Old Long Since【 L-8 】
「――何?」
会議の最中、いつものように報告に来た天使の言を私は思わず聞き返した。思いの外、詰問するような調子になってしまって自分でも驚く。ああそんなに怯えてくれるな。ウリエルよりいいじゃないか……多分。
「で、ですから……」
彼の宵闇色の視線が、巻紙と我々との間を行ったり来たり。私のような反応はしないまでもすっかり固まっている他の大天使達に凝視され、哀れ伝令役の天使はあからさまにおどおどしながら口を開く。
「“ミカエルを大天使に叙する。それに伴い、大天使を四大元素天使として編成し直す”、という……」
「…………」
ため息が出た。それは安堵からか、それとも憂鬱からなのか。深い深い息を吐きつつ椅子にもたれて天井を仰ぐ。ついに、という気持ちと少しばかりの、切なさ。
「……ありがとう。さがりなさい」
「はい、失礼致します……」
じっと、ただ乳白色の天井の一点を睨むように見つめていた。ガブリエルが呟くまで。
「とうとう、なのね」
思わず漏れた私の呻き声は返事と言えるかどうか。それでも皆、何となく私と似たような――寂しさを抱いているのには違いなかった。
片手に巻き付けた包帯を弄る。ほつれて床に落ちる白い糸。無言が続いた。
「……辛気臭い。別に、喜ぶべきことじゃないか」
ぶっきらぼうに言ったウリエルの声も何だか覇気に欠ける。
喜ぶべきことだというのは、わかっているのだ。主の近くに侍ることは名誉、与えられた仕事に生きる意味があるはず。
けれど、だ。ついこの間まであんなに小さかった天使が大天使となる、それはとても信じがたいことのように思えた。大天使というのは私を除けば天界の最上位たる役職。他の天使を治め、天界の中心的な執務をこなし、祝福までも施す。そんな大きな役割。
「……泣き虫だったのになぁ」
ぽつりと。苦笑したラファエルの言葉は私達の思いを代弁していた。私がついていてやらなければ、しっかり面倒を見てやらなければ。いっそ心地好いほどの義務感は、どうやらもう次第に不要になっていくようだ。
再び、ため息。
私はゆっくり立ち上がり、書類もそのままに部屋の出口へと向かう。無言で追ってきた視線には言葉を投げて。
「少し出てくる」
さて――ミカエルには、何と言おう?
***
「マルコ」
会議の場を後にしたは良いものの、いまいち気持ちが定まらぬままふらふらとやってきた武具庫――稽古用の模擬剣がしまってある倉庫で、私はここ最近話す時間が増えた剣士を呼んだ。整理と点検を行っていたらしい彼がまた膝をつこうとするのを手で制し、私の方から向こうに近寄った。
「ご苦労様。今日の《神軍》の稽古は」
「問題なく。ベルゼブブ様がいらしてますから」
ああ、そんな話もしていたな、あの《代理》は。だるい、とかぼやいていたくせに……はて、あれに剣が扱えたか? 無鉄砲に、振り回してはいないだろうな?
……。
怖いから想像するのはやめておこう。後で模擬剣の本数を確認しなければ。
「その……手の具合は如何ですか?」
眉を僅か下げ、心配してくれるマルコシアス。視線は真っ白な我が右手に。平素と同じだとは言い難い。が、今それを言ったところで更に彼を不安にさせるだけ。これしきの痛みに耐えられずして、主の願いを叶えて差し上げることはできないのだ。
「大丈夫だ。ラファエルに釘を刺されたからな、少し長めに様子を見ているだけで。……ところであの子の調子はどうだ? たまにしか行ってやれていないのだが」
軽く軽く本題を掠める。するとマルコシアスは複雑そうな表情をしてみせた。何と言うべきか躊躇っているらしい。なるほど、十分だ。私はそれで理解し、息をそっと吐き出した。
「……やはり、難しいか」
「ええ……」
腕に抱えた模擬剣の束を棚へとしまい、誠実なその剣士はどこか浮かない表情。
「技術に関しては申し分ありません。素直な御子ですから」
あれからというもの、ミカエルは懸命に稽古に取り組んだ。マルコシアスの指導のおかげか、はたまたやはりあの子は特別なのか――とにかくその上達には目を瞠るものがある。
しかしミカエルには致命的とも言える弱点があった。
「腕は良いのです。けれど、まだ剣を他の者に向けることに抵抗があるようで」
そう……あの子は“優し過ぎる”。
それは傍から見ていてもわかる。マルコシアス相手に練習する時でさえ、どこか戸惑い嫌がる様子が見てとれるのだ。逡巡の隙に間合いを詰められたのを見たのは、決して一度や二度のことではない。
「慈悲の心、他を想う気持ちは元来我々が持つもの……いえ、むしろそれこそが天使の存在理由でもあります。しかしあの優しさはいざという時、命取りになるかと」
剣の道を極めたいと願う彼だからこその言葉。命取り……完全に正しいとは言えないが、もっともな言ではある。ましてミカエルが大天使となるのだとすれば尚のこと。ひとつ頷く。
「私もその点は気になっていた。ミカエルは本当に優しい子だ。その優しさが損なわれるようなら剣は持たせないつもりだった」
しかしそれをあの方がお望みならば。
「……だが恐らく、ミカエルはまだ“守る”ことが痛みを伴うことだと理解していない。あの子は、その痛みを知らねばならない」
ふたつのモノが相反する時。己の信念を無傷で貫けるほど、世界は緩くできてはいない。良くも悪くも、意志あるところに力は生まれる。
「少し厳しくしなければならないか……」
呟いた途端、何故かマルコシアスが吹き出した。珍しいこともある。というか、どこで笑ったんだ?
「マルコ?」
「す、すみません……ルシフェル様の彼に対する“厳しく”とは一体どの程度かと思いまして、つい」
……そういうことか。私はどう見られているんだ、まったく。
「私とてやる時はやるのだよ。それにミカエルはもう――」
勢いで口をついて出たが、それでも一瞬迷う。青い双眸が怪訝そうに私を見た。
一足先にマルコシアスに言うくらい構わないかもしれない。もうじき宮殿中の話題になるだろうから。
「マルコ。……ミカエルが大天使に任ぜられることが決定した」
「え……!」
瞬間、目を見開き、次いで彼は穏やかに微笑んだ。曇りのない笑顔。彼もまたあの方に全幅の信頼を置いていることの証。
「それはおめでとうございます。心よりお慶び申し上げます」
大天使達とはまた違う反応を返される。
よろこび、か。
口の中でその言葉を転がしてみた。きっとそうなのだろう。これは祝うべき事柄で、だから、私もあの子の背を押してやらねばならない。それが“正しい”気の持ち方なのだ。拭えない一抹の切なさは、単なる私の我が儘になるのか……。
「ならばこの問題も少々切実になりますね」
「そうだな……」
いよいよ覚悟を決めねば。私も、あの子も。
「……すまない、邪魔をしたな。今ミカエルはどこに?」
「いつもの中庭かと。自主練習すると言っていましたから」
「そうか、ありがとう。その――」
言葉を続けるより先に、目の前に一振りの模擬剣が差し出された。驚いて顔を上げると強気な光を宿した青い目に、明るい笑顔。
「くれぐれも無理はなさいませんよう。――行ってらっしゃいませ、ルシフェル様」
全て見通しているであろう真っ直ぐな眼差しを暫し見つめ。やがてその手から剣を受け取り、しっかりと握りしめる。私も彼に向けて口端を上げてみせた。
「行ってくるよ、マルコ」
向かうは庭園。そこにいるであろう、あの天使に会いに。