Old Long Since【 M-8 】
「兄上! どうしてここ……に?」
彼が模擬剣を手にしている理由は、稽古をつけにきてくれた以外にあり得ない。しかし今は執務中ではなかったか。それに怪我は。
混乱しながらも会えたことが嬉しくて、急いで駆け寄……ろうとした、けど。
「兄上……?」
立ち止まらざるを得なかった。それは兄が一歩も動こうとしなかったからで、そして模擬剣の切っ先が自分へと向けられていたから。
彼は何やら鞘の処理に困っている素振りを見せた――いつもの剣とは勝手が違うから、腰帯にうまく納まらないのだ――が、やがて指をひとつぱちんと鳴らす。すると鞘が“消えた”。すごい。
「剣を抜け、ミカエル」
朗々とする声が届く。そうだ、感心している場合ではなかった。本当に、本当に稽古を始めようとしているのだろうか? こんなに唐突に?
けれど、質問は許されない空気がそこにはあった。剣を構えた大天使の姿は輝かんばかりに美しい。彼こそが《光》なのだと、自然と体が震える。威厳と自信に満ちた立ち姿。同じ模擬剣なのに、彼のは斬れるのじゃないかと思うくらい。
未だにまとまらない頭で、それでも言われた通りに剣を構える。向ける相手は兄しかいない。既に自分はいっぱいいっぱいだったのに、更に続けられた言葉に思わず耳を疑った。
「私を倒すつもりで、全力でかかってきなさい」
「たお……っ」
兄を? いくら稽古とはいえ、それは、嫌だ。だって兄が痛い思いをするのに。大好きなひとを斬るなんて、練習だとわかっていてもやっぱり……
「来ないのならば――私から行くぞ!」
「?!」
気付いた時にはもう、眼前に剣を振りかぶった兄の姿があった。咄嗟に防ごうとしたが耐えきれずに後ろへと吹き飛んでしまう。
疑問も吹き飛んだ。消え失せた。
考えている暇はない。この一撃で、あの目で、冗談などでないことを瞬時に悟る。いつも優しく微笑んでくれる兄が別人のように恐ろしい。
「来い。防ぐだけでは勝てない」
本当に別の天使、なのかもしれなかった。
こんな兄を自分は知らない。視線が交わっただけで竦んでしまうほどの目の奥の光。まるで鋭く研ぎ澄まされた刃のような気配。
どうにか姿勢を立て直し、両手で柄を強く握りしめた。やらなければ――やられる!
「お相手をお願いします、兄上っ!」
「ああ!」
覚悟を決めて地を蹴る。一瞬で隙を探り、わずかな空間に切っ先を突き出す。当然防がれることは予測済み、そのまま流して下から斬り上げる。
「ほう、やるな!」
マルコならば切り結んでくるところを、兄は器用に体を反らして避けた。しなやかな動きは読むのが難しい。
――これならっ!
更に踏み込みつつ下段を一閃。跳んで避けるしかないはず。返す刃を再び斜めに斬り上げて――
「っ!」
――手が止まる。
彼なら避けられるだろうと、避けているだろうと無意識に自分は思っていたに違いなかった。軌道上に彼がまだ浮いているのを見た瞬間、振りかけていた剣を急に止めようとしてしまう。
怖い。彼を傷つけたくなんてない、痛い思いをさせたくない。
自分が迷っているうちに兄の姿は遠い向こう。散々隙があったろうに、彼は自ら間合いを切るような真似をする。何かを待ち受けるように。
「何故、やめた」
訝しげ……というよりも不機嫌そうに柳眉が跳ねる。自分はその問いに答えられず。
「私相手に手加減か? 見上げたものだな」
「違っ……!」
違う、それだけは断じて違うのに。兄が怒っているのだとわかって益々泣きそうになる。
「違うのです兄上。僕はただっ……」
ただ――何だというのだろう?
どうして兄は怒るのか。舐められたなどと彼が本気で思うはずはない。自分の行為は、どういった意味を為したのだろう。
怖いと思った。傷つけるなんて嫌だと思った。
周りはそれを優しさだと言う。君は優し過ぎる、辛かろうに、無理をしては、……
本当に、優しさなの?
打突せんと向かってくる兄。彼が稽古以上の“何か”を意図していることは明らかだった。だって手加減してくれていなければ、自分が彼の初動を見切ることなんて不可能なはずなのだ。
彼は、何を待つ?
「ミカエル。お前はその剣で何を守る」
――守る?
「何を断ち、何を通す」
「僕……僕は、」
受け止める剣を握る手が痺れるくらいに一撃一撃が重たい。とても手負いとは思えないその力。それなのに兄は表情を変えない。紅い視線は微塵もずれない。
ああ、兄さま。自分は。
“守りたい”――それを証明しなければならないがために、守るべきものに剣を向けざるを得ない、矛盾。
「僕はっ――」
激しく打ち合いながら、何だか気が遠くなるように感じた。変な感覚。体は確かに彼の動きに反応しているのに、自分はぼんやりと自分自身を内から眺めていて。懐かしくさえ感じて。
……懐かしい?
何故? 過去に経験したはずがないし、“視た”わけでもない。けれど、自分は確かにこの状況を知っている。
何故? ……わからない。
切っ先が腕を掠める。模擬剣だから本当に斬れるはずはない。わかっているけれど、じわりと伝わる痛みは練習中にできたどの痣の痛みよりも強い。
この痛みを相手に与えてしまうのだ、剣は。体だけでなくて、悲しい、真っ暗な心の疼き。
誰かが誰かを悲しませたら、その誰かがまた他者を悲しませる。連鎖はどこまで続くのだろう。廻り廻った痛みはいつか消えるのだろうか、それとも誰かが背負うのだろうか。
……ならば自分は、最初から悲しみなんて生み出したくない。力は傷つけると同時に救うものであるはずなのだ。抑えつけると共に引き揚げることもできるはずなのだ。
「ミカエル!」
「兄上、僕は!」
でも自分は、救う側面だけでいい。我が儘だと、無謀だと言われても構わない。
「全てを……この天界を、主を、今という時間をっ! 僕は守りたい!」
楽園もそこに住まう者も。見守る者も紡ぐ者も。みんなが笑っていられたらいい。光に満ちたこの時が続けばいい。
それを実現するために自ら動かなければ、求めなければ。そのためにはもっと――強く、なりたい。
「ッ……!」
思い切り振り下ろした剣が兄の肩を捉える。しっかりと感じる重さと金属を打ち付けた鈍い音。どくん、と胸の奥で跳ねた何か。さっと身体中が冷える。声になり損ねた吐息が漏れた。
全く避けようとしなかった兄は一瞬顔を歪めたが、すぐさま体勢を立て直し、そしてくいっと唇を弓形にして見せる。そして満足げに、言った。
「それでいい。その思いを、貫け!」
「!!」
ひうん、と風を切る音。やっぱり手加減していたのは兄の方。いきなり剣撃の速度が上がったかと思えば、身のこなしまでも段違いの速さ。一転、自分は剣を振ることすらできない。あまりの力量差に愕然とする。
それでもどうにか体を捩り、一旦牽制しようと無理矢理腕を伸ばした、その瞬間。
一瞬、何が起きたかわからなかった。
気付くと手の中から“剣がなくなっていた”。そうとしかわからないくらいの軽さと速さ。
決して兄は“モノを消す”能力を使ったわけではない。だってさっきまで握っていたはずの模擬剣が宙を舞うところを、自分はこの目で確実に見ていたのだから。
弧を描く軌道の向こう、兄が次の動きに移ろうとしていた。今や丸腰の自分には避ける以外の選択肢はあり得ない。
――それでも、まだ諦めない!
これも教えてもらったこと。退くことは大事、だが諦めるな。最後まで己には誇りを、相手には敬意を。勝機はどこにあるかわからない。
先からの流れに身を任せ、そのまま後ろに重心を移動。勢いをつけるために足へ力を込め、最大限の加速をつけて跳び退る。これでとりあえずは――
「え……?!」
一陣の風が巻き起こる。
アッシュが教えてくれた体捌き。あの体術に秀でたアッシュが教えてくれたものだというのに。
マルコシアスだって剣の腕は一流なのに。《神軍》の指導的立場にいるくらい。
でも……でも、だ。
いくら彼らが優れた天使であろうとも――最高傑作には、かなわない。
「――っ!」
自分の動きは、否、動こうとしたのはほんの一瞬。数えることすらできないような刹那の間の出来事。
だのに、どうやって彼はあれだけの距離を詰めたのだ。あり得ない。つい、ずるいと思ってしまう。あまりにも“速過ぎる”じゃないか。翼も出していないのに!
剣を払った直後には既に彼はこちらの懐へ。
驚きと、それ以上の本能的な恐怖。ふっと鋭さを増した瞳に思わず息が詰まる。冷たく燃えた紅。吸い込まれるような錯覚すら起こす、底の見えない深い紅色。
と、ぐらりと視界が回った。後ろへ傾く体。躓いた――理解した時にはもう見えるのは一面の青だけ。
――まずっ……!
背中に地面を感じて目をきつく閉じた。
「ぃ…………?」
しかしいつまで経っても衝撃は訪れない。恐る恐る目を開けると銀色の光が端に見えて……身を縮ませたまま見上げると息を切らした彼の姿。包帯を巻いた右手は剣を自分の首へ押しあて、そして左手は胸ぐらを掴んでいる。それはきっと、自分が地に頭を打ち付けないように。
切っ先からひんやりとした空気が伝わってくる。勝負は着いたのだ。見下ろしてくる視線も、先程までのような覇気は薄い。
「勝負あり、だ」
言って、背に手を回して優しく抱き起こしてくれる。情けないけれど、腰が抜けてしまったみたいだ。
兄はようやく少しだけ笑い。
「疲れたろう。少し休もう」
「…………」
息が整わなくて、ただ声も出せずにうなずいた。
***
泉で顔を洗って戻ると、兄はついさっきまでメフィ先生が座っていた丸木に腰掛け、自分にも座るようにと隣を示して言った。言われた通りに並んで座る。ずっと抱えたままだった模擬剣も、隣に倣って静かに草の上へ置いた。
彼は何も喋らない。自分も何を言っていいのかわからない。
地面を見つめて黙っていると風が頬を掠めていった。
「怖かったか?」
顔を上げると兄が自分の顔を覗き込んでいた。僅か迷って、うなずく。
「少し、だけ……」
くつくつと笑う天使の表情は優しい。
「そうか。よく言われる」
「全然違う天使みたいでした。その、嫌われたかなって……」
「まさか」
彼は目を丸くしているが、正直なところ本当にそう思ったのだ。ふとした瞬間に見せたあの気配。兄の紅い瞳をあれほど怖いと思ったことはない。思い出すだけで背筋が寒くなる。
「私がお前を嫌うなど、主に誓ってあり得ない」
「でも、その……」
「しかしまあ、あれはウリエルと稽古していた時だったか。“怖すぎるから相手になりたくない”とまで言われてしまった」
なんだかその気持ちがわかる気がして曖昧に苦笑。大天使だって怖いと思うのだから、仕方ない。
それきり彼は黙ってしまった。再び訪れる沈黙。
……今ならば、ずっと抱いていた疑問を言えるかもしれない。
口を開こうと顔を横に向けた時だった。
「ミカエル」
いつになく真剣な眼差し。その声は怖くないけれどひどく静かで、自分は言おうとしていた言葉をそっと飲み込む。
「私はお前に“守る”ための剣を身につけて欲しい」
兄が稽古の最中に求めたこと。そして自分が初めて“義務感”のようなものを自覚したあの問いかけ。優しく、しかし揺るぎのない声音で彼は続ける。
「愛するものを守るためにその剣を使って欲しい。だがそれを使うからには、何か他のものを傷つけなければならない」
黙って俯く。だからこそ自分は嫌だったのだ。自分が痛いものは相手だって同じ、だから。
「ならばその時は、お前がその剣で道を示してやりなさい。相手の痛みを己も理解しなさい。それはとても苦しいことだ。痛く、辛いことだ。けれどその苦しさに耐え得る強さも身につけなければ、剣をとってはいけない。つまり私がお前に剣を渡したということは……わかるな」
そう言って彼は自分の頭にぽんと手を置き微笑んだ。
「そういう強さも“優しさ”なのだよ」
必死に唇を噛んでまたうなずいた。力を入れないと、何故か泣いてしまいそうだったから。
「さすがは私の弟だ」
労るように軽く頭を叩かれて、それから。
「……ミカエル」
「はい」
「大事な話があるんだ」
その声の調子に、今度は全く別の話題なのだと悟る。緊張して見上げると、兄はゆっくりと口を開いた。
「主の御意向だから、落ち着いてよく聞きなさい」
「わかりました」
「ミカエル。お前は今日から“大天使”だ」
「…………はい?」
大、天使? そう言った?
「それは、ガビィ達と……」
「そうだ」
「えっ……で、でも、大天使は兄上を入れて四名のはずじゃ、」
「ああ、そう“だった”。厳密には大天使は四大元素天使と名称を改める。そこには同じく四つの席があるが、私は《天使長》という個の座に就き、そして《エレメンツ》にはお前が入るんだ」
わけが、わからない。頭がついていかない。くらくら、ぐるぐる。噛み砕く、噛み砕く。たっぷりの時間を兄に待ってもらってから、ようやく朧気に糸の端を掴んだような。
自分が大天使になる? あの憧れの天使さま達と肩を並べる?
兄は混乱している自分を見て面白がるでもなく、落ち着くまでじっと待っていてくれた。ひとつ、深呼吸。
「急、ですね……」
「そうだな」
どうにか口をついて出た言葉に彼は微笑う。――うん、やっぱり彼の笑顔が、好き。そんな場違いなことをこっそり心の中で呟く。
「しかし必然であったのかもしれない」
「それは……僕が兄上の弟だから、ですか?」
「私を基準に考えるものではないよ。お前にはお前の価値がある。もちろん、私にとってお前は特別だがな」
彼の片手はいつの間にか自分の頭を滑っていた。緩く波打った金髪を、梳くように撫でる長い指。優しくて気持ちいいその手つき。
少しずつ切り整えてきた金髪は、肩にかかる程度の長さからもう伸びることはない。これもおとなになった証、なのだろうか。過ごした月日を実感すると同時、大きな手を離さなければならないことが寂しくもある。
「近く、任命の儀式が行われる。事務的なことに関しては追々わかるはずだ。今お前がしなければならないのは気持ちを……主の御傍で楽園を築いていく心構えをすることだ。良いね」
「はい、兄さま。……これで僕も兄さまにもっと近付けるのですね」
「そうだな。とうとう私の直下まで来たか……。追い越されぬよう、私も精進せねばなるまいな」
兄と弟。そして主と従。
自分が進めばそれだけ彼も進んでいて。憧れた背中はどこまでも遠い。
「兄さまったら、いつも僕より何歩も先にいるのですもの。少しは待ってくださってもいいのに」
「ふふっ。それは悪かった」
軽く唇を尖らせてみる。彼が頭を撫でる手を止めることはない。
ああ、彼に甘えたい。片時も離れたくない。守られたいのに、誰よりも守りたい。不思議だと思う。どうか、どうか。大好きな彼を、もっと。
「兄さま」
「ん?」
「……僕が大天使になって、兄さまが天使長でも、ずっとずっと一緒がいいです」
「当たり前だろう」
待ち望んでいたことが目の前に迫っているのに、いざとなるとこの切なさは何だろう。でも、わかる。今感じる寂しさは“明るい”寂しさだ。希望ある寂しさだ。だから自分は笑える。
「私は愛する者のいる世界を守りたい。お前も確かに感じたはずだ。我々の存在理由を、主の御望みを。いよいよお前は守られるだけではなく、“背負う”立場になる。これから私と……私達と共に楽園の守護者となろう、ミカエル」
「――はい」
これからも自分は彼を追いかけ、守られ、守るのだろう。主に認めて頂いた喜び、未来への期待。決意を胸に大きくうなずいた。