Old Long Since【 M-9 】
二種類の布地が手元にある。色は白と黒。どちらも肌触りの良い、滑らかな上質の布。だって“お客様”用だから。
「楽しそうですね、ミカエル様」
「ねえ、クーダ。どちらが良いと思いますか?」
室内に入って来た自分の従者に問い掛ける。鈍色の長い前髪の向こうで、まろやかな黒の瞳が細められるのが見えた。両腕に抱えた箱を執務室の床に静かに置き、彼はこちらへ来ると自分の手元を覗き込む。
「この布は何に使うんです?」
「寝台に。ほら、眠る時に上から布を垂らすでしょう? どちらの方が落ち着いて休んでいただけるかと思って」
「難しいですね……。黒、と言いたいところですが、悪魔の皆様も我々が白を好むのと同様に、何となく黒を好んでいらっしゃるだけのようですからねぇ」
「ねー?」
顔を見合せ、笑う。クーダの言う通り、楽しんでいることは否定しない。
――先日行われた会議。議題は、近々この天界を訪れるという地獄からの使節への対応についてだった。
地獄と言っても、何も天界と敵対しているわけではない。天使が住む世界と悪魔が住む世界、端的にはこれだけの違いだ。だから互いに交流はある。
しかし自分はこの行事に深く関わるのは初めてで。ずっと前――入殿して間もない頃に、遠目で悪魔らしい姿を見たことがあるだけ。当時は兄達の仕事にはあまり関わっていなかったから。
どのような感じなのかとガブリエルに尋ねたら、彼女は少しぷりぷりしながら、「あの悪魔ってばルシフェルをたぶらかしにかかるんだもの。今度は遠慮してもらいたいわね!」と呟くように言っていた。たぶらかす? って、何だろう? よくわからなかったけれど、楽しみであることに違いはない。
まして今回自分は接待の責任者となったのだ。大天使となって間もないのに、どうしてそんな大役を任されたかというと――
“あの、悪魔の皆さんに接待の内容を内緒にしてみてはどうでしょう?”
会議の場で思い切って発言した時の、大天使達の顔は忘れない。惚けたような驚きの表情。やがて口々に賛成してもらった時のあのむず痒い感覚も。
“内緒、ねぇ。いいかもしれないわね”
“確かに新しいな”
“結構良い案だと思うよ”
それまでは事前に部屋の内装から手土産から、事細かに向こうの希望を聞いて用意していたのだそう。単純に、何があるかわからない緊張感も楽しいかなと思っただけなのだけど……どうやら慣習とは違うというのが評価の理由らしい。新参者の強み?、なんて。
ああ、彼らの仲間なんだ――そう実感できて、嬉しくて嬉しくて。一段高い席に座る兄を伺い見ると、優しく笑い返されて更に嬉しくなった。
“異論はないようだな。私も賛成だ。ではミカエル、お前にこの件を一任してもいいか?”
“私に、ですか?!”
執務中はあくまで大天使同士。どこか他人行儀に振る舞う兄に合わせ、“正式に”命を承った形と相成ったのだった。
「でも、いらっしゃる地獄の幹部の方は御一方だけなのですよね? それと従者の方々が数名。少し寂しい気も致しますね」
「うん。けれど、だからこそうんと力を入れて、素敵なおもてなしをして差し上げましょう。苦労をかけますが宜しくお願いしますね、クーダ」
「ふふっ、仰せのままに」
にこやかに腰を折った彼は家具の設計などを得意としていた天使。装飾、という技能に関しては一番適しているはず……ということで、中心となって働いてもらっているのだ。
「頼まれていたものは、こちらの箱の中に入っておりますので」
「ありがとう。ご苦労様でした」
「お安い御用です。次は何を致しましょうか?」
「ええと……ああ、確か楽隊が演奏を披露するのでしたね。場所や時間がどうなっているか確認してきてもらえますか? あと、もしもリーシャに会ったら客間まで来るように伝えてください。彼女にも用意を手伝ってもらいます」
「御意」
クーダも、楽しそうじゃないか。
足取り軽く退出していく白い背を見送ってから、次に自分は件の箱を開けてみる。中から出てきたのは、お酒。悪魔は水のように酒を口にすると聞いた。余程強いに違いない。だから寝室にも置いておいたら喜んでくれるかと思ったのだ。お土産にしてもいいかもしれない。メフィストフェレス先生に選んでもらった取って置き(らしい)果実酒、気に入ってもらえると、良いのだけど。
ああ、まだ見ぬ悪魔さまは、何色の花が好きなんだろう。話し合いの場に焚く香はどんなものがいいだろう。歓迎の歌は疾る旋律か、それとも緩やかに流れる音色か。差し上げるのは着物か食べ物か、装飾は単色がいいのか凝った方がお好みか。
わくわくする、ドキドキする。自分達とは違う環境で過ごしてきたひと、ある意味天界の“外”から来るひと。黒いというその翼も見てみたいし、礼の仕方も異なったりするのだろうか……想像は、尽きない。
「……そうだっ」
せっかくだから、もっときちんと“予習”しておこうかな。悪魔について一応最低限と思われることは調べてみたのだけれど、もっとたくさんのこと――例えば地獄の歴史とか――を知っていた方が会話も弾むはず。天界の書物に何か載っていればいいけど。いざとなったら他の大天使に尋ねることもできるが、とりあえずは自分で調べてみよう。まずはできることをする。兄が、よくそう言っていた。
ということで、部屋の用意に目処が立ったら書庫へ行くことにした。でもまずは白か黒か、この布を選ばないと――
***
「――わっ?!」
「わあっ! ご、ごめんなさいっ」
「いえ、こちらこそ……って、ミカエル様?!」
「えっ?」
書庫の中に入った途端、本を抱えたひとりの天使とぶつかりかけて。重たげな音を立てて緋色の絨毯の上に散らばった大量の本達。慌てて拾い上げている時に名前を呼ばれ、ふと見上げると……
「あ、ヨハン!」
「申し訳ありません、ミカエル様! あっ、ありがとうございます……じゃなくて、お怪我はございませんか?!」
「ううん、大丈夫です。……」
――ヨハンがいる、ということはその“主”も……
「兄上!」
誰もいないと思っていた書庫の中、ひとりだけ。机にうずたかく積まれた書物の山の向こう、愛しい天使がその美しい顔を上げた。
「おや、ミカエル」
ふっと柔らかな微笑。早鐘のような鼓動に急かされ傍へ近寄る。
本当に彼は埋もれてしまうのじゃないかというくらいの書物の山。さっきヨハンが運んでいた数の何倍もある。
「すごい数……兄上、これ、みんな読むのですか?!」
思わず問うと彼はあっさり首肯して。
「ああ。ここの書物は全て読んだのだがな、もう一度読み直しているところだ」
「……」
今、さらっととんでもないことを言わなかったか。全て読んだ? しかももう一度全部? うわわ。
「し、調べ物……ですか?」
「ん……いや、ちょっとな。ところでお前はどうしたんだ?」
「あっ、はい。えと、今度の接待に備えてもっと地獄のことを知っておこうと……」
慌てて答えると兄はそうか、と笑った。彼ならばたくさんのことを知っているだろう。でも、まだ聞かない。ちゃんと自分で頑張るんだ。
「兄上、後で悪魔の方をお迎えするお部屋を見に来てくださいませんか? 結構良い出来だと思っているんですけど」
「ん、ああ、そうだな……」
呟く兄の視線がちらりと書物に落ちる。あまり話をしているとお邪魔かもしれない。
「お忙しいところすみません、兄上。では、また後程」
「ああ」
――さて、と。
柔らかな緋色の毛を踏む。ずらっと並んだ背の高い棚には、これまたきちっと整頓された膨大な数の書物が納まっている。アシュタロスと一緒に読んでいたのなんて、歴史書のほんの一部に過ぎない。どこから手をつけようか?
うろうろと棚の間を縫い、ようやくそれらしい数冊を選び出す。重たいそれらを両手で抱え、兄の近くの席に座った。そっと盗み見た彼の真剣な表情に胸を高鳴らせてみたりする。
いけない、いけない。集中!
気持ちを落ち着けて読み始めた
《ぱら……ぱら……》
……のだが。
《ぱら……ぱら……ぱたんっ》
「次を」
「はっ!」
《パタパタパタ……》
「次」
「只今っ」
《パタパタパタ……》
何度も何度も自分の目の前を横切っていくヨハン。往復の度に書物の山を抱えて。
一度気になってしまうともう気にせずにはいられない。思わず彼らの動きを見つめる。次から次へと運ばれるたくさんの書物と、淀みなく項を捲る白い手指。再読だと言っていたが、それにしたって兄の読む速さは尋常ではない。自分も流し読みしているつもりなのに、同じ時間で兄は一体自分の何倍の量を読んでいるのだろう。
「――これで七番目の棚は全てです」
「まだ七つか……先は長いな。疲れただろう、ヨハン。交代してもらうか?」
「自分はまだまだ大丈夫です。ルシフェル様の方こそ、休憩になさいますか?」
「いや、平気だ。時間が惜しい……」
陽が沈む頃、やっと緊張の糸が弛んだように、ひそひそと交わされた会話が耳に入ってきた。自分も選んだ本を読み終えたところ。ちょうど良い。
「あの、兄上」
話し掛ける機会を逸しないように、立ち上がる。
「そろそろ、失礼しますね」
「そうか。探していたものは見つかったか?」
「ええ、十分です」
「それは良かった」
眠たそうな紅い目を細めて兄は笑う。さすがに彼も疲れているようで、その笑顔はどこか力なく見えた。
「兄上はまだ?」
「ああ。もう少しいるよ」
「そうですか……あの、できるだけ早くお休みになってくださいね? とてもお疲れのように見えます」
「ありがとう、ミカエル」
一礼したヨハンにうなずいて書庫を後にする。
ちょっと残念だったのは、事実だ。自分達が頑張って用意した部屋、見てもらいたかったな。でもそれをわざわざ言うのはわがままな気がした。だから仕事が片付いて、それから兄がふと思い出してくれたなら、それでいい。
認めよう。自分は誉めてもらいたかったのだ、きっと。けれど我慢できる。だって、自分は《火》を司る大天使。もう“子供”じゃないのだから。