引き締まるというか。生まれた時の姿を解放してやりたくなったのだ。
「さて……」
とん、と地を蹴る。一度、二度羽ばたき。上空から眺めても尚、端らしきものは確認できない。行くしかないようだな。
何なら《空間転移》を繰り返して時間を短縮することは可能だが、せっかくベルゼブブ達が距離を測ってくれたのだ、私も地道に数えながら行くことにした。確か山を十で、川を十二だったか。川は蛇行しているから当てにはなりにくいが、保険として横切った回数は数えておこう。