Old Lomg Since【 M-7 】
“素振りを日に百本”――
それが、マルコ……マルコシアス先生からの課題だった。
百、なんて最初はすごい数だと思ったけれど、実際にやってみるとあっという間だ。むしろ全然足りないのじゃないかと思うくらい。でもマルコは、
「回数ではないのです。一本一本を丁寧にこなすことが上達への近道」
と言っていた。マルコの剣の腕はかなりのものだと聞いていたし、あの青い瞳でまっすぐに見つめられると自然に、ああこのひとは正しいんだ、と、そんなことを思ってしまう。
マルコの目は、好きだ。
まっすぐで強くて正直で。彼は絶対にこちらの目を見て話してくれるし、変に遠回りな言葉も言わない。天使長の弟である自分に対して物腰は丁寧だが、だからといって子供扱いはしない。
本当ははじめましてだったのに、少し会話を交わしただけですぐに彼のことが好きになった。それもあって、剣術の稽古は結構楽しみだったりする。
今日は稽古はお休み。でも早く上手くなりたいから、ひとりで素振りをしている。宮殿には中庭がたくさんあるから、大概は貸し切り状態になってしまうのだ。まして普段世話してくれる天使もこの場にはいない。というか、自分がそうお願いした。彼らもあまりやることがなくて退屈だろうし、見られていると緊張するから。中のひとり……ヴィンセントが、少ししたら迎えに来てくれると言っていた。
手の位置、構え方、振る角度、刃の向き、呼吸。
色々と気を付ける点があって、一本毎に考えてやると、やっぱり難しいし疲れる。マルコの言う通りだ。
銀色の光は模擬剣といえど冷たくて、鋭い。
――これが、誰かを傷つけるんだ。
そう思うと怖い。とても怖い。けれど剣は主がお与えになったものだから、兄が奨めてくれたから。余計なことは考えないように、ぶれる手に必死で力を込める。早く立派な天使になりたい。兄に追い付きたい。
その兄は。実はまだちゃんと稽古をつけてくれたことがない。マルコとの練習中にふらりと現れて、少しばかりの指導をしてから、すぐに仕事へと戻ってしまう。姿勢を直される時に後ろから包まれて……ちょっぴり胸が弾むけど。いつも多忙な兄は、最近更に忙しいのだそうだ。《祝福の儀》があるとか、地獄との使節交換が何とか。……難しい。
そういえば、兄は手を怪我していた。片手は包帯ぐるぐる巻き。《神軍》兵士の指導は休んでいるのだとマルコが言っていて、よほどの怪我じゃないかと心配した。けれど兄本人は「平気だ。少し慣れない動きをしたからな」と苦笑い。後でラフィのところへ行って、何か役立ちそうなお薬をもらってこようかな。
『――ミカエル君!』
その時。唐突に自分を呼んだ声は、明らかに兄のものでもマルコのものでもなかった。少し渋くて、それでいてよく透る声。
振り返ってみると、廊下から中庭に出てくるメフィストフェレス先生の姿が見えた。右手には編み籠、左手には取っ手の部分がくるっと曲がった杖。どこかへお出かけするところなのかな。
「メフィ先生!」
そのまま駆け寄ろうとして、思い直し、きちんと鞘に模擬剣を収める。大きくなったのだし、礼儀はしっかりしないと。
まだ慣れなくて少しもたついていたら、先生は弾むように軽やかな足取りで、瞬く間に自分の目の前までやって来た。
「久し振りな気がするねぇ、ミカエル君」
「お久し振り? です、メフィ先生っ」
やっと剣を収め、視線を上げた。優しげな眼差しに自然と顔が綻ぶ。礼儀講座が終わってからは滅多に話ができていなかったから、本当に、嬉しい。最後に会ったのは、ついこの間のことではあるけれども。
「大きくなったねミカエル君。我が輩も嬉しいよ。両手が塞がっていて抱き締められないのが残念だ」
メフィ先生の前だと、自分はすごく子供になってしまったみたいな気がする。もちろん嫌じゃない。いっぱい甘えられそうだ。でもちょっとだけくすぐったいような。
「練習中にお邪魔だったかな? これを届けに行く途中で、たまたま姿が見えたから寄ったんだが……」
軽く掲げられた籠。自分は勢いよく首を振って。
「いいえ、お会いできてとっても嬉しいです! ……えと、メフィ先生、それは何か聞いてもいいですか?」
「ああ、これはだね」
籠の中を覗き込む。そこには色とりどりの……
「お茶会で余ったお菓子だよ。甘いものが好きなルシフェル君にあげようかと思ってね。良かったらミカエル君もどうかな」
「ありがとうございます。今、休憩しようと思っていたところなんです」
お茶会……。先生主催で行われているとよく聞くけれど。このひとのお仕事って、一体何なのだろう? そんなことを一瞬思った。でも確かにこれだけのお菓子をもらったら、兄はとても喜ぶに違いない。
模擬剣を両腕で抱えて少し歩き、そして先生と一緒に丸木に腰を下ろした。ふわりとお菓子の甘い匂いがして、動いたばかりなのにいっぱい食べられるかも、と感じる。
「どうだね、剣術の稽古は」
籠からひとつお菓子を取り出してメフィ先生が尋ねる。木の実が入った素朴な焼き菓子だ。入殿するより前にも食べたことがある。あの頃は、友人達と取り合いになったっけ。
「んと……、大変ですけど、でも、楽しいです。何だか自分がとても強くなった気がして」
「ふむ、そうか」
「マルコシアス先生のことも、好きです」
「ああ、」
くっくっ、と初老の紳士は笑う。髭を軽く撫でるのは、何かを思い出そうとしている時の先生の癖だ。
「そうかそうか、マルコシアス君か。彼は非常に優秀だったね」
「マルコにも、教えたことがあるのですか?」
「もちろん! 実に気持ちの良い紳士だったよ、彼は。……ベルゼブブ君とは大違いだった!」
思わず笑う。失礼だけど、あの目付きの良くない友が真面目に指導を受けたとは思えない。きっとメフィ先生も手を焼いたのだろう。
手渡されたお菓子を頬張りながら色々なことを考えた。色々なことを、思い出した。
「先生はみんなに礼儀作法を教えたことがおありなのですか?」
「ふーむ。そうだね、ここの天使達はほとんど全員が我が輩の“生徒”だった」
「では……ベリアルは」
どうしてそんなことを聞きたくなったのかはわからない。ただ何となく。不思議な彼について少しだけ知りたいと思ったから。
メフィ先生はしばらく固まっていた。が、やがてゆるゆると髭を撫でる手が再び動きだす。
「……彼を教えたことはあるよ。非常に……非常に変わった天使だった」
「ベリアルは他の天使と違うと思いました。でも、怖いくらいに美しかった」
あの笑みを思い出すだけで背筋がざわりとする。
「怖いくらいに、ねぇ。なるほど。ミカエル君は彼のこと、好きかね?」
「わから、ないです」
それは正直な感想だった。好きとか嫌いとか、そんな感情はあまり抱かなかったような。ただあの美しさだけが強く印象に残っている。
「メフィ先生は?」
尋ねると、先生もちょっぴり困り顔。
「嫌いではないが……苦手かもしれない」
何だかわかる気がする。メフィ先生にも苦手な相手がいるんだ、と意外だったのは本当だけれど。
「……しかし安心したよ」
「へ?」
やがておもむろに立ち上がるメフィ先生。安心?
「ミカエル君が元気で。優しい君のことだ、剣を持つのは辛いかと思って心配していたのだよ」
はっとした。“また言われた”――咄嗟にそんな感想がよぎる。
上手く笑い返せずにいたら、やっぱりメフィ先生も不思議そうな顔。身を屈めて覗き込んできた。
「ミカエル君?」
「先生、あの……」
“優しすぎる”、とよく自分に言うのはマルコシアスだ。その困ったような表情に、言葉の実際の意味は違うのだろうとだんだん悟るようになった。正直な彼は隠し事ができないから。
だから……自分では剣が向いていないのではないかと時折思うのだけれど。そう言ってみると首を振られるから頑張ってはみるものの、やはりどうしても刃を他人に向ける自分の姿が想像できない。
一体何故、兄は自分に剣を教えると言ったのだろう? 少しだけ、心の片隅にあった疑問。メフィ先生に話してみたくなった。答えが欲しくなった。
「剣を学ぶのは楽しいです。ほんとに、嫌いじゃないのです。でも……でも僕は、本当に剣を持つべきなのでしょうか? 僕は立派な天使になれるのでしょうか……?」
不安は一度吐き出したら限りがなくて。メフィ先生が制してくれなかったら、ひょっとするとまた泣いてしまったかもしれなかった。
「落ち着きなさい、ミカエル君」
恥ずかしくなって口をつぐんだが。紳士はどこか楽しそうに微笑んで身を翻す。
開けた視界。宮殿の廊下までのまっすぐなそこに。
「あ……!」
「その答えは、彼に聞いた方が早いと我が輩は思うよ」
杖で、くにゃりと空間に描いた円の縁に片足をかけたメフィ先生。
その姿が消えた向こう……剣を携えた兄が、庭園の入り口に佇んでいた。